7.誤送信と既読スルー
伊達駿は、朝から心がざわついていた。
プロジェクト全体の進行管理を任されて三日目。
慣れない役割に加え、誰にどう連絡を取ればいいのかも定まらないまま、日々は加速度的に進んでいく。
昼前、社内チャットに一本の連絡を送った。
「テスト環境の更新作業、15時から開始予定です。作業中は接続不可になります」
いつもなら、鳥越が送っていたような業務連絡。
ただ、それが“誤って”全体チャンネルに流れてしまった。
数秒後、通知音が連続で鳴った。
「え?これ、全員に?」
「この内容、共通じゃなくない?」
「なんで今送るの?」
伊達はすぐに修正メッセージを送った。
「失礼しました。関係者以外の方は無視してください」
けれど、既に遅かった。
チャットの返信はそれ以上続かなかった。
画面に並ぶ「既読」の文字が、冷たく並んでいた。
返事はなく、誰も責めてはこない。
だが、その“沈黙”こそが、何より刺さった。
――自分はまた、ミスをした。
――それを誰も正面から指摘してくれない。
――見なかったことにされて終わる。
その午後、伊達は会議でまたも指摘を受けることになる。
別チームとの進行調整が、日程的に食い違っていたのだ。
本来、鳥越が事前に調整していたスケジュールだった。
だが、今それを誰もフォローしない。
「ちゃんと見ておいてほしい。事前に連携取っていれば防げたことです」
冷静な口調の顧客担当。
画面越しの相手に、伊達はただ頷くしかなかった。
会議が終わった瞬間、肩から力が抜けた。
椅子にもたれかかり、天井を見上げる。
――何一つ、うまくいっていない。
――人の代わりなんて、やっぱり務まるわけがなかった。
「それも、仕事だ」
ふと、鳥越の口癖が頭に浮かんだ。
進捗の遅れも、想定外のトラブルも、全て“仕事のうち”だと彼は言っていた。
感情を切り離し、ただタスクをこなすことに徹する。それが“プロ”だと。
だけど、それをそのまま真似しようとして、今の自分がこうなっているのではないか――
そんな疑念が、胸を刺した。
夕方、トイレの鏡に映った自分の顔が、ひどく疲れて見えた。
目の下にはくっきりとしたクマ。
表情は乏しく、肌はどこか灰色がかっていた。
このままじゃ、いずれ自分も――山村のように、誰にも気づかれずいなくなるかもしれない。
夜、椎名梢が静かに近づいてきた。
彼女は何も言わず、デスクの上に紙コップを置いていく。
中身は、ほのかに甘いミルクティーだった。
「……ありがとう」
椎名は一瞬だけ頷いて、すぐに自席へ戻った。
その背中に、「責める気はない」という意思を感じた。
それでも、伊達の心には沈殿するような苦さが残っていた。
“何をやっても、うまくいかない。
それでも動き続けなければならない。
それが仕事というものなら、
俺はこのまま、どこまで壊れていくんだろう”
帰宅途中、ホームのベンチに座り込んだまま、電車を一本見送った。
疲れているのに、身体は帰ることすら拒んでいるようだった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面の中の世界は、やけに遠く感じる。
SNSを開くと、根津優磨のブログが更新されていた。
『ミスをしたとき、誰も怒らない職場は優しいように見える。
でもそれは、誰も関心を持っていないという意味でもある。
静かな“放置”が、人を一番深く傷つける。』
伊達は、その文章を読みながら、ゆっくりとスマホを胸に押し当てた。
誰かに怒られた方が、まだ救われたかもしれない。
今の彼を取り囲むのは、沈黙と既読スルーだけだった。