第8話:信用の壁と再起の一歩
鍛冶場の炉の火が、まだまぶたの裏でちらついている。
ハルは完成したばかりの【黒鉄の剣】を背負い、酒場の扉を押し開けた。
「……やったみたいね」
カウンターの端で待っていたサクラが、ハルの顔を見て微笑む。
ハルは無言で背から剣を外し、テーブルにそっと置いた。
ゴト、と重く響く音。
サクラは剣を手に取り、光に透かす。刃文を追い、グリップを握り、最後にステータスを確認する。
「品質75……しかも特殊効果つき。スキルレベル1で、これは上出来よ」
「……最後の一本だけ、な」
材料費のほとんどを溶かしたことを正直に告げると、サクラは肩をすくめた。
「投資なんて、そんなもの」
剣を返しながら、彼女は視線を市場の方へ流した。
「この剣、売ってみましょうか」
「売る?」
「性能がすべてじゃない、ってことを見せてあげる」
意味深な言葉を残し、サクラは立ち上がった。
広場の市場は夕暮れの光に包まれ、露店の列から香辛料や焼き肉の匂いが漂ってくる。サクラが用意した台に剣を置くと、すぐに数人が足を止めた。
「アンコモンの黒鉄剣で、この性能……」
「攻撃速度ボーナスつき? どこの職人だ?」
ざわめきが熱狂に変わる。だが、ハルが値札を提示した途端、その熱は嘘のように引いていった。さっきまで手を伸ばしかけていたプレイヤーたちが、すっと一歩下がる。交わされていた視線が、気まずそうに逸らされる。
「製作者……ハル? 聞いたことないな」
「保証は? 本当に表示通りの性能が出るのか?」
「これ、万が一バグだったら……」
サクラは腕を組み、何も言わない。
ハルは必死に性能を説明しようとしたが、相手の視線はどこか疑わしげで、言葉は喉の奥で重く沈んだ。人だかりが、潮が引くように少しずつ離れていく。ハルは口を開きかけて、閉じた。説明しても、届かない――そんな確信が胸を締めつける。
(……これが、信用の壁か。やっぱり、ダメだったのか……)
「俺が買おう」
低く通る声が、周囲の沈黙を断ち切った。
黒銀の鎧を纏った長身の男が人垣を割って進み出る。クランタグ【ペガサス】――トップクランのリーダー、アキラだ。
「お前が作ったんだな?」
「ああ」
アキラは剣を手に取り、軽く振ってバランスを確かめる。
「……いい剣だ。数値以上に、手に馴染む。うちのエースが泣いて喜ぶ顔が目に浮かぶ」
そして、ハルをまっすぐに見た。
「性能はもちろんだが――お前の打った一振りを、俺が持っているという事実に価値がある」
その場の視線が一斉に集まる中、アキラは値札のままの金額で購入手続きを済ませた。
サクラが小さく笑う。
「信用は、火と同じ。消えかけても、誰かが風を送れば、また燃え上がるものよ」
噂は一瞬で広場中に広がった。無名の職人ハルがペガサスに認められた――それだけで、周囲の目が変わっていくのが分かった。
ログアウトすると、耳の奥にまだ市場のざわめきが残っていた。机に置いた手のひらは、わずかに汗ばんでいる。
その日の買取店「Valoria」は、相変わらず無機質な空気に満ちていた。書類は無言で手渡され、伝票は音もなく机に置かれる。周囲の空気は冷たいのに、自分だけがまだ炉の熱をまとっているようだった。胸の奥には、別の世界で確かに認められたという確信が、静かに燃えていた。
昼休み、ハルが一人で席を立とうとすると、リョウが心配そうに声をかけてきた。
「ハル、食堂行かねえの? 今日、お前の好きな唐揚げ定食だぜ」
「……食欲、ないんだ」
ハルは、リョウの顔を見ずに、そう短く答えた。その声が、自分でも驚くほど冷たく響いたことに気づく。リョウは何かを言いかけたが、結局、困ったように息を吐くと、それ以上は何も言わなかった。
(違うんだ、リョウ。お前が悪いんじゃないんだ……)
心の中で謝りながら、ハルは一人、人気のない屋上へと向かった。古川の言葉が甦る。
「まずは、小さく始めろ。勝てなくていい。立ち向かえるかどうかだ」
彼は国内最大手のネットオークションサイトを開いた。
目的は明確。自分の「目」が、現実でもまだ通用するのかを試すこと。
並ぶのは、どれも似たような“ガラクタ”ばかりだ。写真は荒く、説明も雑。
それでも彼は画面をスクロールし続けた。
あらゆるノイズをすり抜け、ふと、指が止まる。
──一台の、壊れたアンティーク腕時計。
「部品取り用ジャンク品」――そう記されたその時計に、入札は一件もなかった。
(……これは)
ラグの形状、文字盤の経年変化、そして写真越しにでも感じる、金属特有の冷ややかな重み。
一目でわかった。
(この独特なラグの形状、文字盤の微細な経年変化……間違いない。これは、戦後間もない日本の、ある伝説的な職人がたった一本だけ作ったと言われる幻の時計だ……。古川師匠の蔵書で、一度だけその存在を示唆する記述を読んだことがある。まさか、現物がこんな場所に……)
彼の「目」が、確かに価値を見抜いた。
だが同時に、背筋に冷たい汗が流れる。
──あの事件の記憶。盗品騒動。店長の目。サクラの言葉。
再び誰かを傷つけるのではないか。自分の判断は、本当に信じられるのか──。
指先が震える。
画面の「入札」ボタンに、血の気が引いた指が触れる。
(怖いのか、俺は)
……怖い。
それでも──。
ハルは、画面を見つめ、息を深く吸い込んだ。
ゲームの中での“創造”が、自信へと変わったわけではない。
だが、自分が生み出した価値が、人を喜ばせたことは、事実だ。
(もう逃げない)
指先に、力を込めた。スマートフォンの冷たい画面をタップする指は、あの鍛冶場で槌を振り下ろした瞬間の、あの感覚を宿していた。
「入札完了」の文字が画面に表示される。
それは、たったひとつのクリックだった。だが、確かに彼の魂は、前へ進んでいた。
数十分後、腕時計のオークションは、誰にも競られることなく静かに落札された。スマートフォンの画面が淡い光を放ち、短い通知音が鳴る。その音が、ハルにはまるで、勝利を告げる鐘の音のように聞こえた。
それは派手な勝利ではない。
だが、彼にとっては──
再起を告げる、最初の一歩だった。
そのままスマートフォンのメッセージアプリを開き、たった一人の相手へと指を動かす。
サクラ。
『助けが必要だ。君の力を貸してほしい』
送信ボタンを押した指先は、もう震えてはいなかった。
既読の文字がつくと、数秒後、短い返信が届く。
『ようやく、腹を括ったのね。――遅いわよ』