かわいいだけの義妹が一念発起したら
マリーレイン・コートレイは自室で頭を抱えていた。
コートレイ伯爵は、舞台女優である母のパトロンであり愛人だった。二年前に伯爵の正妻が流行り病で亡くなり、一年後、母と再婚した。
マリーレインは、看板女優の娘としてそれなりに食べて暮らせていたとはいえやはり育ち盛りとしては量が足りなかったうえに、朝から晩まで舞台裏で働いていた。
痩せっぽっちなマリーレインは、栄養満点の食事と、母娘を狙う不届き者を警戒せずに安眠できる環境のおかげで、すっかり健康な肉体となった。
いまや健やかな十三歳。ふぅわりと巻かれたローズブロンドの髪に、麗しいかんばせ。
前世のトップアイドルだって、鏡に映る少女にはかなわない。
そう、マリーレインは唐突に前世の記憶を思い出したのだ。
かつて、日本という国で会社勤めをしていた一般人。庶民ではあるが、現世よりずっと豊かで技術が発展した世界だったので、独身の女一人でも安全に、気ままに暮らせていた。
ちなみに死因は思い出せていないが、思い出す必要性がないので構わない。
そんなことより問題は、マリーレインの現状である。
「まずい……!」
マリーレインは溺愛してくれる父親に甘え、貴族として必須な学びも放棄し、ドレスやアクセサリーや化粧品、人形などを買いあさり、挙句の果てには正妻の一人娘である義姉を鬱陶しがっている。
「この顔だけ女がぁ……!私のことだよ!」
マリーレインは奇声を上げた。
このままではいけない。
顔の良さだけで、貴族の娘として通用するわけがない。
「それだけじゃないし……」
マリーレインは伯爵家を継ぐ野心を抱いていた。
いや、野心などという情熱も意気込みもなく、「この家は、かわいくてお父様に愛されているあたしの方が継ぐのにふさわしんじゃないかなっ☆」とかなんとか、自己中心的な思考回路だった。
「そんなわけあるかァッ」
マリーレインは父へ義姉に冷たくされた、とっても悲しいと訴えた。母譲りの迫真の演技であった。
「騙されるなよ父親ァ!」
父は義姉を怒鳴りつけ、ますますマリーレインをかわいがるようになった。
「だめだ……手遅れ寸前じゃないかこの小娘……私のことだよぉ!」
これまでの阿呆の所業を嘆き、ツッコんでばかりいていても仕方がない。現状を変えなければと、マリーレインは立ち上がった。
マリーレインの考えるより体が動く性質と、前世の社会人としての思考の切り替えが嚙み合った。
「ブリジットお義姉さま!」
勢いよく執務室の扉を開けた。
湖畔の水面を反射する陽光のようにきらめく銀の髪。細くしなやかな指、綺麗に整えられた爪。椅子に座っていても姿勢は崩れておらず、身体のどこを切り取っても隙がない。
四歳年上の義理の姉の視線が、こちらへ向けられた。
「マリー、部屋に入る前にはノックをしなさい」
ブリジットは穏やかながらもきちっとした声色で義妹を嗜めた。義妹のせいで父親に理不尽に叱られたというのに、今も指摘をしてくれる。
まだ一応とりあえず、マリーレインは見捨てられていない。そんな義姉の慈悲を、義妹は「お義姉さまのいじわる!」と理解せず喚きたてていた。
「ごめんなさい、これからはノックを忘れないようにします、あの、お義姉さまお願いがあるの」
ブリジットは素直に謝った義妹に目を丸くしたが、すぐに表情を取り繕った。
「お勉強を教えてほしいの!」
「え?」
「小説を読んだの!お勉強ができる主人公と、そんな主人公に興味をもったヒーローが、一緒に勉強したり、街歩きをしたり、テストの点を競争したりしながら距離を縮めていった二人が、最後に両想いになるの!」
こんな小説はない。廊下を歩いている間に即興で考えた物語である。
「お勉強ができたら、あんな素敵な殿方と会えるようになるかもしれないでしょう!だから、私も頭が良くなりたいの!」
たいそう頭の悪いおねだりである。だが、こんな苦しい訳も通用してしまえるくらい、マリーレインは単純な性格と認識されている。
義妹は流行に影響されやすく、物語に登場したものを欲しがり、物語の真似をしたがる、物語を真に受けてもおかしくない……と、義姉が納得してゆく、ちょっと切ない手ごたえを感じた……
「貴女には家庭教師がついているでしょう?」
正論である。
「ダメダメ!あのひとってば私が何したって褒めてばっかりなんだもん」
マリーレインが調子に乗っている要因のひとつである。
父から何か言われているのか、マリーレインの可愛さに酔っているのか、家庭教師は全く教師としての役目を果たしていないのだ。
そのせいで、実際の振る舞いや知識が最低限にも達していないにも関わらず、マリーレインは己の素晴らしさを疑っていない。
唖然としていた義姉の眉間に、みるみるしわが寄りはじめた。
「だからね、あのヒロインみたいに頭が良くてかっこいいお義姉さまに勉強を教えてもらいたいの!」
「……せっかく頼ってくれたのに、ごめんなさいマリー、お父様のお仕事を手伝っているから時間が取れないの、その代わり、今の家庭教師をやめさせます、それで私がもっと良い先生を探します」
「うん、わかった!ありがとう、お義姉さま!」
「ただし、これまでと違って、勉強はとても厳しくなるわよ、ちゃんとできる?」
「もちろん!厳しいっていっても、無意味にいちゃもんをつけるわけじゃないでしょう、どこが悪くてどこを直せばいいのかわからない今の先生よりずっと勉強しやすくなるよね」
前世を思い出したからといって、ただのしがない社会人だったのだ。今の生活に役立つ知識や技能があるのかといえば、ない。貴族としての勉強を怠るわけにはいかない。
「……マリー、ずいぶんとやる気ね……?」
「オッ、王子様に会えるためだもん!」
声が上擦ってしまったが、ブリジットは気にならなかったようだ。
「まあ、頑張ろうとするのはいいことね」
「はい、がんばります!あの、それからお義姉さま、これまでいっぱい言いがかりをつけたり、嘘をついてごめんなさい」
心から頭を下げた義妹に、ブリジットは今度こそペンを落とした。
▲ ▲ ▲
ブリジットが雇った新しい家庭教師は優しく、教え上手な夫人だった。マリーレインの田舎訛りも、幼児並みのカーテシーやマナーも、丁寧に指導してくれた。
ちなみに、父は勝手にマリーレインの家庭教師を総入れ替えしたブリジットに怒り心頭だったが、当の妹が「お父様!新しい先生のおかげでこんなに上手にご挨拶できるようになったの!」と、楚々とスカートを摘まんでみせれば、躊躇なく手のひらを返した。
「まあ、なんだ、なかなかの采配のようだな、今後も励みなさい」
──チョッロ!なーにがなかなかの采配だ、えらそうに!ぜーんぶお義姉さまのおかげだわ!
「マリー、そんなに握りしめたら、スカートがしわになってしまうわよ」
「あっ、ごめんなさいお義姉さま、つい」
ブリジットはほんのすこし口角を上げ、やわらかく目を細めた。
あらためて学び始めて四十日過ぎ。マリーレインが真面目に勉強に取り組んでいるとわかってくれたのか、義姉は以前より義妹に声をかけてくれるようになった。声色も、ずっとやわらかい。
ちょっとは信頼してもらえただろうか。そうであればいい。これからが本番なのだから。
マリーレインは一度、唾をのみこんだ。
「お義姉さま、母について相談したいことがあるんです」
ブリジットは一瞬、返事に詰まった。
「母は自室です」
義妹の背中を追うように、ブリジットは歩き出した。
義妹は淑女らしく、すっかりドレスをさばく仕草が様になっている。
ある日を境に、義妹は変わった。これまでの癇癪やブリジットへの言いがかりを謝罪し、勉強に身を入れるようになり、浪費もしなくなった。このまま育てば、いずれ大輪の花が咲くだろう。
……あのワガママな義妹にここまで良い影響を与えるなんて、どんな小説だったのかしら
興味を持ったブリジットは、義妹には内緒で書店で探してみたが、それらしい本は見つからなかった。
かといって、マリーレインに直接訊くのは恥ずかしい。「頭良くてかっこいい」なんて、家庭教師にだって言われたことがない。かっこいい、とは男性に使われがちな賛辞だが、頬を紅潮させ力説したマリーレインに世辞はなかった。
自分の見目が悪いとは思っていないが、義妹のような華やかさはない。コンプレックスというわけでもないが、時たま男性に「もう少しかわいげを持ちなさい」だの、同世代の少年に「ちょっとキツそうだよな」だの放言されてきた。率直に腹立たしい。
だからこそ、まっすぐに「かっこいい」と伝えられて、ああ、私は私をそういう風に褒めていいのだと、視界が開けたのだ。
もしかして、自分は、自分が思っているより単純なのかもしれない。義妹がそう思ってくれていたことに胸が熱くなった。
てっきり、小言ばかりの邪魔な女と嫌われていたとばかり。
そんなわけで、義妹の、理想の姉の像を崩したくないのだ。本については置いておこう。
義妹と仲が深まりつつあるとはいえ、母親については別である。
ブリジットの両親は政略結婚だった。恋も愛も芽生えず、義務的な関係だった。とはいえ冷えきった仲 ではなく、それなりに喋っていたし、食事も共にしていた。同じ部署に勤める同僚といったくらいの仲。
友情くらいは……あったのだろうか。一年間、母の喪に服してから義母を屋敷に迎え入れた。
父は今でもブリジットを娘というより、次の当主として駒扱いだ。無碍にされてはいないが、親子の情愛は大して注がれていない。
だが母は大切にしてくれた。
夜が怖いと泣く幼い自分を抱きしめてくれた。次期当主としての心構えを教えてくれた。母と散歩した庭のバラの香りを覚えている。
義母のヘザーとブリジットはほとんど会話をしていないし、そもそも顔を合わせることがない。せいぜい会うのは食事時くらいだ。
義母が嫌いなわけではない。ただ、実の母を慕う気持ちが、義母を受け入れがたくさせるのだ。
義母の自室の扉の前で、マリーレインが立ち止まった。
義妹は口元に人差し指を立てて、ノックをした。「お母さま、マリーです」扉が開く。
「マリー、いらっしゃい、急にどうしたの?……あら」
破顔してマリーレインへ腕を伸ばしかけたヘザーは、ブリジットをみとめると、そっと腕を戻した。
「ブリジットさんもいらしてくれたの」
「ご機嫌よう、お義母様」
ブリジットが挨拶をすると、義母は二人の娘を部屋の中へ入れた。
「お母さま、久しぶりに一緒にお茶をしたくて、ちゃんと先生には許可を頂いているよ、お義姉さまも一緒に、三人でお茶しよう」
「あらあら、うれしいお誘いだわ」
ヘザーはメイドたちに紅茶と菓子の準備をするよう命じた。
貴族としての勉強をしているのはマリーレインだけでない、ヘザーも伯爵夫人として学んでいる。
生まれた時から貴族令嬢として育てられたブリジットからみても、ヘザーは伯爵夫人として申し分ない振る舞いを身に着けていた。
ブリジットとヘザーは多少ぎこちなさがあったものの、マリーレインの仲立ちの甲斐もあり、茶会はなごやかだった。
「楽しかったわ、ブリジットさん、マリー、またお茶しましょうね」
「はい、今日はありがとうございました」
「またね、お母さま!」
娘たちは母の部屋を出て廊下を歩いていたが、突如マリーレインが立ち止まった。
「お義妹さま、母の部屋へ戻ります」
「え?どうしたの?何か忘れ物?」
「いいえ」マリーレインは真剣な面持ちで首を横に振った。「これからが、お義姉さまに見てもらいたいんです」
再び母の部屋の前に立つと、マリーレインは口元に人差し指を立てた。
「人払いは済ませてあります、お義姉さま、どうか何があっても静かに見ていてください」
マリーレインが扉をノックする。「お母さま、マリーだよ、開けて」先ほどより気安い口調で話しかけると、扉が勢いよく開いた。
「マリー!」
ヘザーが愛娘を抱きしめた。マリーレインはそっと扉を閉めるが、完全には閉めきらなかった。
その隙間から、ブリジットは様子を窺う。こんなところを使用人に目撃されたら面目丸つぶれだろう。ああ、だからマリーは人払いしたのか、私の妹はどんどん優秀になってゆく。
「可愛いマリー、母さんの演技はどうだった?」
「母さん」マリーレインは母の背中に腕を回した。やはり、以前より骨ばっている。「完璧、最高、立派な伯爵夫人だったよ」
「そうだろう、任せな、あたしは女優だったんだから」
ヘザーはふらりとよろめいた。
「うっ、頭が痛い……」
「無理しないで、ほら、座って」
「すまないね……」
マリーレインに促され、ヘザーはソファへ腰かけた。
「劇団にいた頃に会っていた貴族様には、年頃の令嬢なんていなかったから、どうすれば認めてもらえるのかわからないねえ」
「だいじょうぶ、お義姉さまもお茶会、楽しかったって喜んでいたよ」
「そうかい、それならひと安心さね、でもいつどこでケチがつくかわからないね」
「だいじょうぶ、お義姉さまはそんないじわるじゃないよ、人生舐め腐っていたあたしのことだって見捨てないでくれる、優しいひとだよ」
「どうだか、なにせ生粋のお嬢様だ、心の中では見下しているのかもしれないだろう、いいや、ダラス……旦那様の娘がそんな卑しいわけがない、ああ、卑しいのはあたしだ、人を疑ってばかりで汚らしい……」
「母さん、だいじょうぶ、不安だと人を疑いたくもなるよ」
「ああ、ブリジット……許しておくれ……」
ヘザーは顔を覆い嘆いた。
舞台では看板女優として優雅に立ち、裏方では一座を取りまとめ、オーナーと共に劇団の経営を話し合っていた逞しさは何処へ。
前世でいうところの、ノイローゼだろう。
マリーレインは母を宥めすかし、眠らせ、部屋を出た。
「マリー……」
ブリジットは顔色を失い、唇をわななかせて立っていた。
生粋のお嬢様には、刺激が強すぎただろうか。だが、どうしても彼女には直接その目で確かめてほしかった。知ってほしかった。
二人でマリーレインの自室へ向かった。途中でブリジットは、途中で母の侍女にさりげなく声を掛けた。
「お父様は、このことを……」
「気づいていません、そうじゃなくて……母さんが気づかせていないの方が正しいかな」
母は、庶民や下級貴族が主な客層の中堅劇団の女優だったが、上流貴族たちの贔屓する劇団から引き抜きの誘いも多かった。美貌はもちろんだが、なにより演技力の高さが演出家や脚本家に欲しがられた。
「貴族としての振る舞いや社交なんかは、お父様も含めた劇団時代のパトロンとのやりとりでそれなりにできますし、マナーなんかも、何度か見れば、覚えて完璧に真似できてしまっているんです」
「すごい才能ね……」
だからこそ、伯爵はヘザーの歪みに気づかない。
どれだけ外側が取り繕えていても、貴族としての心構えを学んでも、実際のヘザーに余裕はなかったのだ。
「お義母様はお父様に相談していないの?二人は恋愛結婚でしょう、心通わせているのではないの?」
「お義姉さま……」
「な、何?その微妙な顔は……」
「いえ……その……」
政略と恋愛という複雑な問題をあっさり口に出せるのは、貴族としての価値観のせいか、単に義姉が大らかなのか。恋にちょっと夢見ているなんて初耳ですお義姉さまってばかわいい!
──なんて言えるわけもなく
「……貴族に見限られた劇団の末路を知っているせいで、相談しにくいのかもしれないです」
「なるほど、お父様が頼られるような甲斐性はないということね」
「ええーと……女を見る目がありすぎて、自分の手に負えない、みたいな?」
「それでも負うのが夫の責務よ、結婚は契約、貴族同士の政略結婚でも互いに務めを果たすものなのに、恋愛結婚した後妻を放置ってありえないわ」
ブリジットの怒りが上昇してゆく。
「私も、お伝えするのが遅くなってしまってごめんなさい……」
ヘザーの異変にマリーレインは気づいていなかった。
前世を思い出してから、ヘザーの不安定さを目の当たりにして仰天した。ウソでしょこんなに病んでいるのに何を見ていたんだ娘ぇ!と、内心大わらわだった。
すぐさまブリジットに報告すべきだった。だが勉強の忙しさで後回しにしてしまった。それに、マリーレインが成長していなくては、これを格好の機会に、ワガママ娘ともども療養院へ押しやるかもしれないと危惧もあった。
「私たちの手には負えないわ」
専門の医師を呼びます、と次期当主は最善の判断を下す。
「もちろん、父にもきっちり説明しなくてはね、どっぷり反省させましょう」
私の姉はどんどん頼もしくなってゆく。
▼ ▼ ▼
ブリジットが手配した医師は平民だが身元はしっかりしており、口が堅く、経験豊富な初老の男だ。
ヘザーは朗らかな医師を気に入った。久しぶりに街の話ができたと破顔した。
「本当はゆっくり休養して頂きたいのですが、今の奥様は休むことが苦痛なのでしょう」
「は、働いていないと落ち着かない症候群……」
マリーレインは、ワーカーホリックという単語が思い浮かんだ。
夫であるダラスは、ヘザーの不安定さを医師とブリジットから懇々と説明され、説教され、すっかり立場を失っていた。
ブリジットが父を虫けらでも見る目つきになっても、マリーレインは庇わなかった。一部のずれもなく左右対称に仁王立ちするブリジットにひたすら感心していた。
「まずは旦那様とブリジット様が、奥様を認めていると信じて頂くことですな」
それから、ブリジットはマリーレインも交えて茶会をするようになった。
ダラスもヘザーとの時間を増やし、花束や手紙などをこまめに贈った。
それこそ女優だったヘザーに、パトロンではなくただのファンとして贈っていた時のように。彼女の美しさの虜となり、演技に夢中になり、芝居そのものに興味を抱いた。手紙ではあらゆる劇や演出の感想や考察ばかり。ヘザーからの返事も演劇に対する情熱ばかり。けれど、恋文より熱烈な文通だった。
正妻へはヘザーに向けるような恋慕はなく、家を盛り立てる同志のようなものだった。その乾燥した情は娘であるブリジットへも延長だ。
マリーレインが生まれた時、どうしてか涙が止まらず、我が子とヘザーにキスをしたくて堪らなかった。自分にあれほどの衝動が湧き上がったことに、戸惑いすら感じた。
いつから、ヘザーの顔を見なくなっただろう、最後にまともな会話をしたのはいつだったろう。愛情が消えたわけではない、無事妻にできて安心していた。
取り返しのつかないことになってしまうところを救ってくれたのは、二人の娘だ。
部屋が花で埋まっちまうよ、と、ヘザーが笑うのは、もう少し後のこと。
△ △ △
コートレイ家でヘザー夫人主催のお茶会が開かれた。
後妻の初めての社交である。それほど規模は大きくない。
招待されたのはコートレイ家の親戚や、伯爵と仕事の繋がりのある貴族が中心だ。一部、演出家や音楽家、ヘザーが入団していた劇団の後援をしている貴族も参加していた。
色鮮やかに咲き誇る花々、みどりがまぶしい木々。ゆったりと庭園を眺められる広々とした来賓室。庭の花と合わせた、植物模様のティーカップやティーポット。
ヘザー夫人は二人の娘を伴い現れた。
長女のブリジットは洗練された佇まいで、伯爵と挨拶に回ってゆく。
次女のマリーレインは初めての社交だ。庭の花も恥じらうようないじらしさ。茶会に参加している令嬢にも引けを取らないカーテシーを披露した。
「皆様、どうぞおくつろぎください」
夫人の美貌は女優時代より更に磨きがかかっていた。
澄んだ声は屋敷によく響くものの五月蠅くない。むしろ聞き心地が良く、客人の緊張は自然とほどけていった。
ゆるりとした雰囲気の茶会に──これこそ優雅なティータイム、いや貴族としての品格がないのでは、あら、茶器も室内のセンスも洒落ていますわ、給仕も完璧でしたわ──賛否両論、おおむね好意的な評判だった。
「茶会の成功は喜ばしいですが、奥様の心身の状態からすると早すぎです……!」
医師は苦虫を嚙み潰したような表情で言った。
「すまないね先生、私のワガママを許可してくれてありがとう」
「体の重だるさはありませんか?」
「ああ、頭痛も前より軽くなっているよ」
「ですが、まだ油断はなりません、しばらく社交は禁止です」
「ああ、しばらく大人しくしているさ」
「ヘザー……せっかくだし、どこか旅行に行かないか?仕事があるから日帰りになるが……いや、街歩きでもいいし、時間をつくってみせるから泊まりがけでも……」
結婚までしたのにデートの誘いもままならない、情けなくてかわいいオトコ。
「ブリジットとマリーも一緒じゃないのか?」
「え、あ、ああ、ああそうだな、そうだよな……!」
ダラスが当主として優秀で、それ故多忙であることは理解している。
ただし家庭に関しては雑で、ブリジットを次期当主として立派に育て上げたが、父親としては、及第点も達していないのではなかろうか。
そういえばマリーレインも甘やかすが、躾はしていなかった。
正直、ヘザーはブリジットが苦手だった。見定めるような眼差しが、令嬢として培ってきた経験が、平民育ち女優あがりのヘザーのすべてを否定しているような錯覚がした。
この屋敷にいる為には、貴族夫人としての知識を、立ち振る舞いを身に着けなくてはいけない。
模倣も、演じるのも得意だ。貴族との腹の探り合いもそれなりに自信がある。夫人として屋敷の管理も、劇団の管理と通じるものがあった。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。夫は笑っているし、ブリジットからも文句を言われていない。だからだいじょうぶ。
追い詰められていたヘザーを助けてくれたのは二人の娘だ。
マリーレインを身籠った時、大喜びするダラスとは裏腹に、ヘザーが最も懸念したのは自分の女優人生についてだった。
出産は命がけだ。無事出産できたとしても、妊婦になる前と同じ体型に戻れるのか、同じように動けるのか。そもそも子育てと女優業の両立の厳しさは、周囲の子持ちの同業者を見て知っている。
散々迷って、悩んで、団長や仲間にも愚痴って、産む決断をした。
子どもがいれば、ダラスも別れにくいだろうという下心も無いわけではなかった。
お芝居ではよくある真実の愛なんて、現実ではありえない。ヘザーとダラスだって始まりは愛人関係だ、純粋じゃない。
けれど娘の泣き声に、この痛みと苦しみを味わってよかったと心の底から思った。
二人の娘との茶会の日は朝からそわそわしてしまうし、とびっきりの菓子を用意する。娘たちへ舞い込んでくる釣書は端から端まで読み耽る。
とん、とヘザーは夫の肩に身をもたれた。
「いつか、また、劇を見たいな」
貴族御用達の舞台ではなく、大衆が愛する劇を。ヘザーが所属していたような、文化や芸術ではなく娯楽を目的とした劇を。
「それなら、庶民の変装をしたらいいんじゃないか?」
ダラスはヘザーの肩を抱き寄せた。
「あたしは本当に庶民だったし、街の女のふりなんてカンタンだけどさ、ダラスは演技なんてできないんじゃないのかい?」
「う……む」
口をへの字にしたダラスに、ヘザーは噴き出した。
「二人にどこか出掛けようって誘おうじゃないか」
「いや、それはちょっとまだ心の準備が……」
「ここで気弱になってどうすんだい」
「奥様の体調を考慮して、外出はまだ短時間にしてください」
余談だが、夫婦より一足先に、町娘の服を着たブリジットが、マリーレインの案内でヘザーの所属していた劇団にこっそり観劇しにいくのだが、姉妹だけの秘密である。




