時代の流れ
時代の流れ
この500年ほどに主に大陸での戦乱で逃げ込んできた人間が朝鮮半島に押し寄せ、船に乗って、日本列島にさらに押し寄せ、弥生時代が始まった。
彼等は渡来人となり農耕や火の始末を知っており、平地で暮らす人々であった。
戦争で領地を襲うことなら、もっと多くが集団で襲いに来るはずでもあったが、弥生と縄文の境には争いが見られない。
親分は、弓使いの小屋に向かって歩いていた。
直江津王国の元は渡来人であったが縄文巫女と出会い、その基礎が最初から共生で始まった。と思う。
渡来人に縄文巫女は理解されてなかったが、縄文の精神の支柱としての巫女の存在は、便利であった。
縄文が彼らに協力して平地の暮らしを先導できたのである。
巫女は王の飾り物として便利で、農耕の季節感も髪のお告げとしてスムーズに進んだ。
そこに縄文としての特殊なグループがあった。移動するグループである。
縄文はある程度の定住が進んでいたが、移動にも特化する移動するグループもいなければ、各地で発掘される遺跡の中に全国的な遺物が残る筈が無かった。
弓使いまでの道のりも楽しい。岩がゴロゴロ転がっていて、歩き難いのが良かった。
土には無い、足で岩を掴む感覚が面白かった。
集団が土地と米作を手中に収めれば支配という話になる。
時代が進むにつれ、直江津王国も柏崎や長岡を手に入れ、他の国からの戦いに対して兵を立てるようになった。
しかし、世界にはもっと、大きなうねりがあった。
西日本では近畿圏という集団と九州勢力という集団があった。
九州勢力は、紀元前3世頃に中国大陸から日本に永遠の命の薬を求めてきた集団で、兵を構え3000人ぐらいの人間が佐賀に乗り込んだらしい。
彼らは支配するのに力を頼りにする者たちで、何世紀が過ぎてもその思想は変わらなかった。
一方、近畿圏では、米作を進める内に人口が増え、支配に力ばかりでなく、共生という思想が入っていた。
それはきっと、縄文巫女の考え方だったかも知れない。
伊勢の大巫女を見た親分には、巫女というか、大巫女に底しれない力を感じていた。
見透かす能力を恐れと感じていた。
年が明け、弓使いとあって、大巫女に会いに行った時の印象を二人で話し合い、自分らの戦う力が不足してることを結論づけた。
「棒でも使い武器にするか?」
「棒か、、、頼りないなぁ。でも悪くないな」
こうして、棒を使い、相手とやり合う訓練が始まった。最初はチャンバラのようなものだったが、時間を経て、思いっきり相手に叩きつけるやり取りも成立し、そこそこの剣士としての原型みたいな者が出来上がったようだ。
秋の収穫の前のひと月前、茅を担いで、伊勢路に向かうのが、もう何回目になるだろうか。
伊勢は佐久とは違い、熱い太陽の力が違う、違う場所というのにも興味があった。
熱風が、頬に当たった。




