第2話:二つの戦場
その夜、ハルは二つの世界で戦うことを決めた。
「ファンタジア・オンライン」の購入ボタンを押した直後、ハルは自分のデスクに向かい、もう一つのファイルを開いていた。『独立開業準備資料』と名付けられたフォルダ。三ヶ月前から密かに集めていた、ブランド品や時計、宝飾品の専門家として独立するための情報の集積だった。
店長の失望した顔を思い出すたび、彼の心に宿っていた想いがあった。(このまま会社にいても、俺の居場所はもうない。だったら……)
彼はブラウザを二つ開いた。左側には「ファンタジア・オンライン」の公式サイト、右側には「独立開業マニュアル」のページ。まったく異なる二つの世界が、彼の視界を分割している。
サービス開始まで三日。準備期間は短いが、やるべきことは山積していた。
翌朝、ハルは出勤前に、いつもより30分早く家を出た。向かったのは、電車を乗り継いだ先にある、国内最高峰の高級街――白鷺地区。
目的の場所は、その地区の裏通りにひっそりと佇んでいた。看板もなく、重厚なオーク材の扉があるだけ。知る人ぞ知る、会員制バー「GEMSTONE」。
「おや、珍しいお客さんだ」
扉を開けると、カウンターの内でグラスを磨いていたマスターが、顔を上げた。70歳を超える白髪の老人、古川。ハルが鑑定の基礎を学んだ、真の師匠とも言える人物だ。
「古川さん、お久しぶりです。実は……相談があって」
「ほう。聞こう」
古川は、業界では知らない者のいない伝説の鑑定士だった。世界的なオークションハウスで活躍した後、一線を退き、このバーを開いた。表向きは高級バーだが、その裏では、資産家やコレクターを相手に、宝飾品の真贋鑑定や仲介を行っている。
その彼の前で、ハルは頭を下げた。
「独立を考えています。アドバイスをいただけないでしょうか」
古川の目が、一瞬鋭く光った。「Valoriaで何かあったか?」
ハルは、昨日の盗品事件を簡潔に説明した。古川は黙って聞いていたが、最後にこう言った。
「バカ者が。お前の目に罪はない」
「でも、結果として……」
「結果論で職人は語れん。お前の鑑定は正しかった。問題は、その先だ」
古川は、カウンターの奥から一冊のノートを取り出した。手書きで書かれた、古い顧客リストだった。
「独立するなら、まずは小さく始めろ。ネットオークションでも、フリーマーケットでもいい。お前の『目』を信じてくれる客を、一人ずつ増やしていくんだ」
「古川さん……」
「ただし、条件がある。半年は今の会社を辞めるな。副業として始めて、軌道に乗ってから独立しろ。焦るな」
それは、ハルが求めていた言葉だった。誰かが、まだ自分の『目』を信じてくれている。その事実だけで、彼の胸の奥で、小さな炎が再び灯った。
会社での昼休み、ハルは人気のない屋上で、スマートフォンでゲーム情報を調べていた。今度は感情ではなく、冷静な戦略で。
フォーラムでベータプレイヤーたちが嘆いている内容を、一つ一つ分析する。
『生産職は素材集めがつらすぎる。モンスター素材は戦闘職頼み』
『NPCから買える素材は高すぎて採算が合わない』
『結局、戦闘職の装備更新需要しか市場がない』
しかし、ハルは別の書き込みに注目していた。
『街の清掃員NPCから大量のガラクタを買い取れるけど、誰も見向きもしない』
『分解で出る副産物、ベンダーに売るしかないのが萎える』
(みんな、上ばかり見てるな)
ハルの脳裏で、現実の鑑定士としての経験が蘇る。価値のあるものは、往々にして誰も注目していない場所に埋もれている。ゴミだと思われているものの中にこそ、本当の宝が隠されている。
(再起をかけるには、誰も選ばない道を、誰より深く掘り下げるしかない)
彼は手帳に、再起をかけた10個のスキルを書き出した。
【価値創造の中核】
鑑定:隠れた価値の発見
錬金:素材の組み合わせ
鍛冶:金属加工
裁縫:布製品加工
木工:木製品加工
【収益基盤】
収集:ガラクタの大量取得
分解:素材への変換
【差別化要素】
料理:バフ効果による付加価値
テイマー:運搬・作業補助
そして、最後の10個目のスキル。彼は、その枠を大きく囲み、こう書き記した。
【全ての土台】
雑用:全生産活動へのパッシブバフ
(戦闘職が見向きもしない『ガラクタ』を『高品質素材』に変える。そして、全ての生産活動を『雑用』スキルで底上げする。それが俺の戦場だ)
その日の帰り道、ハルは古川から預かった顧客リストを見返していた。その中に、一つの名前を見つけて足を止めた。
「黒木コレクション……まさか」
それは、昨日店に来た刑事と同じ苗字だった。偶然か……?いや、違う。あの刑事の目が、ハルの鑑定を試すような、同じ光を宿していた。
家に帰ると、スマートフォンに再び謎のメッセージが届いていた。
『明日、ゲームが始まる。君の選択を、我々は注視している』
ハルは、画面を見つめながら呟いた。
「どちらの世界でも、俺を試そうとする奴がいるってことか」
彼は、現実世界の資料とゲームの攻略メモを並べて置いた。二つの戦場で、彼は同時に戦う。失った信頼を取り戻すために。そして、自分自身の価値を証明するために。
(今度は、逃げない。どんな結果になっても、最後まで自分の『目』を信じて戦う)
翌朝、スマートフォンのアラームとは違う、硬質な電子音が、静かな朝を切り裂いた。サービス開始の告知音だった。
新しい戦いが、今始まろうとしていた。