愉悦部夫人、自作神話をばら撒いてみた
私はこの世界が割と好きで普通に嫌いだ。
嫌いな理由は山ほどあるが、まとめるなら厳しい封建制度という根本的な価値観の違いだろう。
好きな理由はとても他人には言いはばかられる。つまりは秘密だった。
そうだったのだが、巡り巡って幸運が降り注いできた今なら密かに明かせる。
「私は君を、妻として愛することはない」
私にとってこの世界は、壊れても構わないおもちゃみたいなものだから割と好きなのである。
由緒ある伯爵家に生まれた娘──ファイラワー・マスカレイドである私は、出生から不幸だった。
一夫多妻制が認められたこの世界で、私は第二夫人の娘として生まれた。正妻の子をサポートするという役目を生まれる前から負っていた私だったのだが、その計画は始まりすらせず頓挫する。少し早く生まれるはずの正妻の子が流産で死んだからだ。
そもそも第二夫人自体が政略によって結ばれた関係。大恋愛の末に正妻と結ばれた当主からは疎まれており、不幸が重なった結果その扱いはより酷くなった。
極め付けは、私が伯爵家当主にも母にもあまり似ていなかった点だろう。数年後に生まれた正妻の子である腹違いの弟の存在も、私の不幸に拍車をかけた。
父に愛されることもなく、母に愛されることもない由緒正しい貴族の子ども。
私に前世の記憶が無ければ、愛を知らないが故に爆誕する稀代の悪役令嬢として名を馳せていたことだろう。この世界に原作があるのかは知らないが。
時を戻して現在。十六歳の誕生日を迎えてすぐのこと。
恐ろしく容姿の整った男の前に立つことになった経緯も急展開といえるものだった。
端的に言えば、実家から売り払われたのだ。
女関係について、あまりよろしくない噂がある他国の辺境伯家跡取りに、生贄兼厄介払い兼国益のためにと差し出されたのが私です。
どうもありがとうございました。
「確認いたします。その言葉はどういう意味でしょうか?」
鷹のように鋭い眼光を放つ男の言葉を聞いて、私は思う。神展開来たかこれ。
貴族家跡取りとしてはゴミカスな宣言をした男──ヴィニエント・ミノクレカは淡々と続けた。
「そのままの意味だ。私は君を愛することはない。君も私に対して愛を求めようとするな。私が正式に当主になった後も、君には書類上の妻としての役割以上を任せるつもりはない」
「あら、それはまた酷いことを仰いますね」
せっかく垂れてきたかもしれない蜘蛛の糸だ。少しでも頑強にするために舌戦に励もうではないか。
「ご存じないのかもしれませんが、貴族の娘である私に今の宣言は死ねと言っているようなものなのですよ? そのあたりはどうお考えで?」
「……度を越した行為や振る舞いでなければ、辺境伯夫人としての地位と金銭を約束しよう」
「神展開キタコレ!」
「なんと言った?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
だ……駄目だ。まだ笑っちゃ駄目。こらえるのよ私……。交渉は終わっていないんだから。
ぴくぴくと震える口角を、今世で鍛えた令嬢の嗜みで必死に押さえ付ける。
「つまり次期辺境伯様はこう仰りたいのですね。私に身分と金と自由を与えるから、書類上の妻となれと。一応確認しますが、世継ぎはどうされるのですか?」
「君は気にしなくて良いことだ。もちろん、君が産むことはない」
「なるほど、分かりました。では、諸々を含めて契約書としてまとめましょう」
「……なんだと?」
ここで初めてゴミカスが大きな反応を示すが、私は至極不思議そうに首を傾げる。
「なにか不都合でも? 条約締結の際にお互いの意見をすり合わせるのは当然のことでしょう? 我が祖国は別に、王国に敗戦したわけではないのですから」
「……いいだろう」
不平等条約を結び気は全くないという私の意図を読み取ったのだろう。ゴミカスは最終的に契約書を作成することを認めた。
こうして、私たちは書類上の夫婦になるにあたってのルールを整備したのだ。
相手に負い目がある状況である。私は分捕れるだけ分捕ってきました。
何をかって? そんなの決まっている、お金だよ!
前世の私は何の変哲もないただの社会人だった。強いて特徴をあげるならば、愉悦部という概念的な部活動に加入していたと自負していた点だろう。
愉悦部とは各々の趣味嗜好に沿った、自分だけの愉悦を求めて活動する者たちの総称である。少なくとも私はそう思っている。この造語が生まれた作品だと愉悦部員が平気で他人を殺害したりするため、私は真の愉悦部員とは言えなかったが。
私の愉悦は、世に溢れる小説や漫画をちゃんと読んで独善的に批評することだった。
……うわこいつちっちゃ。とか思ったやつ。覚えはしない。
でも絶対に忘れない。
面白いと思った作品にケチは付けないから! なんでこんなのが人気なんだろう……って思った作品だけをちゃんと読んだうえで批評してるから! その批評に同意が集まる快感にハマっただけだから!
元々は私も読み専だったわけではない。ネットの海に自作小説を流していたこともある。
全く日の目を見ることなく水底に沈んでいった記憶しかないけど。
とにかく、そんな前世を過ごしていた私がこの世界に転生したのだ。封建制度でがちがちに固まった不自由で息苦しいこの世界に。
この世界は典型的なファンタジー世界の一つだと思っている。魔獣がいて、瘴気が生物を脅かしていて、天与と呼ばれる不思議な力を使える。
うん、設定だけなら大して面白みもない世界だ。
実際に生きるとなると話は別だったが。
文明レベルは低い、娯楽はない、ご飯は美味しくない。
毎日することは勉強、勉強、勉強。
貴族の勉強、派閥の勉強、家同士の繋がりの勉強。
マナーを学び、ダンスを学び、社交界の礼儀を覚える。
父親の冷たい視線に耐え、メイドや執事からのぞんざいな扱いに耐え、実の母親からの暴力に耐える。
いつか絶対に復讐してやる、という仄暗い気持ちに薪を継ぎ足され続けてきた。
結果、真の愉悦をこの世界に齎してみせると誓ったのだ。これを八つ当たりという。
なーに、方法もちゃんと導き出しているさ。こういう時に役立つのが前世の記憶と相場は決まっているのだから。
情報伝達手段に不足があり、その真偽すらも労力を費やさなければ判明しないような時代で、人々が拠り所にするものは何か。
金と信仰だろうと当たりを付けた。
金は俗物的なもの。貴族であり続けられるのであれば、いつかは手に入る。私の唯一にして最大の幸福は貴族だったことだ。
では、信仰を生み出すために必要な才能とは何か。権力? 財力? カリスマ? そうではない。
物語を作り出せる才能だと、私は考えた。
信仰の背景には神話という物語がある。人々は神話から神という偶像を崇拝し、その神の教えがまとめられた宗教を信仰するのだ。
この世界においても唯一神の一神教が信仰されており、ファンタジーに相応しく一つの国家が形成されるほど強大な権力を教会が握っている。
そして、教会は腐敗の温床となっていた。
善にして正である聖なる唯一神を信仰していようとも、この世界には不幸がこれでもかと蔓延っている。被害者になるのは平民や貧民で、貴族や教会上層部は温かく涼しい部屋で我関せずと贅沢を貪っているのだ。
チャンスだと思った。私の天与の異能も相俟って、大博打を打つのにこれ以上ないシチュエーションだと腹を決めた。
だから私は、いつの日からか神話の設定を考え続けてきたのだ。
自由を手に入れた、この日のために。
用意された離れという名の隔離屋敷。
寝室で一人になった瞬間、私は歓喜に打ち震えていた。
「くく、くくくっ……あははははははは!! やった、やった! ついに舞台が整ったー!」
身分! 金! そして自由!!
この世界に生れ落ちた私が欲しくてたまらなかった三つが、何の苦労もなく手に入ってしまった。
なんと素晴らしき僥倖。これまで惨めな思いをし、あらゆる意味で辛酸を舐めさせられた日々に耐え忍んだご褒美に違いない。
大事に仕舞いこんで持ってきた一枚一枚がボロボロな紙束を取り出して、私は行動に移す。
「真の愉悦を、この世界に!」
生家では迂闊な行動を取れなかったため、自作神話という小説なんか書けなかった。あるのは私にしか分からない文字で書かれたボロボロのメモのみ。
しかし、ここには世界が詰まっている。
このくそったれな世界に真っ向から喧嘩を売る、異端審問やら神聖裁判やらに掛けられれば極刑間違いなしの禁書の原文が。
「よーし、やるぞー」
辺境伯家の一員となった夜から、私は潤沢にある紙とインクを使って神話の総仕上げと編纂を開始した。
正直、この世界の唯一神の名前を聞いた瞬間には構想が出来上がっていたんだよね。だって名前がアザトースだよ? 絶対に邪神じゃん(偏見)。
というわけで、私の神話の始まり始まり~。
えー、まず神様は概念ごとにいっぱいいる設定です。多くの神様がいるなかで、一つの神のみを一貫して崇拝する排一神教ってやつだね。んで、いわゆる最高神なんだけど、私はこう名付けました。
感謝の神──アザス!!
これはもう完璧と言わざるを得ないネーミングセンス。
概念的にはいても全くおかしくないし、あらゆる点で書きやすく分かりやすい。神への感謝、自然への感謝、概念への感謝、隣人への感謝。教えも一本筋の通ったものとなって、学が無くとも感覚で理解できるだろう。
アザスの他の神は善神もいれば悪神もいる。というよりかは善神にもなるし悪神にもなるが正しいか。人々が感謝を込めれば善神として答え、人々が感謝を忘れれば悪神として天罰を下す。この天罰にはやっぱあれだよね、人類大粛清の大洪水を盛り込むべきだよね。原初は神への感謝に溢れていたが、時が経つにつれて人々は感謝を忘れていく。そのうち一部の神が大激怒。アザスも止められず、人類の中で最も信仰心に溢れていた特定の人間にのみ事情を伝えて生き延びたという数々の神話で取り上げられたあのテンプレ。ノアの方舟はロマン。
瘴気は……神の悪感情によって生まれた淀みってことにしよう。太古より魔獣は瘴気によって生まれ、アザスはその対抗策として半神半人の英雄を作り出す。うんうん、このマッチポンプ感が神話の醍醐味だよね。
神話でも一夫多妻制を採用します。まあ神の場合は男同士でも子供出来たりするし、えぐられた目玉が新たな神になったみたいなパターンもあるけど。
あとはアザスの正妻ポジションの女神か。ヘラみたいなメンタル、略してメンヘラの語源になった女神(嘘)くらいキャラを立てないとね。司るのは愛と母性と嫉妬。直系の三柱の子どもには理想的な母で、それ以外のアザスの子どもには苛烈で理不尽な悪神。神も人間と同じで情緒があると、その分親しみも持てるというもの。正しいだけじゃ人はついてこないのだ。
大体アザトースの神話というか逸話は手抜きすぎ。天地を創造した全知全能の神以外に神話的なエピソードを聞いたこと無いし、流布されている逸話も過去の大災害はアザトースによって鎮められたとかそんなんばっか。そんなに凄い神なら瘴気ぐらい何とかしてみろー。大陸の三分の一が瘴気に覆われてるとか普通に末期だろうがこの世界!
というわけでアザトースくん。きみは正真正銘の悪神とします。元々は異邦より訪れた神で、呼称はvisitから取ってヴィジトースです。
アザスはヴィジトースを快く迎え入れるが、あっさり裏切られて吸収される。最高神を失った他の神々も次々とやられるなか、直系の三柱の神は母女神によって難を逃れ人間界に。
一方その頃。人間界にも瘴気が満ち溢れ大惨事。最強の魔獣が誕生し、半神半人の英雄と三柱によってなんとか討伐するも、その戦闘で英雄は死亡。魔獣の置き土産は人間界を滅ぼせるほどの瘴気を爆散させることだったが、自身を媒介にした三柱の封印によってなんとか大陸の三分の一に留まった。
こうしてヴィジトースは最高神を乗っ取り、名前をもじってアザトースに改名。
以降の人々の信仰を掠めとって今に至る、と。
大筋はこんな感じで、あとは要所要所に教訓となるような神と人間の愉快で愚かで残虐な神話を散りばめれば……。
「できたー!!」
儀式的な結婚をしてから苦節一か月。ようやく原稿を完成させた私は最初から読み返して思う。うんうん、ほぼほぼ二次創作だね。でもこの世界だと私が先駆者だから問題ない。
これだとアザス敗北の神話で終わってしまうが、私の復讐はこの続きを記すことで始まる。
現代にどうやって影響を及ぼすのかって? それはその時になってからのお楽しみだよ!
あとは装丁を素人仕事で整えて、タイトルをドカンと書いて、巻末にちょっとした仕掛けというかスペースを無理くり作って……。
「完・成!」
この世界への反逆、いや、真の愉悦を齎すための第一歩が、ついに出来上がった。
学識ある人がこれを手にすればツッコミどころ満載だろうが、ターゲットは富裕層ではなく救いを求めている民だからノーマンタイ。
あとはこれをばら撒くだけ。
そうなのだが、ここまでくるとどうしても考えてしまう可能性がある。
「読まれずにゴミにされるのは嫌だなー」
前世でもそうだった。自作小説を書きあげてネットの海に流したところ、うんともすんとも反応されずに終わった苦い記憶。うっ! 頭と心がっ! 二次創作がうまくいったからと調子に乗ってオリジナル作品なんて書かなければ!! 誰にも読まれなくても書き続けられる、そんな根性も情熱もなかったんだよ私には。投稿する前は「人気になって書籍化とかなったらどうしよう!」みたいな妄想というか暴走が捗るのに、蓋を開けた時の虚しさといったら……。
だから私は読み専になったのさ。
ここは価値観が違うどころか世界が違う。大外れした結果、異端者として教会に目を付けられただけで終わる、なんてことにもなりかねない。というかその可能性の方が大きいまである。
「まっ、世に放つのは決定事項なんだけどね」
愉悦心と承認欲求と復讐心がブレンドされて、もう止まれない。
もちろん、馬鹿正直に布教なんてしない。私も死にたくないからね。
ここで私の天与が生きてくるのだ。
「複製」
右手で持った本と全く同じものが、左手に現れた。素材や紙質、記入された文字まで瓜二つの複製品。
これが私の一つ目の天与。
普通の人間は天与を一つしか使えないのだが、私にその常識は通用しない。
複製された本の巻末の仕掛けにあるものを入れて、私はもう一つの天与を発動する。
「転送」
そこにあったはずの本が目の前から消え去った。この世界のどこかに転送されたのだ。
なお、正確な行先は知らない。天与を使用する際に消費する精神力の量で大まかな距離が決まるはずなので、今回は辺境伯領か隣接する領地のどこかだろう。
この二つの天与こそ、私が計画に踏み切った最大の理由。危険を冒さず、不特定多数に本をばら撒けるというネット小説もかくやという合わせ技。
なんで天与を二つ使えるのかって? 転生者だからじゃないですかね?
この日から、私は自作神話──アザス聖書をせっせと複製し世にばら撒き始めた。
見ていてください、部長! 私はやり遂げますよ!!
◇
異変に気付いたのは、ミノクレカ辺境伯領にあるアザトース協会の司教だった。
「寄付金と恵の草の収入が減っている」
民から奉納される寄付金と、民に売られているはずのとある商品の売り上げが目に見えて落ちていた。
司教は金の動きにしか注目していなかったが、実際は礼拝に訪れる民の数も激減していた。
一時的なものではない。これまで微かな増減はあったが、こうも明らかに減少しているのには違和感がある。
何か決定的な理由があるはずだ。
司教は嘆いていた。せっかく領民が多く収入も多い辺境伯領の所属になったというのに、自分が配属されてこのような事態になるなんて。
その嘆きに、民の信仰心の多寡は関係していない。副次的に減少した自身の収入への悲しみしかなかった。
調査に派遣されたのは、教会に所属する聖女と聖者の二人だ。
男女の違いだけで、聖女と聖者の公の役目に大差はない。瘴気の浄化が主な仕事である。
浄化の天与を発現した人間は、須らく教会に所属することになる。
全ての人間はアザトース教の信徒であるからこそ成り立っている構造。
その不変の構造に罅が入っていることを、教会上層部はまだ知らなかった。
「調査と言われても、何を調査すればいいのか」
聖者であるロドは司教からの無茶ぶりに溜め息を吐く。
突如として命令された調査内容は、民の心が離れつつあるかもしれないというお題目のもとに寄付金減少の理由を探れというもの。
ただでさえいけ好かない司教からの、憤懣やるかたない命令。
ロドのやる気は底辺を彷徨っていた。
「聖女フィアナは何かご存じですか?」
本日の相方である聖女フィアナは、ロドの問いに対し小さく微笑んだ。
「あら、聖者ロドは知らないのですか?」
「えっ、何をですか?」
「本当にご存じない様子。ダメですよ、領内の動きには敏感でなくては」
「それは申し訳ございませんでした」
歴も実力もフィアナの方が上である以上、ロドは素直に謝罪するしかない。
とはいえ、彼女のお陰でこの調査に光明が見えたのも事実。
「よろしければ蒙昧なこの私めに教えて頂けないでしょうか?」
「ふふっ、そこまでへりくだる必要はありませんよ。では、案内いたしましょう」
ゆらりと棚引く長髪を流して、フィアナは先導して歩き始めた。
迷いなく進むフィアナに付いていきながら、ロドは内心考える。
(聖女フィアナには心当たりがあるようですが、なぜそれを司教に伝えていないのでしょう……?)
ただの聖女や聖者によって、司教は上司。それも権力を笠に着た悪質な上司だ。
何か情報を隠していたと発覚した場合の不利益は大きいだろう。若く美しい聖女は不幸になる、これは教会に身を置く者からしたら公然の秘密であった。
ならいっそのこと懐に入ってしまおう、とい考える者も少なくない。
今回の件は、司教に取り入るには絶好の交渉材料になるかもしれないというのにフィアナは秘密にしている。
(余程嫌か、あるいは他の事情が……)
ロドが思考に耽る間、フィアナの脚は止まらない。
慣れた様子で領都を北に縦断し、いわゆる平民街に踏み入り、なおも北上を続ける。
歩き続けるほどに街並みが変わっていき、どこかを境にはっきりと雰囲気が変わった。
目的地に察しが付いたロドは、ぐんぐんと歩き進むフィアナに声を掛けざるを得なかった。
「せ、聖女フィアナ? ここは貧民街では?」
「そのような名称の街は存在いたしませんよ。ここも辺境伯領都ルオフェンです」
「たしかにそうなのですが……」
辺境伯領の北側は魔瘴領域に接している。
魔瘴領域とは大陸の三分の一を覆い尽くす瘴気に満ちた領域で、踏み入ればたとえ聖女や聖者であろうとも無事では済まない危険地帯だ。そこには多くの魔獣が生息しているとされ、この地が辺境伯領とされているのはそれが理由である。
貧民街とは領都の中でも魔瘴領域に近い住宅地の蔑称であり、やむを得ない事情以外で住み着いている人間はいないだろう。魔獣や瘴気の発生頻度も多く、その質も極めて危険。いつ生命が脅かされるか、分かったものではない。
そんな場所に連れてこられたロドは、明らかに腰が引けていた。
「なぜこのような場所に?」
「答えを求めるばかりではいけませんよ。まずは貴方の目で見て、貴方の頭で考えてください」
質問をはぐらかされたが、言っていることはもっともなためロドは改めて辺りを見回してみる。
(あれ……?)
違和感を覚えたのはすぐのこと。
通称貧民街であるここに住む人たちは満足な食事にありつけることも少ないため、総じてやせ細っているし治安も悪い。たった一つのパンを奪い合って殺人を犯すなど日常茶飯事、とまでは言わないが珍しくもなかった。
未来に希望が持てない者の目は暗く淀み、短絡的な快楽に身を任せる者もしばしば。
その筆頭とされるのが、大陸中に流通されている薬物──スマイリーだろう。
スマイリーは煙草として販売されており、摂取して得られる効果は三つ。満腹感、快感、そして強い依存だ。
貧しい者を標的に意図して開発されたと疑いすらあるスマイリーの猛威は凄まじく、この貧民街にもかなりの量が蔓延していた。
そのはずだった。
(子どもたちが、笑いながら駆けっこをしている……? 大人たちの眼も生き生きとしているし、ここは私が知る貧民街なのか?)
のどかであり、賑やかであり、活気がある。
子どもたちはちゃんとした服を着て遊んでいるし、大人たちは汗水たらして木材や石材を運んでいる。そもそも貨車があること自体が不自然なのだが、使い慣れた様子でせっせと働いているではないか。
そこらに凭れ掛かっている者もいなければ、道端に死体も転がっていない。
いくつかの建物は最近建て直したかのように新しく、ボロ小屋と比較すれば十分に立派な様相。
ロドが知る貧民街とは似ても似つかない空間へと、生まれ変わっていた。
「これは、いったい……」
「──えっ! 本当!?」
一人混乱するロドを他所に、子どもたちのひときわ賑やかな声が響き渡った。
「うん! 広場に使徒様が来てたの!」
「早く行かないと! 炊き出しが貰えない!」
「みんなに知らせてきてって言ってたよ! 手伝って!」
「うぅう~、分かったよー」
二人の会話を聞いていたフィアナは、満面の笑みを浮かべていた。
「まあ! 今日はファイラワー様がいらっしゃっているのね、幸運だわ!」
「ファイラワー様?」
「……貴方、もしかしてそれも知らないかしら?」
冷たい圧がフィアナから発せられた。
「知っています、もちろん知っていますとも!」
フィアナのあまりの豹変ぶりに冷や汗が滲んだロドは必死の口調で弁明する。これは嘘ではなく、本当に知っていた。
この辺りでファイラワーといえば、辺境伯夫人しかいない。およそ一年前に辺境伯の引継ぎがあり、そのお披露目の際に見たことがある。貴族に相応しい美しい女性だった、ということくらいしか覚えていないが。
「そ、その、なぜファイラワー様のお名前がこんなところで?」
「それは見れば分かりますわ」
心なしか足取りが軽くなったフィアナに付いていくと、辿り着いたのは貧民街にしては妙に整った広場。
その一角には溢れんばかりの人が集まっており、近付けば近づくほど笑い声が聞こえてくる。
ふと、腹を刺激する香ばしい香りが鼻を突いた。
「この香りは……」
「今日はクリームシチューのようね。あれも絶品だわ」
「クリームシチュー?」
聞き覚えのない何かだ。おそらくだが、この香りを発している食べ物か何かのことだろうと推測できる。
ロドは自然と唾を飲み込んでいた。
人だかりは二種類。列に並んでいる者と、片手で持てる木鉢によそわれた何かを幸せそうに食べている者だ。先ほどの子どもの会話と現在の状況を見れば、誰かがここで炊き出しを行っているのだと分かる。
では、どこの誰が?
その答えも容易に導き出せた。
列には並ばずに先に進むフィアナのあとを追うと、やがて見えたのは簡易的な石造りのかまどに大きな鍋がいくつもある光景。
そのうちの一つの傍に立って鍋の中身を木鉢によそっている女性は、貧民街にいるはずがない貴婦人で。
ファイラワー・ミノクレカ辺境伯夫人が、そこに立っていた。
「はい、熱いから気を付けてね」
「ありがとう、使徒様!」
手慣れた様子で民に炊き出しを行うファイラワー。受け取る者は子どもから大人まで満面の笑みを浮かべている。
ロドが見る限り、ここには少し離れた場所に住んでいる平民街の者もいるようだ。普段は近付きもしないはずなのに、今はそういった垣根もなくみんなが笑いあってお喋りに興じていた。
「ファイラワー様!」
「あら、フィアナ。お疲れ様。今日はお勤めではなかったかしら?」
「はい。寄付金と恵の草の収入が減った理由を調べろと、司教から命が下りました」
「そういうことね」
はぁ、とファイラワーは大きなため息をこぼす。その仕草には困惑というよりも、諦念や呆れといった感情が多く含まれていた。
不意に目が合った。
「そちらの方は?」
「今回の調査の同行者の聖者ロドです」
「初めまして、聖者ロド。私はファイラワー・ミノクレカよ。家名で呼ばれるのは好きではないから、ファイラワーと呼んでちょうだい」
「お初にお目にかかります! 自分はロド、聖者として働いております! よろしくお願いいたします!」
「ええ、よろしくね」
平民上がりの聖者と、れっきとした貴族である辺境伯夫人の立場はどちらが上なのか。そんなものは言うまでもない。たかが聖者にこれだけ丁寧に接してくれるファイラワーの方がおかしいとさえ言えた。
「それで、その、ファイラワー様はいったい何をされているのでしょうか?」
「見て分からない? 炊き出しよ」
「いえ、それは見れば分かるのですが……なぜ辺境伯夫人が炊き出しなんて」
「あら」
たった一言。
その一言だけで、空気が一気に冷えた。
広場にいる全員にじっと見られている。
冷たい針を何本も突き付けられているような圧迫感がロドを襲った。
「アザトース教の教義や戒律に、貴族が炊き出しをしてはいけないなんて教えがあったかしら?」
「あ、ありません……申し訳ございませんでした! 出過ぎた発言でした!」
身体を震わせながら、ロドは即座に頭を下げる。直角以上に曲げられた腰が、本人が感じた恐怖を物語っていた。
ファイラワーが穏やかだからと、ロドは失念してしまったのだ。貴族というのは、失言一つで自らの首を飛ばせる相手だということを。
恐怖に震えながら自分の足と地面を見つめていたロドに降り注いだのは、慈しみに富んだ声。
「ふふ、そんなに怯えないでちょうだい。私が悪者みたいじゃない」
「──今のはファイラワー様がいけないと思いますよ」
新たに聞こえてきた男性の声に、ロドは聞き覚えがあった。
「えっ……?」
「聖者ロド、そう怯える必要はない。あれはファイラワー様の戯れに過ぎない」
現れたのは美丈夫だった。黄金に輝く髪を靡かせた、彫刻のように眉目秀麗な容貌。簡素な服の上からでもわかる鍛え上げられた肉体は大きく分厚い。腰に携えられた剣だけを見れば傭兵と勘違いしそうになるが、その佇まいからは神聖な気配を感じられる。
それも当然のことだ。彼は最強と謡われる聖騎士なのだから。
「聖騎士アレクシス様!?」
「そんな大仰に呼ばないでほしい。私はただのアレクシスだ」
ロドの肩に手を置いたアレクシスはにこりと笑った。
聖騎士とは浄化の天与を持ち、なおかつ魔獣と戦えるほどに修練を積んだ聖者や聖女を指す。強大な魔獣を打ち滅ぼせる彼ら彼女らの無力は凄まじく、民を守る象徴として人気も高い。
その中でも聖騎士アレクシスは最強と名高い男だ。彼一人で苦境であった戦線をひっくり返したという武勇伝は、吟遊詩人に歌われて広く知れ渡っているほどに。
「なぜ、アレクシス様がここに?」
「ファイラワー様の炊き出しを手伝っているんだ。今日はオフだったからね」
「は、はぁ……」
すでに満杯を超えていたロドの頭の許容量はこの時点で溢れ出しており、抜けた感想が口から漏れ出てしまった。
そんな彼を気遣ったファイラワーが一杯のクリームシチューをよそった。
「これを食べてください。温まりますよ」
「えっ、いいのですか?」
「はい、もちろんです」
「ファイラワー様、お手伝いさせてください」
「ありがとう、フィアナ。よろしくね」
「ファイラワー様、私にも何か役目を」
「アレクシスはいつも通りのことをお願い」
それだけの会話で彼らが気安い関係なのだとロドには分かった。それこそ、一日二日の関係性ではないことを。
渡された木鉢によそわれたのは、色とりどりの野菜が煮込まれた白いスープだ。スープというにはとろみがあり、ロドは今までに見たことがない食べ物だった。
漂う香りは素晴らしく、否応なしによだれが出てしまう。
木製のスプーンで一口すくって、ロドは初めてクリームシチューを口にした。
「う、美味い……!」
衝撃的な美味さであった。
土台となるのは牛の乳。それをベースに多くの野菜や肉が煮込まれたことによって濃厚な味となっており、スープでありながら食べ物というある種の矛盾を孕んだものになっている。あくまで素人の舌なので他にも様々な工夫があるのだろうが、ロドとしてはただただ美味しいという感想しかない。それこそ、今まで食べてきたものの中で一番美味しいと言えるほど。
スプーンを持つ手が止まらず、絶え間なく口にクリームシチューを運んでいく。
あまりの美味しさに、ロドはあっという間に食べきってしまった。
「聖者ロド、木鉢はあちらの女性陣にお渡しください」
「は、はい」
フィアナの言うとおりに木鉢を渡す。どうやら給仕や皿洗い、調理や護衛と分業制で炊き出しを行っているらしい。
お金がないと、到底できない行いだ。
「聖女フィアナ、手伝います」
「ありがとうございます」
「……ファイラワー様は、なぜ炊き出しを行っているのでしょう? それだけではありません。ここら一帯の整備もしていますよね? 相当な資産をつぎ込んでいるように思えますが」
ロドは平民街の出身であったが、お金に余裕があるわけではなかった。
浄化という天与に恵まれたためこうして聖者として働き、家族にひもじい思いをさせない程度には賃金を得ていたが、裕福とは決して言えない経済状況。時に瘴気の発生地に出向き、細心の注意を払って浄化に挑む。命の危険が少なからずある仕事でありながら、対価は安く扱き使われている。聖者など所詮使い捨ての道具なのだと、ロドが自覚したのは最近ではない。
だが、貴族や司教は違う。ろくに働いてもいないのに得る金銭は膨大で、贅沢と快楽の限りを尽くしている。ロドはそう思っているし、実際もそうであった。
期待するのはやめて、されど不満は着実に溜まっていく。
そんな状況で知ったファイラワーの善行は、ロドにとっては違和感しかない。
彼の複雑な心境を察したのか。
フィアナは真剣な眼差しでロドを見据えた。
「聖者ロド。貴方には真実を知る覚悟がありますか?」
「真実、ですか?」
「はい。なぜ聖騎士アレクシス様がファイラワー様に付き従っているか、なぜファイラワー様が子どもたちに使徒様と呼ばれているのか。なぜファイラワー様が炊き出しやこの街の整備に取り組んでいるのか。全てはこの世界の真実に関わってきます」
「この世界の、真実……?」
何気ない会話のつもりが、とんでもなく大きな何かに触れてしまった。
ロドの動揺を悟ったのか、フィアナは重ねて続ける。
「私も人を選んでいます。聖者ロド、貴方であれば真実を受け入れ、戦うことを決心できると確信しています。私や聖騎士アレクシス、ファイラワー様のように」
「……………………」
返答は沈黙だった。
だが、フィアナの言葉にロドの心は確実に揺るがされていた。
果たして。
「聖女フィアナ。私に真実を教えていただけますか?」
貧民街からの帰り道、ロドは覚悟をもってフィアナにそう頼んでいた。
微笑んだフィアナが差し出したのは、一冊の本であった。
「これを誰にも見られない場所でお読みください」
表紙には、アザス聖書と書かれていた。
貧民街の中で新たに建築された木造の家に、ファイラワーと数名の人間が集まっていた。
「ファイラワー様。スマイリーの栽培拠点を発見いたしました」
黒装束に身を包んだ者が、ファイラワーに跪いて報告する。
「ファイラワー様の予想通り、大陸南の温暖な地帯で栽培されていました。確認できた場所はアッハウ伯爵領です」
「アッハウ……ああ、あの。悪い噂が絶えない方でしたが、薬物栽培まで。心まで邪神に売り払ったようですね。まあ、今はその邪神が最高神ですから、彼の行いも正義ということですか」
「許されざる行いです! そもそもスマイリーをばら撒いているのがアザトース教だなんて、汚らわしい!」
聖騎士と聖女が嘆きを口にする。
この場に集まっているのは世界の真実を知り、巨悪を滅ぼすために立ち上がった勇士たち。
「みなさん、雌伏の時は終わりです。今こそ声を上げるときです」
皆の中心にいた女性は、瞳に強い力を宿して宣言する。
「世界は、我々アザス教団が、裁く!!」
──まあ私なんですけどね!
自作神話をばら撒いたら、革命軍みたいなの出来上がってもう末期。
真の愉悦を、この世界に!!




