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第39話 港の明け方、黄金の毛

 まだ空は青くならない。港の匂いが厚くて、潮の粒が肌に貼りつく。扉に手を置く前に、胸ポケットの木の五線譜を軽くなでた。昨夜から、金の埃みたいな糸が貼りついて取れない。気のせい……にしては、温度がある。


「行ってくる」


 小さく言うと、梁の風鈴がちりと一回。いい返事だ。


「合言葉は?」サクラが肩のストラップを直しながら、片眉を上げる。


「先に奪わない。守って取り返す」


「はい、よく出来ました」


 メンバーは絞った。俺とサクラ、ユミ、ハヤト。現場で動ける四人だけ。路地に出ると、リックが壁にもたれていた。帽子はやっぱり少し曲がっている。


「こっちだ。声、落として。網倉は“起きかけ”が一番うるさい」


「買い叩きの匂い、もうするわね」サクラが鼻先で空気を切った。


「“珍しい日は珍しい金”をやりたがる連中が集まる。今日は“毛”が出るって噂で、虫も増える」


 港は半分眠って、半分動き出している。ロープの擦れる音、樽の鈍い転がり、魚の金属みたいな匂い。黄色ライン(セーフ境界)の手前で、リックが振り返った。


「ここから先、街の世話は薄い。殴るな、押さえるな。先に回って“通り道”作るんだ」


「了解」ハヤトは短く答え、影の濃い方に溶けた。


「ユミは上」


「はーい」


 ユミは梯子をすいすい上がって、屋根の縁に腰をかける。見張りの目が一つ、空に増えた。


 網倉は、鉄の扉に錆の花。中は広くないが、棚が組まれて、濡れたロープが乾き、木箱と海水の匂いでむっとする。奥の柱の脇に、小さな円卓。酒場から無理やり借りてきたみたいな、簡易の台だ。


「来たな、買い手さん」


 短い髭の男が腕を組む。後ろに細い若いのが二人。裏の渡し屋――悪党じゃないが、褒められもしない顔。


「品を見せて」サクラはにこりともせず言った。愛想は置いてきた目だ。


「焦るなって。まず“席料”だ。祭り相場、ってやつよ」


「相場は市場で決まる。席料は払わない」


 サクラは一歩も引かない。「ここで商売したいなら、“足元見ない”って先に決めよ」


 髭の男が鼻で笑おうとしたとき、横の木箱が山ごとぐらりと傾いた。中身は濡れた網と浮き。箱の角が足の甲に落ちかける。


「下がって」


 俺は体を入れて、箱の“肩”を撫でるみたいに押して、斜めに滑らせた。止めるんじゃない、逃げ道を作る。重さが勝手に外へ抜けて、箱は別の箱にもたれてぴたりと止まる。


 倉番の老人が目を丸くして、帽子を脱いだ。「あぶねえ角なんだ、そこ。助かったよ」


「荷が先。話は後でいい」


 サクラが髭の男に目を戻す。


「……チッ、分かった。席料なしでやろう。ほら、見な」


 布をそっとめくる。乾いた光が、こぼれ落ちるみたいに広がった。黄金の毛。まっすぐの線じゃなくて、羊毛みたいに細かく縮れ、角度で表情を変える。生きた金属――そんな言葉が一瞬、浮かぶ。


 胸ポケットが、ふっと温かくなる。木の五線譜の上に貼りついた金の糸くずが、呼吸したみたいに膨らんだ。


「二束ある。一本は薄い。一本は厚い。見りゃ分かる」


「偽物混ざってたら怒るよ?」屋根からユミがひょいっと降りてきて、細い針を一本取り出した。「刺して、音で聴くから」


 俺は鑑定を起動する。視界の端が薄く光り、素性の輪郭が浮く。一束目――表の皮が厚い。芯が軽い。化粧。二束目――繊維一本一本が“道”を作る。手の中で、細い線がどこかへ伸びていく感覚。


「こっちが化粧。こっちが本物」


 俺が指すと、ユミの針が本物へちょん。きん、鈴の下の音。ユミが小さくうなずいた。


「本物。いい声」


 髭の男の目が細くなる。「目が利くな。値は張るぞ」


「相場で払うわ。相場ね」サクラが言う。ここは譲らない。


 横から、薄い声が割り込んだ。黒い外套が二人、音もなく寄ってくる。目だけ笑ってない。


「横から悪いね。その束、まとめてもらう。現金。“席料ごと”いくよ」


「ほら出た」ユミが小さく。サクラは笑わない。


「席料、なしって約束したよね?」


 髭の男が外套と目だけで会話する。空気が少し嫌な色になる。


「待った」


 前に出る。胸の熱が、一段上がった。


「決めるのは“毛”だ。誰のものか。選ばれない相手が持つと、ただの素材。こっちに来るなら、帰る場所に帰る」


「口がうまいな、兄ちゃん。素材は素材だろ」


 言葉を返す前に、リンが肩口の上で、針の先みたいに一瞬、点になる。ノットの影が俺の足元で小さく結んで、ほどけた。胸の金の糸が、少しだけ熱い。――こっちを見た。


「誓札、出す」サクラが俺の横に進む。「先に奪わない。守って返す。作るもので腹を満たし、作ることで腹を満たさない。この二つで足りる?」


「最後の言い方、好きだな」ユミが口角を上げる。


 木の札が台に触れてコッ。髭の男の眉がわずかに動いた。筋は嫌いじゃない顔。


「試しをくれ」俺は布の上の本物を指した。「結びを作る。失敗したら買わない。成功したら、相場で買う」


「試しの後で“相場”を上げるかもしれねえぞ」


「それはそっちの自由。こっちは失敗したら立ち去る」


 短い沈黙。外套の片方がつまらなそうに舌打ち、片方は石みたいな顔。髭の男は顎で布を示した。


「やってみな」


 手を洗って、布を広げる。毛は軽いのに、芯がある。コトハの糸を借りる。細い白、鳴る縫い目に使うやつ。台の上で小さな輪を作る。毛を一筋だけ取って、輪に通す。ノットの影が輪の下できゅっと小さな結び目を作った。ここだ。


「結び、どうするの」ユミが覗き込む。


「蝶結び。ほどこうと思えばほどける。でも、ほどかないとほどけない。――誓いの形」


「言い方ずるい」


 糸をクロス。毛をひねって、輪の中へ戻す。指の腹で締める瞬間、リンの光がふっと太る。胸ポケットの金の糸くずが熱を帯びた。指が汗で滑りそうになって、息を細く整える。


「ハル、吸って、吐いて」


「分かってる」


 きゅっ。結びが閉じる。毛の色が一瞬だけ濃くなった。耳の奥で、鈴の下の音が小さく鳴った。


「遊びか?」外套が鼻を鳴らす。


「違う」


 俺は結びを掌に載せ、胸の上――木の五線譜のところへ置く。工房の匂い、港の潮、火の名残。全部が、結びの向こうへ流れ込む感じがした。声は出さない。お願いもしない。ただ、戻ってこいと、手の中を空けておく。


 網倉の隙間から細い風が一本、台の上を撫でた。リンが点になり、ノットの影が細く伸びる。結びの中に、小さな光の粒が灯る。暴れない。跳ねない。ただ、そこに在る。掌が温かくなり、喉の奥が少し痛い。


「……帰ってきた?」ユミの声は、さっきより小さかった。


 返事は、ない。でも、分かる。いる。


「どうだ」髭の男が低く問う。


「成功。こっちに来た」サクラが淡々と答えた。「相場で買う。例外はなし」


「相場いくらだよ」外套が割り込む。「二倍出す」


「二倍の席料込みでしょ」ユミが斜めに笑う。「それ、踏みつけって言うの」


「文句あるのか」


 その時、港の警笛。

「逆流注意! 西の水路、開きすぎ!」

 入り口の方からじわっと水が足元に滲む。外套の一人が足を滑らせ、台の脚がギギと鳴った。


「荷、上げるよ」


 結びを胸の内側へ滑り込ませ、台を押さえる。サクラが帳面と札を抱え、ユミが箱の山を横へ滑らせ、ハヤトが影から砂袋を差し込んで逃げ道を作る。倉番の老人が「済まねえ、助かる」とまた帽子を脱いだ。外套は舌打ちして足を払う。


「相場で決めよう」サクラは涼しい声のまま。「私たちは相場で払う」


 髭の男は肩で笑ってから、数字を言った。適正。高くも安くもない。


 サクラは迷わず袋を開き、枚数を声に出して数える。「——足りない分、恩で返す。今朝、席料を引っ込めた恩。さっき、荷を救った恩。三つで釣り合い」


 髭の男は一秒だけ目を伏せ、それから頷く。「……釣り合った」


 取引は静かに終わった。黄金の毛は、布ごと俺の胸の内側。結びは温度で返事を続けている。外に出ると、夜明け前の空気が薄く、少し甘かった。


「言葉にする?」サクラが歩調を合わせる。


「……まだ、いらない」


「うん」


 黄色ラインに戻る手前で、ユミが肩を小突いた。「今日のハル、ちょっと人間味あるね」


「普段は?」


「ちょい機械」


「失礼だな」


「ほめてるよ」


 笑いながら歩く。工房の扉に手を置くと、風鈴がちり。いつもの音なのに、今日はおかえりって聞こえる。


 中に入って、作業台に古い布を広げる。胸の内から結びをそっと取り出す。金の毛の中で、光の粒が小さく呼吸していた。


「儀式っぽくやる?」ユミが囁く。


「いらない。ここ、家だし」


 結びの両端をもう一度固め、木の五線譜の上に置く。リンが光を細く引き、ノットの影が結び目の上で丸くなった。――十分だ。


 視界の隅で、システムの小窓が一瞬だけ開く。


契約:微精霊・ポムル(芽)

状態:目覚め直後/言語出力なし

共鳴:雑用/錬金/家

備考:連携は“段取り”と“馴染み”に現れます


 息がふっと抜けた。声は出さない。サクラが黒板に白いチョークで、そっと一行だけ足す。


 ポムル――ただいま


 誰も拍手はしない。誰も泣かない。けれど、家全体が一息ついたのが分かった。


「朝ごはんどうする? 甘いの食べたい」


「砂糖節約中じゃ?」ユミが眉を上げる。


「こういう日は別腹。経理は私がやる」


「頼もしい」


 湯が湧く音、椅子の足が床を撫でる音、誰かの小さな鼻歌。掌の上の結びが、ぬるい体温を返してくる。いる。それだけで、やけに満たされる。


 胸の奥に空白があったことを、ようやく自覚する。ずっと穴があって、手順と効率で蓋をしていた。穴はもう塞がない。一緒に使う。


「おかえり」


 誰にも聞こえないくらいの声で言う。風鈴がちり。返事が、少し遅れて、ちょうどよかった。

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