第33話 拠点という名の工房
港の鐘が、薄く二度鳴った。
潮の匂いと、石灰の粉っぽさと、朝いちばんに焼いた魚の煙が、細い筋になって街路を横切っていく。スイレンの朝は、音の層がやさしい。遠くで荷車の車輪が石畳を噛む音、屋根の上を渡る風の音、露店の布屋が紐を引く音。
石造りの小さな建物が一つ、その音たちのただ中に沈んでいた。無名の工房。表の看板は色が抜けて、読むより触って確かめるほうが早いくらい乾いている。
扉の取っ手に手をかける。金属の冷たさが、掌にすっと吸い込まれた。
押し開けた瞬間、古い油の匂いと、煤の乾いた粉と、湿った木箱の匂いがひとかたまりになって頬を撫でた。床板はところどころでわずかに沈み、窓ガラスの縁には潮風で白い粉が吹いている。
「骨は、いいね」
最初にそう言ったのはユイだった。背負ってきた木工道具の箱を静かに降ろし、梁を仰ぐ。彼女の目は木目の奥行きにまっすぐ沈んでいく。
「ほら、ここ。梁の根元、食われてる。でも芯は生きてるよ。詰め木して抱かせれば、まだ歌うと思う」
「歌う?」
ケンタが首をひねる。
「木は歌うよ、ふふ」ユイは小さく笑う。「叩けば返事するし、触れれば機嫌も直るの」
「まずは掃除からよ」
サクラが袖を捲り、口元に布を当てる。肩に乗ったリンが、くしゅん、と小さくくしゃみをした。
「十分我慢。午後には市場にも行くんだから」
「重いのは俺が」
ケンタが腕を回して見せると、リョウが後ろから肩を叩いた。
「腰、やるなよ。抜けられたら困る」
「お前にだけは言われたくねえな」
二人の笑い声が、煤けた天井の上で跳ね返る。
「外周、俺が見てくる。釘の飛び出しと、古い罠の類いがあったら落とす」
ハヤトは片手でフードを被り、影の薄い猫みたいな足取りで外へ消えた。
「歯車の唸りがしてたよ。多分、外壁の巻き上げ機。錆びて噛んでるかも」
シズクが壁に耳を当てたまま言う。「火花が出るかもしれないから、水、用意しておくね」
ジンは炉の前で膝を折り、耐火煉瓦を一本指先ではじいた。乾いた音。
「割れてる。灰は一度全部出して、扉の蝶番を鍛ち直す。息をつければ、まだ火は回る」
「布もの、ぜんぶ洗って干し直したいな。埃よけ、工具カバー、前掛けも」
コトハが目を輝かせる。「色、揃えよ? 道具の居場所が決まるだけで、仕事の手が早くなるから」
視線が集まった。俺は頷いて、ほうきを取った。柄の木肌は、長く握られてきた証みたいに滑らかで、どこか温かい。
「じゃあ、始めよう」
しゃっ、しゃっ。
砂が隅に追いやられていき、埃が陽の筋に舞う。モップに湯を含ませ、薄く苦い香りの液を一滴だけ落とした。拭ったところの冷たさの角が丸くなって、床の鳴きが一つ、黙る。
窓を開けると、潮の風が通って、室内の匂いの層が二つ、三つと剥がれていく。深呼吸した空気が胸の奥まで届くのがわかる。ここは、息を始めた。
火床の灰が掻き出され、ジンが薪を組む。シズクが指先で小さな火花を生んでくれる。吸い込まれた空気が炉の喉を通って、ごうっと低く鳴った。炎は最初こそ乱暴だったが、すぐにやわらかい黄色に落ち着いて、息を整えるみたいに揺れた。
「いい呼吸だ」ジンの口元がわずかに上がる。
ユイは壁から古い棚板を外し、柱の真に当たるように新しい横板を渡していく。木槌の音が石壁の芯に澄んで響く。木の匂いが増して、部屋の温度がひとつ上がった気がした。
「荷重、逃げてたからね。これで道具、落ちないよ」
「はい、第一号だよ」
コトハが赤茶の布で前掛けを縫い上げる。走り縫いの糸を少し焦がしたみたいな色にして、腰に巻いてくれた。
「似合ってるよ。ユイの棚の木目と合わせたくて、糸の色、少しだけ渋くしてあるの」
サクラは紙束と鉛筆と簡易計量器を広げ、港の午前の相場を書きつける。
「氷獄の素材、白化しやすいのが混ざってる。——ハル、例の薄膜、試せる?」
「やる」
鍋に水を張り、樹脂と香草を溶かす。温度が一段上がるたび、匂いの角が丸くなっていく。筆で素材の表面をすべらせると、ごく薄い膜が一層まとわり、光の途切れに深い艶が宿った。
肩のリンが膜の上をぴょんと跳ねて、きらきらと光を散らす。
サクラが笑って、そっとリンを指で止めた。「食べないの。売るの」
ユミは窓辺のガラスをひと枚ひと枚磨き、外の見晴らしを確かめていた。
「ここからだと港の見張り台まで見通せるよ。……でも、射線の手前、洗濯縄がちょっと邪魔かな。動線、変えよっか」
「視線の通り道は、動線の通り道だ」リョウが頷く。「見張り番は誰でもできるようにする。ユミ、窓の桟を軽く削っておいてくれ。弓が引っかからないように」
「はーい了解。干し場は屋根裏の風通しがいちばん。紐、張ってくるね」
ハヤトがひょいと戻ってきた。
「外壁の角、巻き上げ機が唸ってる。歯車が噛み違い。鎖、弾けると飛ぶ」
「テコで戻せる?」
「三人いれば足りる」
ユイが立ち上がる。
「支点はここかな。押しはケンタくんで、槍はテコにするね。カエデさん、支えお願い」
「持っていけ」ジンは工具箱を押し出した。
「シズクは水。サクラ、濡れ布。ユミ、周囲の人払い頼む」
「はいよ。商店のおじさんにも声かけて、『今日は工事の日』って札もらってくる」
外に出ると、港の風が頬を洗った。
歯車は錆びで膨らみ、鎖は不規則に身を震わせている。ユイが素早く罠の目を読む。
「支点はここ。押しはケンタくん。槍はテコ。……カエデさん、お願い」
ケンタの背中が石のように固くなる。カエデは槍を滑らせて支点を作り、ユイが楔を打ち込む。
「槍はテコになるからね。押しと引きと支え、順番、間違えないで」
「三、二、一——今」
金属の唸りが一段落ちて、鎖の震えが細くなった。ジンの差したピンが咬む音がこつんと響いて、シズクが濡れ布を巻いてわずかな火花を潰す。
「ふぅ」ケンタが大きく息を吐く。「腰、セーフ」
カエデが槍の柄で彼の頭をこつんと軽く叩いた。「よくやったね。腰は大丈夫?」
俺は室内に戻り、炉の縁を指で叩いた。返ってきた音が、さっきと少し違う。煤を拭うと、嵌め込みの金具が見えた。
「ジン、ちょっと」
金具を外すと、炉の床がす、と持ち上がった。
内側は浅い収納。布に包まれた板と、薄い冊子が入っている。
布を解くと、木の板に彫られた五線譜が現れた。音符は素朴で、歌詞は古い文字で刻まれている。
薄い冊子の表紙は擦れて、金の文字が辛うじて読めた。
『古の職人の書〈断章〉』
ページをめくる。染みで読めない箇所が多いのに、そこからも匂いが立った。乾いた草、焦がした砂糖、微かな鉄。
“熱”と“味”の交わるところ。
“見立て”と“混ぜ合わせ”の順番。
“縫い”と“木組み”と“鍛ち”が、同じ“曲”を奏でる——そんな言葉が欠け欠けに並んでいる。
「楽譜、だよね」
コトハが覗き込み、指先で音符を撫でる。
「縫いのリズムに似てる……息の位置が、あるみたい」
戻ってきたユイも、板の端を軽く叩いた。
「樹の音、まだ生きてる……きれい」
サクラがふっと息を吐いた。「この工房、歌うわね」
リンが小さく羽根をふるふると震わせる。背後で黙っていたノットは、炎の揺れと同じテンポで影を伸ばした。気のせいかもしれない。でも、空気はたしかに透きとおった。
「続きは夜。いまは手を動かそう」俺が言うと、みんなの声が重なった。
その後の数時間は、ほとんど祭りだった。
ユイの木槌が小気味よく鳴り、傾いた棚はまっすぐに戻る。
コトハは窓に薄い布を張り、陽の線を柔らかく拡げる。工具のカバーの端に、小さな刺繍で丸い蛇——尾を呑むウロボロスが生まれていく。
ユミは屋根裏に上がり、紐を渡しながら、屋根の隙間風の通り道を探っている。
「干し場はここがいいかな。風が細く抜けるし、音も伝わりにくいから、夜でも静かだよ」
彼女は指で“ここからここまで矢が通る”と空に線を描き、笑って手を振った。
ハヤトは屋根を伝い、古い釘を抜いては新しいものに打ち替える。途中で近所の鍛冶屋の親父とすれ違い、ついでに巻き上げ機の古い部品の話を聞き出してきた。
「交換は鋼鉄都市の方が早いってさ。便は夕方」
「助かる」サクラが鉛筆を走らせる。「手配する」
ジンは炉の蝶番を鍛ち直し、火床を鋼で撫で、灰の置き場所を作った。
「火は、怒らせない。機嫌よく働いてもらう」
そう言うと、ノットがわずかに肩を揺らした。笑ったのかもしれない。
シズクは水を張った桶に香草をひとつまみ落とし、濡れ布に香りを移して工具を拭いた。錆の匂いが薄れて、布からは草の青い匂いが立つ。
「これで、手に嫌な匂い、残らないよ」
彼女はついでにケンタの手首に触れた。
「無理したでしょ? 冷やすね」
「あい……ありがと」ケンタの声が少し小さくなる。
カエデは槍をテコ代わりに床の沈みを戻し、沈んだ板の下に薄い板を差し込んで高さを合わせた。
「座ったとき、膝の角度が同じになるようにね。長く座っても疲れない椅子は、床が決めるから」
彼女の言葉は、まっすぐで、やさしい。
リョウは道具の居場所を決め、誰でもすぐ手に届く高さに揃えた。
「迷った時間は死に時間だ。ここは戦場じゃないけど、段取りはいつでも戦術だ」
彼は笑って、俺の肩を軽く殴った。「俺たち、強くなるぞ」
昼を少し過ぎ、工房の空気が人の体温で温まったころ、外で小さな騒ぎが起きた。
巻き上げ機の鎖が、また低く唸り、金属が不機嫌な音をあげる。
「行く」
声に迷いはもうない。
ユイとカエデとケンタが持ち場に付き、ジンがピンを、ハヤトが気配を、シズクが水を、サクラが人払いを、ユミが視界の確保を、コトハが布で火花の遮りを——そして俺は、手元の楔を一本強く握った。
緊張の糸がふっと緩んだのは、ほんの数呼吸のあとだった。
鎖の震えが細くなり、金属の唸りが喉の奥で鳴る低音に変わる。風が砂を連れ去る。ユイが打ち込んだ楔は良い音で立っていた。
「撤収」
誰かが笑う。笑いは連鎖する。人の顔色が、やっと、工房の色になってきた。
夕暮れには、煮込みの鍋を火にかけた。
玉ねぎの甘い匂いが早くから漂い、根菜の角が火の中でやさしくほどけていく。肉の塊は煮汁の色を少し濃くした。コトハがパンを切り分け、ユミが皿を並べ、シズクが器を温め、ユイがテーブルの脚に薄い当て木をしてがたつきを消した。
誰かが椅子を引く音でさえ、心地よく聞こえる。
「それじゃ、言葉にしよう」
サクラが立ち、みんなの顔を見渡した。
「ここを、私たちの拠点にする。名前は『ウロボロス』」
彼女は一呼吸置いて、まっすぐコトハとユイを見た。
「——そして、コトハ、ユイ。正式に、ウロボロスに入ってほしい」
コトハは少しだけ目を丸くして、直後、いつもの笑顔になった。
「うん。縫う人は、家族が多いほど上手になるの」
ユイは短く頷いた。
「やるよ。棚も、床も、みんなの背中も、ぜんぶ支えるから」
俺は鍋の蓋を少し開け、立ちのぼる湯気を顔に受けた。
「ありがとう。じゃあ、順番に。ここで叶えたいこと、一言ずつ」
静かに輪が回る。
ケンタは「でかいテーブル。肘ついても怒られないやつ」。
カエデは「長く座っても体に負担がない椅子」。
ハヤトは「屋根裏の見張り台。風の音で人を識別できるように」。
シズクは「湯気が逃げない小窓がほしいな。冬が来ても指がかじかまないように」。
ジンは「火を怒らせないための灰小屋。火は、友だちでいてもらう」。
ユイは「誰の手にも届く高さの棚。 ‘探す’ を仕事にしないための棚」。
コトハは「泥でも似合う前掛け。汚れも、誇りにしていい布にしたいな」。
ユミは「窓のひとつを“耳”にしたいな。港の気配が分かる耳」。
サクラは「ここを ‘名前で買われる工房’ に。商品じゃなく、私たちの名で」。
リョウは「お前らの作ったものを携えて前へ出る。勝てる理由を、ここで作る」。
俺は、最後に言った。
「世界で一番、手を入れたものが報われる場所にする」
「記念にね」
コトハが小箱を開けた。布の腕帯が人数分。端には、さらりと尾を呑む蛇の刺繍。
「ほどけたら、また縫い直そ。何度でも強くなるから」
ユイは薄い木札を削り、焼き印で小さく印を押した。
「扉に吊るすね。帰ってきた人は触ってから入って。——ただいま、って」
みんなで鍋を囲む。
スープはやわらかく舌の上でほどけ、体の芯が温まっていく。皿の縁に残ったパン屑をリンがちょこんとつつき、ノットは相変わらず炎を見ている。
笑い声が重なり、椀の当たる音が小さく鳴る。誰かが心のどこかで長く抱えていた緊張が、湯気に戻って天井へ消えていった。
そのときだ。
壁のどこかから、とても小さな旋律が、風といっしょに滑り込んできた。
潮の隙間が鳴らしただけかもしれない。古い木が温まって吐いた息かもしれない。
でも俺には、五線譜の歌に聴こえた。
ユミが箸を止め、コトハが布の端を指でなぞり、ユイが目を細める。サクラは耳を澄ませ、ジンは炎の揺れに合わせて呼吸を整えた。
リョウが「気のせいじゃないの」と笑い、ケンタが「いい歌だ」と頷く。シズクは窓を少し開けて、風の向きを確かめた。ハヤトは屋根裏へ視線を送り、「この工房は、帰り道の音がする」と呟く。
扉の上に吊られた小札が、静かに揺れた。
ウロボロス。
輪郭のある言葉が、やっとこの家に根を張った。
いつ帰ってきてもいい。何度離れても、戻ってこられる。
そんな場所を、俺たちは今日、手で作った。
夜は、ゆっくり降りてくる。
火はまだ、機嫌よく燃えている。
そして工房は、確かに、かすかに——歌っていた。




