第15話:職人の記憶と市場の炎
――俺は、一体、何に足を踏み入れてしまったんだ。
ハルの思考は、そこで完全に凍りついた。
写真の中央で、穏やかに微笑む老人――斎藤。その腕には、現実で再起を賭けたアンティークウォッチが、確かに光っている。
だが、ハルの視線を釘付けにしたのは、その背後にぼんやりと写り込んだもう一人の人物だった。
短髪に鋭い目。記憶の奥底に焼き付いた顔。
(……黒木? なんで、あんたがここに……?)
胸の奥を冷たいものが這い上がる。
無関係なはずの三つの点――斎藤、時計、そして黒木。それらが、一枚の古い写真の中で不気味に線を結び始めていた。
「……どうか、なさいましたかな?」
カウンター越しに、写真館の主人が心配そうに顔を覗き込む。老人の声は穏やかだが、その奥に長年の職人が持つ洞察の鋭さが潜んでいる。
ハルは慌てて表情を整え、黒木の影から視線を逸らした。
「い、いえ……。ただ、この時計……本当に、大切にされていたんですね」
老人は懐かしむように目を細め、そっと息をついた。
「ええ。斎藤さんはね、戦争でたった一人の息子さんを亡くされた。奥さんもその後を追うように病に倒れ……。この時計は、そんな彼が、同じように傷ついた職人仲間たちのために作った唯一の品なんですよ」
老人は奥の棚から、埃をかぶった分厚いアルバムを取り出す。ページをめくるたび、古い紙が静かに鳴く。
「息子が生きた証を残したい。そして、俺たちの技術の魂を永遠に刻みたい――そう言っていました」
その言葉は、ハルの胸に重く沈んだ。
この時計には、ただの金属ではなく、失ったものへの深い愛情と、それでも誰かのために価値を創ろうとした職人の祈りが刻まれている。
ハルはしばらく無言で時計を見つめ、やがて写真のコピーを頼んだ。深々と頭を下げ、静かな通りに出る。
外の空気は冬のように冷たく、肺の奥まで澄み渡る。
だが、頭の中は黒木の影で満たされていた。
(……偶然か? いや、そんなはずはない。だとすれば、あの人は何を知っている?)
その夜。
デスクに向かうハルの前には、落札したばかりの時計が置かれている。
もはやペンは止まらなかった。白紙のレポート用紙は、瞬く間に物語で埋まっていく。
それは鑑定士としての報告書であると同時に、彼自身の再起の物語でもあった。
斎藤の人生、彼を支えた仲間たちの魂、そしてそれを受け取った自分自身の思い――すべてを一行ずつ重ね合わせていく。
窓の外が白み始めた頃、机の上には数枚のレポート用紙が静かに重なっていた。
これは単なる記録ではない。初めて「自分の手で創り出した」作品だった。
ハルはその束を見下ろし、深く息を吐いた。
「……サクラとの最後のテストに、これを持って行く」
ハルは時計の物語を書き上げると、ペンを置き、窓の外を見やった。
現実での戦いに光明が差した今、もう一つの戦場を放置するわけにはいかない。
「……行くか」
ニューロリンカーを装着し、ログインコマンドを発動する。
視界が切り替わった瞬間、通知が一斉に表示された。
ジンとサクラからの連続メッセージだ。
『ハル! 大変だ!』
ジンの短くも切迫した一文。
『市場を見て。奴ら、とんでもないことを始めたわ』
サクラのメッセージは冷静に見えて、その奥底には怒りが滲んでいた。
街へ飛び出したハルの足は、自然と市場へ向かっていた。
しかし、そこに広がっていた光景は、昨日までの活気ある場所とはまるで別物だった。
人の波が特定の露店に集中し、あちこちで怒号が飛び交っている。
「なんだこれ、全然効果ないぞ!」
「詐欺だろ、返金しろ!」
露店の主は、スクラップ・ハウンズのメンバーたち。
彼らの前には、ハルたちの【濃縮技巧ポーション】にそっくりな黄金色の瓶が山積みされていた。
しかも価格は半値以下。
「はぁ? 俺たちは『技巧ポーション』なんて一言も言ってねぇぜ。『幸運のポーション』だって言ったはずだ。勝手に勘違いしたお前らが悪いんだろ」
嘲るような声が市場に響き、怒りと不信の炎がさらに広がっていく。
ジンが人混みをかき分け、ハルの元へ駆け寄った。
「見ての通りだ、ハル。奴らのせいで、俺たちのポーションまで『偽物なんじゃないか』って疑われ始めてる。このままじゃ、市場全体が死ぬぞ」
ハルは唇を強く噛んだ。
現実では、真実と職人魂を伝えるために書いた物語がある。
だが、ゲームでは悪意によって生まれた偽物が、本物の価値を食い潰そうとしている。
――二つの戦場は、同じテーマで繋がっていた。
「……サクラは?」
「あっちだ。一人で必死に説明してるが、信じてもらえそうにない」
ジンが指さした先、市場の隅でサクラが汗を滲ませながら声を張り上げていた。
しかし、不信の渦は彼女の言葉を呑み込み、逆に押し返してくる。
ハルは決断した。
「ジンさん。少しだけ時間を稼いでくれ」
そう言い残し、サクラの元へ駆け出した。
人垣をかき分け、彼女の腕を掴む。
「サクラ!」
「ハル……! ごめんなさい、私……」
「いいから、聞いてくれ」
ハルは彼女の言葉を遮り、真っ直ぐにその瞳を見た。
「ジンさんを、広場の中央に連れてきてくれ。俺たちの最高の素材も一緒にな」
「……何をするつもり?」
ハルは小さく笑い、短く答えた。
「決まってる。本物と偽物の違いを、この街の全員に見せつけるんだよ」
広場の中央。
ジンが運んできた木箱の蓋が開かれ、最高品質の素材が光を放つ。
サクラは深呼吸し、周囲のざわめきを見据えた。
「見てろよ、みんな」
ハルはポーション制作台の前に立つ。
その背中は、もう怯えてはいなかった。
「これが――本物だ」
手際よく素材を計量し、磨き、混ぜ合わせる。
配合比率は完璧。温度管理も一切の妥協なし。
市場に集まったプレイヤーたちの視線が、一心にその動きを追う。
やがて黄金色の液体が瓶に満たされ、封が施される。
ハルは一本を高く掲げた。
「これが俺たちの【濃縮技巧ポーション】だ。効果は、試してみればわかる」
群衆の中から、一人の鍛冶師プレイヤーが、半信半疑で前に進み出た。
「……俺に、やらせてくれ。昨日、あんたたちの偽物を掴まされた」
ハルは、黙ってポーションを手渡した。
鍛冶師は、それを受け取ると一気に飲み干し、携帯用の金床を取り出す。彼がインベントリから取り出したのは、製作難易度が極めて高い【鋼の短剣】の素材だった。
彼の槌音が、広場に響き渡る。
最初は、ぎこちなかったそのリズムが、徐々に、そして確実に、力強さを増していく。
「……なんだ? 槌を振り下ろすタイミングが、コンマ数秒単位で完璧にわかる。金属の『声』が、いつもよりクリアに聞こえるぞ……!」
火花が散り、鋼が鍛えられていく。誰もが息を呑んで見守る中、彼はこれまで何度も失敗してきたはずの短剣を、信じられないほどの精度で創り上げていく。
そして、彼が最後の一打を振り下ろした、まさにその瞬間。
完成したばかりの短剣が、まばゆい光を放った。広場にいるプレイヤー全員の視界に、祝福のようなシステムメッセージが表示される。
『Great Success!!』
光が収まった後、鍛冶師は完成した短剣を鑑定し、その驚異的な品質に震える声で叫んだ。
「……できた。品質80超え……。本物だ!」
その一言が、群衆に火をつけた。
さっきまで不信で濁っていた視線が、一気に熱気と興奮に変わっていく。
スクラップ・ハウンズのメンバーが慌てて荷物をまとめ、姿を消そうとするが、すでに遅い。
市場は本物を知ってしまった。
サクラが隣に立ち、静かに微笑む。
「やっぱり、あんたはこうじゃなきゃ」
ハルは照れくさそうに肩をすくめた。
「まあな。……でも、これからが本番だ」
現実とゲーム――二つの世界で守るべき価値がある。
そのためには、まだやるべきことが山ほどあるのだ。
そして彼は、現実で手に入れた写真の中の“もう一つの謎”を、再び胸に刻み込んだ。
若き日の黒木の姿。あれが示す意味は、まだ霧の向こうにある。
――答えを見つけるまでは、立ち止まるわけにはいかない。
とはいえ、次に動く前に、少しだけ呼吸を整える必要があった。
戦い続ければ、見えるものも見えなくなる。




