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第9話:信用の値札

サクラからの返信は、ハルのスマートフォンの画面上で、氷のように静かな光を放っていた。


『ようやく、腹を括ったのね。――遅いわよ』


挑発的で、それでいてどこか彼を認めているような、短い言葉。ハルは、その文字を見つめながら、思わず苦笑いを漏らした。これは、単なる返信ではない。彼女からの、無言の問いかけだ。


(――それで、その『助け』とやらは、私が時間を割いて話を聞くだけの価値があるのかしら?)


彼女の声が、耳元で聞こえたような気がした。

ハルは、このメッセージが現実世界での、二人の最初の交渉なのだと瞬時に理解した。ただ「会って話したい」と送るだけでは、彼女は動かない。この手強い投資家を納得させるには、言葉ではなく、確かな「価値」を提示する必要があった。


彼は、メッセージアプリを一度閉じると、先日落札した腕時計のオークションページを開いた。そして、そのスクリーンショットを撮り、サクラとのトーク画面に貼り付ける。


それに、挑戦的な一文を添えて。


『この「ガラクタ」が、いくらの「価値」になるか、興味はないか?』


送信ボタンを押した指先が、わずかに熱を持っている。

数分後、画面に新しいメッセージがポップアップした。


『写真だけでは判断できない。現物と、あなたの事業計画書を見せなさい』


あくまで冷静に、プロとして本質を求める返信。ハルは、その言葉にむしろ安堵した。彼女は、この話を真剣に受け止めている。


彼は、昨夜から頭の中で練り上げていた計画の要点を、簡潔に、しかし熱意を込めて打ち込んだ。


『わかった。明日、現物と計画書を持っていく。場所は君が決めてくれ』


ボールは、投げた。

あとは、彼女がどう動くか。


沈黙が、永遠のように感じられた。

数分後、最後のメッセージが届いた。


『白鷺地区の「GEMSTONE」。昼休みに。……遅刻しないでよ』


翌日、ハルは約束の時間より少し早く、カフェバー「GEMSTONE」の扉を開けた。昼間はカフェとして営業しており、重厚なカウンターと静かなジャズが、大人の隠れ家といった雰囲気を醸し出している。


カウンターの奥で、古川が黙ってグラスを磨いていた。ハルに気づくと、彼は一瞥をくれただけだったが、その目には全てお見通しだと言わんばかりの光が宿っていた。ハルは一番奥のテーブル席に腰を下ろし、メニューを眺めるふりをしながら、自分の指先が冷たくなっているのを感じていた。


「……随分と、思い詰めた顔をしているじゃないか」


いつの間にか隣に立っていた古川が、静かな声で言った。彼の前には、湯気の立つコーヒーカップが置かれている。


「古川さん……」


「お前さんの師匠は、伊達に長く生きてはいない。その顔は、大きな賭けに出る前の男の顔だ」


ハルは、観念したように息を吐いた。

「……勝てるかどうかもわからない賭けです」


「ふん。鑑定士の仕事なんぞ、毎日がそんなもんだろう」

古川はそう言うと、カウンターに戻りながら、独り言のようにつぶやいた。

「モノの価値を見抜くのは、お前さんの得意技だ。だがな、ハル。人の価値を見抜くのは、もっと難しい。そして、自分自身の価値となれば、なおさらだ」


その言葉が、ハルの胸に静かに染み込んでいく。


「だが、忘れるな。どんなに傷ついた宝石も、正しい光を当てれば、また輝きだす。お前さんが、その光になるんだよ」


カラン、とドアベルが鳴った。

現れたサクラは、仕事中のスーツ姿とは違う、ラフだが洗練された私服に身を包んでいた。彼女は店内を見渡すと、すぐにハルを見つけ、まっすぐにこちらへ歩いてくる。


古川は、ハルにだけ聞こえるような小さな声で言った。

「……さて、最初の鑑定の時間だ。お前さんの『目』、見せてもらおうか」


彼女は、ハルの向かいの席に座ると、単刀直入に切り出した。


「それで、話というのは?」


その問いに、ハルは一瞬、言葉に詰まった。昨夜、何度も頭の中でシミュレーションしたはずの言葉が、喉の奥でつかえる。サクラは、そんな彼の様子を、値踏みするように、ただ静かに見つめていた。


ハルは、一度目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。脳裏に、鍛冶場の炉の火が、赤々と燃え上がる光景が浮かぶ。


「……君に、俺の現実でのパートナーにもなってほしい」


震えを押し殺し、絞り出した言葉。

サクラの眉が、わずかに動いた。


「面白いことを言うわね」


彼女はそう言うと、テーブルの上に置かれたハルのスマートフォン――彼が送ってきた腕時計のスクリーンショット――を指差した。


「この時計のことでしょう? あなたの『目』が、これを『お宝』だと告げている。そして、あなたは私に、そのための資金とルートを用意しろと言いたいのね」


全てを見透かしたような言葉に、ハルは息を呑んだ。


「だからこそ、君がいいんだ」


彼は、テーブルの上に、落札したばかりの腕時計と、数枚の資料を置いた。彼が独自に作成した詳細な事業計画書だった。


「この時計は、適切な修理をすれば、最低でも落札価格の30倍……90万円以上の価値になる。俺には、それを見抜く目と、修理してくれる職人のあてがある」


サクラは、ハルの資料を一瞥すると、ふっと息を吐いた。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「あなたの目は確かね。でも、この計画書はただの夢物語よ」


「……なに?」


「問題は、時計の価値じゃないわ」

サクラは、氷のように冷たい声で、現実を突きつけた。

「今のあなたには、この時計が本物だと証明するための『信用』が、1円もない。盗品事件を起こした鑑定士から、誰が高価な品物を買うというの? あなたがどんなに『本物だ』と叫んでも、誰も信じないわ」


その言葉は、ハルの心を容赦なく抉った。それこそが、彼が一人では越えられない、最も高い壁だからだ。


「面白い提案だけど、これ一本に賭けるのはギャンブルよ。プロの仕事じゃない。あなたの『目』が本物なら、ホームランだけじゃなく、ヒットも着実に打てるはずよね?」


サクラは、そう言うと、財布から数枚の紙幣を取り出し、テーブルの上に置いた。5万円だった。


「これは、私からの最初の投資よ」


「……どういう意味だ?」


「証明して見せなさい。私があなたに投資する価値があるということを。期限は一週間。その5万円を、あなたの『目』だけを武器に、いくらにできる? もしあなたが、私が納得するだけのリターンを出せたら、その時は、あなたの腕時計の話に乗ってあげる」


それは、共同事業の提案などではなかった。あまりにも一方的で、屈辱的ですらある「テスト」だった。

ハルは、唇を噛み締めた。だが、彼はここで引き下がるわけにはいかなかった。


「……わかった。そのテスト、受けて立つ」


その日からの七日間は、地獄だった。

昼間は会社で雑務をこなし、夜はオークションサイトに張り付く。睡眠時間を削り、栄養ドリンクだけで胃を満たす日々。会社の昼休みは、一秒でも惜しむようにスマートフォンの画面に食らいついた。目の奥が熱く、乾いていた。5万円という元手は、あまりにも心もとない。一度の失敗が、即ゲームオーバーに繋がる。


最初の三日間、彼は何も買えなかった。買えなかった、というより、買わなかった。

彼の「目」は、いくつもの「掘り出し物」を見抜いていた。だが、そのたびに、盗品事件の記憶が脳裏をよぎり、最後の最後で指が止まってしまうのだ。


(本当に、大丈夫なのか? この写真に、何か見落としはないか?)


恐怖が、彼の鑑定眼を鈍らせる。


転機が訪れたのは、四日目の深夜だった。部屋の静寂が、まるで耳に張り付くようだった。スマートフォンの画面をスクロールする指の音だけが響く。その時、彼の心臓が、ドクン、と大きく一度だけ跳ねた。

彼が見つけたのは、一本の国産ウイスキー。商品説明には「ラベルに若干の汚れあり」とだけ書かれ、3000円の値がついていた。写真のラベルは、意図的にか偶然か、肝心の製造年の部分が不鮮明にぼやけている。


だが、ハルの目には、そのぼやけた画像の奥にある真実が見えていた。


(この瓶の形状、そしてラベルの隅にわずかに見えるロットナンバーの書体……間違いない。これは、2005年に200本限定で生産された、幻のシングルカスクだ……!)


彼は、震える指で入札ボタンを押した。数日後、届いた品物を鑑定し、それが本物であることを確認すると、彼はそれを別のオークションに、正しい商品名と、鮮明なラベルの写真付きで出品した。


そして、落札を知らせる通知がスマートフォンに届いた瞬間、ハルは知らず知らずのうちに止めていた息を、長く、深く吐き出した。得られた利益は、数千円。だが、その数字以上の何かが、彼の心を確かに満たしていた。


だが、好事魔多し。五日目、彼は失敗を犯す。少しだけ自信を取り戻した彼は、銀製のカフスボタンを5000円で落札した。写真では見抜けなかった、微細な傷があったのだ。結局、それは4000円でしか売れず、彼は初めての損失を経験した。


(……過信は、禁物だ)


その失敗が、逆に彼の目を覚ますせた。

残りの二日間、彼はさらに慎重に、しかし大胆に勝負をかけた。六日目、彼は商品説明に「メッキの剥がれあり」と書かれたブランド物のブローチをあえて落札。彼の目には、それが剥がれではなく、特定の年代にのみ使われた特殊な合金の「味」であることがわかっていたからだ。七日目、彼は「詳細不明」としてまとめて出品されていた宝飾品の山の中から、たった一つの本物の宝石が混じっていることを見抜き、その山ごと安値で買い取った。


そして、約束の一週間後。

ハルは、再び「GEMSTONE」の、あのテーブル席に座っていた。彼の目の前には、サクラがいる。

カウンターの奥では、古川が黙ってグラスを磨いている。その視線が、時折こちらを向いていることに、ハルは気づいていた。


彼の顔には、この一週間の過酷さを物語るように、深い疲労の色が浮かんでいた。だが、その瞳の奥には、以前にはなかった、静かで、しかし確かな光が宿っている。


ハルは何も言わず、一枚のレポート用紙と、一つの封筒を、テーブルの上に滑らせた。レポートには、この一週間で行った全ての取引履歴――成功も、失敗も――が、1円単位で正確に記されている。


「約束の、一週間だ」


その声は、もう震えてはいなかった。

サクラは、まずレポートに目を通した。その表情は変わらない。だが、最終的な利益率が60%を超えているのを見た時、彼女の眉がわずかに動いた。


そして、彼女は封筒を手に取った。中には、8万2475円が入っている。


「……合格よ」


サクラは、ふっと口角を上げた。その言葉を聞いたのか、カウンターの奥で、古川がわずかに口角を上げたのを、ハルの視界の隅が捉えた。


「利益率も悪くない。でも、それ以上に評価するのは、あなたが自分の失敗を、きちんと記録していること。あなたは、ただのギャンブル好きじゃない。プロの投資家になる素質があるわ」


彼女は、ハルが提示した腕時計の計画書を、もう一度手に取った。


「さて、それじゃあ、本題に入りましょうか。パートナー」


(その言葉の重みが、心地よかった。――これは、俺の価値を信じてくれた、最初の値札だ)

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