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第5話:氷の商人と最初の壁

その声には、単なる好奇心ではない、市場の異常を許さないという、冷徹な意志が宿っていた。

ハルは、自分が初めて、この世界の本当のプレイヤーと対峙していることを悟った。


周囲の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。目の前に立つ、フードを目深にかぶった一人の女性プレイヤー。彼女の放つプレッシャーは、他の初心者たちとは明らかに異質だった。


「……面白いことを言う。採算が合わない、か。君にはそう見えるんだな」


ハルは、あえて挑発するように、静かに微笑んだ。動揺を見せれば、食い尽くされる。現実の鑑定業で培った、数少ない交渉術の一つだった。


女性プレイヤーは、ハルの態度に少しも動じなかった。彼女は、周囲に群がる他のプレイヤーたちを一瞥すると、呆れたようにため息をついた。


「少し、場所を変えない? ここじゃあ、ハイエナが多すぎるわ」


ハルは無言で頷くと、残っていた数個のインゴットをあっという間に売りさばき、「本日は完売です」と露店を畳んだ。名残惜しそうに舌打ちするプレイヤーたちを背に、彼は彼女の後について歩き出す。


彼女がハルを案内したのは、街の広場から少し離れた、静かな一角にある酒場だった。まだ昼間だというのに、店内は薄暗く、数人のNPCが静かにグラスを傾けているだけだ。プレイヤーの姿は見当たらない。


一番奥のテーブル席に、二人は向かい合って座る。


「さて、単刀直入に聞くわ」


彼女は、フードを外し、その美しい顔を露わにした。

(まさか、いや、そんなはずは……でも、この声、この目……間違いない――サクラだ)


ハルは息を呑んだ。彼女はテーブルの上で指を組み、鋭い視線でハルを射抜いた。


「あなたの目的は何? ただの小遣い稼ぎじゃない。そのやり方には、明確な『戦略』がある。君のやってること、ね……あれだけのインゴットを“あの価格”で放出して、誰も気づかないとでも?」


ハルは、すぐには答えなかった。盗品事件の後、他人を、そして自分自身を信じることができなくなっていた。目の前の女が、自分を利用しようとしているだけかもしれない。


「……なぜ、俺なんだ?」


ハルが絞り出した問いに、サクラは待っていましたとばかりに答えた。


「それ、現実の職場でも見たわ。あなたの完璧な目と、たった一つの弱点をね」


その言葉に、ハルの胸に、氷の刃が突き刺さったような痛みが走った。最も触れられたくない傷を、彼女は容赦なく抉ってくる。


「あなたの目は完璧だった。モノの価値を寸分の狂いもなく見抜いた。でも、人の悪意を見抜けなかった。……この世界には、人の悪意はないわ。あるのはデータだけ。ここでは、あなたの目は完璧な武器になる。だから、あなたがいいの」


彼女の言葉は、ハルの心の奥底まで届いた。彼女は、ハルの能力と、その弱さの両方を、正確に理解していた。


「私と組みましょう。あなたの生産力と、私の交渉力があれば、この街の市場は私たちのものよ」


サクラは自信に満ちた笑みを浮かべた。だが、ハルは即決できなかった。盗品事件のトラウマが、彼の決断を鈍らせる。


「一人でやれるか、まず試してみたい。だから、少し時間をくれ」


それが、今のハルにできる精一杯の返事だった。


酒場を出たハルは、一人になった。サクラの提案は魅力的だったが、まだ人を信じることが怖い。彼は、自分の計画を一人で続行するため、再びあの鍛冶屋裏のゴミ捨て場へと向かった。


しかし、そこに広がっていたのは、予想外の光景だった。

ゴミ捨て場の入り口を、同じデザインの装備で統一した3人組のプレイヤーが塞いでいた。彼らはガラクタを拾いに来た他のプレイヤーを追い返している。リーダー格の男は、道を塞ぐ仲間に視線だけで指示を出しながら、ハルににやりと笑いかけた。


「よう、インゴットの兄ちゃん。悪いが、この場所は今日から俺たち『スクラップ・ハウンズ』の管理下になった。ここから先は有料だ」


「……どういう意味だ」


「見ての通りさ。このゴミ捨て場は街の中だが、クエストにも関係ないただの裏路地だ。PKはできねえが、こうやって道を防ぐだけなら、運営もすぐには動かねえ。俺たちは、このシステムの穴を利用したビジネスを始めたってわけだ」


男の言葉は、ハルの脳裏に、あの盗品事件の記憶を鮮明にフラッシュバックさせた。理不尽な暴力、奪われる価値、そして何もできない自分の無力さ。


ハルは、唇を噛み締めた。彼は悟った。剥き出しの欲望も、ここには確かに存在していた。そして、自分一人では、その暴力的な欲望の前ではあまりにも無力だということを。


ハルは、男たちに背を向けると、静かにその場を立ち去った。背後から嘲笑が飛んでくるが、彼は振り返らなかった。


肩に触れる風が、妙に冷たく感じた。信じられるものなどないと思っていた。……だが、信じなければ、何も守れない。


彼は、メッセージウィンドウを開き、先ほどの取引履歴からサクラの名前を見つけ出すと、一通だけメッセージを送る。


「契約の件、受けよう。ただし、俺が決める価格は、誰にも口出しさせない。それが条件だ」

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