8.声に出さない「やめたい」
夜十一時。
オフィスには、もはや数人しか残っていなかった。
蛍光灯の白い光が、逆に冷たさを増幅させているようだった。
伊達駿は、書類の山を前にして動けずにいた。
鳥越が不在の間、資料作成も含めた細かな管理業務が全て彼に降りかかってきている。
集中しようとしても、頭がぼんやりとして働かない。
右手に持ったボールペンが、机に転がり落ちた。
――ああ、もうダメだ。
心の中で、そう呟いた。
「伊達さん、帰らないんですか?」
ふと声をかけたのは、隣の席の椎名梢だった。
彼女もまだ残業しているが、表情にはほとんど疲れが見えない。
「……もう少しだけ。これだけ終わらせてから」
「……無理しないほうがいいです」
「そう言っても、仕事だからさ」
その言葉を発した瞬間、なぜか喉が詰まりそうになった。
「仕事だから」と自分に言い聞かせるたび、何かが少しずつ壊れていくような気がした。
椎名はしばらく黙っていたが、ポツリと呟いた。
「無理している自覚、あるんですね」
それが、どこか心に響いた。
普段から冷静で感情をあまり見せない彼女が、
ほんの少しだけ優しさをにじませていた。
「……無理、か。そうかもしれない」
初めて、伊達自身がその言葉を受け入れた。
自分は、無理をしている。
他人の期待を背負って、自分の限界を無視している。
「でも、やらないと……」
その声が、かすれていた。
帰り道、コンビニで買ったカフェオレを片手に、伊達はふらふらと歩いていた。
夜風が冷たく、肩をすくめる。
街灯の下、足元に伸びる影がやけに細く長い。
ワンルームに帰り、部屋着に着替えた。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。
根津優磨のブログをもう一度開く。
『限界が来たとき、人は初めて「逃げたい」と思う。
でもその言葉を声に出すのは難しい。
なぜなら、“辞める”という選択肢が、周囲の期待を裏切るようで怖いからだ。』
「……やめたい」
伊達は、小さな声で呟いた。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙がにじむ。
声に出してしまえば、何かが壊れる気がしていた。
だが実際に口にしてみると、その破裂音は意外に小さかった。
誰も聞いていない部屋の中で、
それでも、言葉にするだけで少しだけ楽になった気がした。
翌日、朝の通勤電車の中で、伊達は自分の中に微かな変化を感じた。
「やめたい」と言葉にしたことで、無理に前向きでいる必要がなくなった。
むしろ、ほんの少しだけ“素直になれた”気がした。
会社に着くと、椎名がすでに席についていた。
伊達が挨拶をすると、彼女は短く返事をした。
それだけなのに、何かが少しだけ柔らかくなった気がした。
昼休み、水瀬からチャットが届いた。
「元気か? 今度またメシ行こうぜ」
軽い言葉が、なんとなく嬉しかった。
午後の会議。
資料を持って参加すると、栗原部長がひと言だけ声をかけてきた。
「伊達、鳥越の代わりは大変だろうが、こういうときこそ、成長のチャンスだと思ってやってくれ」
励ましのつもりなのだろう。
だが、その言葉がまた伊達の胸を抉った。
“成長”という言葉が、今の自分には遠すぎる。
会議が終わり、席に戻ると椎名が近づいてきた。
「伊達さん、無理してない?」
「……してるかもしれない。昨日、初めて“やめたい”って口に出したんだ」
椎名は少しだけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「それ、言えるの、偉いと思います」
その言葉が、少しだけ伊達を救った。
今はまだ、何も変わらない。
でも、「やめたい」と言える自分がいる。
それが、ほんのわずかだけど、希望に思えた。
夜、帰宅後、また根津のブログを読んだ。
『やめたいと言ったあとで、もしまだ動けるなら、
それはあなたがまだ生きている証拠だ。
無理をしている自覚があるなら、もう半分は救われている。』
画面を閉じて、部屋の電気を消した。
今日もまだ、辞めていない自分がいる。
それでも、「やめたい」と言えた自分を、少しだけ許せた気がした。