第1話:ガラクタと呪われた鑑定眼
その日、ハルの世界は、ガラスのように砕け散った。
買取店「Valoria」の午後は、いつも通り穏やかな時間が流れていた。壁の古時計が心地よいリズムを刻み、店内に流れるジャズが客足の途絶えた空間を静かに満たしている。
ハルはカウンターの内で、預かった宝飾品のメンテナンスをしながら、その精巧な作りに静かな感嘆を覚えていた。こういう瞬間が、ハルは好きだった。
モノと静かに対話し、その本当の美しさを引き出す時間。誰にも邪魔されない、彼だけの世界。
昨日買い取ったアンティークウォッチ「クロノスの遺産」も、同じように丁寧にメンテナンスを終えたばかりだった。
持ち込んだ男性の書類も完璧で、ハルの鑑定に一点の曇りもなかった。そんな平穏な時間を破ったのは、ドアベルの乾いた音と、二人の男の重い足音だった。
スーツ姿だが、その佇まいは明らかに一般客のものではない。
年配の方が懐から手帳を取り出して、ハルの前に立った。
「警視庁捜査二課の黒木です。昨日、こちらで『クロノスの遺産』という腕時計を買い取られませんでしたか?」
刑事の冷静な声が、ハルの鼓膜を突き刺した。
事務所の奥から出てきた店長の顔色が変わる。
「……はい、確かに。私が鑑定いたしましたが、何か?」
ハルは、まだ平静を装って答えた。彼の鑑定は完璧だったはずだ。時計そのものは、寸分の狂いもなく本物だった。
「その品が、昨夜発生した連続窃盗事件の被害品である可能性が高い。現物を確認させていただけますか」
店長の指示で、ハルは金庫から「クロノスの遺産」を取り出した。ずしりと重い金の感触が、今はなぜか不吉に感じられる。
黒木刑事は、白い手袋をはめると、その時計を慎重に手に取り、裏蓋に刻まれたシリアルナンバーをルーペで確認した。そして、部下が持つタブレットの画面と、その数字を静かに照合する。
店内に、息を呑むような沈黙が落ちる。
やがて、黒木刑事は顔を上げ、ハルに静かな視線を向けた。
「――ナンバー、一致しました。被害品で間違いありません。押収します」
その一言で、ハルの足元が崩れ落ちた。
「……そんな、はずは」
ハルのかすれた声は、誰の耳にも届かない。時計そのものは本物だった。
彼の「目」は、モノが持つ歴史と本質を正確に見抜いていた。だが、彼の目は、それを持ってきた人間の悪意や、その裏にある被害者の涙を、全く見てはいなかった。
時計は、証拠品として無情に押収された。
会社が被った損害は、彼の年収を軽く吹き飛ばすほどの額だった。しかし、金銭的な損失以上にハルの心を抉ったのは、店長の目に浮かんだ、深い失望の色だった。怒りではない。責める言葉もない。
ただ、「君の『目』を信じた私が、馬鹿だった」という無言の圧力が、彼の胸に突き刺さった。
その日の業務が終わり、重苦しい空気の事務所で、幼馴染のリョウがハルの肩を叩いた。
「気にするなよ、ハル! お前の鑑定は正しかったんだ。偽の書類まで完璧に用意されたら、誰にも見抜けないって!」
その励ましが、今は何よりも辛かった。
(違うんだ、リョウ。問題はそこじゃないんだ)
ハルが俯いていると、静かな足音が近づいてきた。
サクラだった。彼女は、一切の同情も憐れみも含まない、氷のように冷徹な瞳でハルを見下ろしていた。
「あなたの鑑定は、いつだって正しすぎる。でも、正しさが常に正義とは限らない。市場とは、モノの価値だけでなく、人の感情で動くものだから。あなたは、それを見誤った。ただ、それだけのことです」
彼女の言葉は、非難ではなかった。冷徹な「事実」だった。だからこそ、それはハルのプライドと自己肯定感を、根底から粉々に打ち砕いた。
家の扉を開けると、まるで時が止まったかのような静寂が彼を出迎えた。コンビニで買った弁当の味はせず、彼はただ、自分の両手を見つめていた。
この手で、モノの価値を測ってきた。
この目で、真実を見抜いてきた。
(だが、その結果がこれだ)
この「目」さえなければ。普通の人間のように、モノの表面しか見えなければ、こんなことにはならなかった。
彼の特異な才能は、人を傷つけ、会社に損害を与え、そして自分自身を追い詰める、呪われた力でしかなかった。
虚しさに押し潰されそうになった、その時だった。壁にかけられた大型ディスプレイが、けたたましいファンファーレと共に、あるゲームのニュースを映し出した。
『サービス開始は三日後! 全世界待望のフルダイブ型VRMMO!』
VRMMO。リョウがはしゃいでいた、自分には関係のない世界。ハルはリモコンを手に取り、電源を消そうとした。だが、アナウンサーの言葉に、指が止まる。
『――本作の特徴は、従来のレベル制を廃止した、完全スキル制システム! プレイヤーの行動そのものが、キャラクターの成長に繋がります!』
その瞬間、ハルの脳裏に、一つの考えが閃光のように走った。
(ゲームの中……。もし、そこが現実の人間関係から完全に切り離された世界なら……?)
誰にも迷惑をかけない。誰の人生も狂わせない。金銭的なリスクもない。
そんな世界でなら、もう一度、この呪われた「目」と向き合えるかもしれない。
これが本当に価値あるものなのか、それともただ人を傷つけるだけの欠陥品なのかを、確かめることができるかもしれない。
それは、現実からの逃避ではなかった。傷つき、自信を失った男が、自分自身を取り戻すための、最後の希望。一縷の光だった。
ハルは、震える手で「ファンタジア・オンライン」の公式サイトを開いた。
彼の瞳には、もはや絶望の色はなかった。
これは、彼が「見る人」から「創る人」へと至る、長く、そして険しい道のりの、本当の始まりの物語である。