6.責任者不在
朝のミーティングは、どこかざわついていた。
プロジェクトの進行管理を務める鳥越進の姿がなかったからだ。
代わりに顔を出したのは、部署内でもあまり姿を見せない部長――栗原慎也だった。
「鳥越は、今週いっぱい休養を取ることになった。
体調不良らしい。代わりに、この案件は伊達が暫定で見てくれ」
言葉の意味が、伊達の中にゆっくりと染み込んでいく。
空気が一瞬、凍ったようだった。
「……私が、ですか?」
「他にいないだろ。鳥越の進捗表もあるし、メンバーは把握してるんだろう?
こういう時に育つんだよ、人は」
栗原の声には悪意はなかった。
むしろ、“これが教育だ”という熱意のようなものさえ感じた。
だが伊達には、その言葉が鋭利な重りにしか思えなかった。
ミーティングが終わり、周囲の視線が微妙に変わるのを感じた。
励ましとも不安ともつかない眼差しが交錯する。
その中に椎名の視線もあった。だが、彼女の目は静かで揺れていなかった。
伊達は、自分の机に戻ってスケジュール表を開いた。
鳥越の細かいタスク管理の痕跡がそこにはあった。
が、それは“彼の頭”で動かしていたものであって、伊達のものではない。
「どうやって、これを全部……」
そう呟いた声が、マシンのファン音にかき消された。
午前中は、会議と調整だけで終わった。
人の顔を覚え、今誰が何をしていて、どこが詰まりかけているかを把握する――
それだけで神経がすり減っていく。
「伊達くん、大丈夫?」
昼休みに山野井が声をかけてきた。
優しい笑顔。だが、その奥には明らかに“警戒”の色があった。
「……たぶん、大丈夫です。鳥越さんの仕事、僕には重すぎますけど」
「重すぎると思ったら、重いって言っていいのよ。
声を上げるのが苦手でも、せめて“無理してる自分”は自覚していてね」
言葉が、芯に触れた気がした。
伊達は頷いたが、その「頷き」がどこか嘘くさく思えた。
午後には、いくつかの小さなミスが続けて起きた。
確認漏れ、レビューの滞り、顧客対応の伝達ミス。
伊達は、ただひたすら火消しに奔走した。
一つ一つの問題は小さい。
だが、寄せ集まれば“責任”になる。
自分が今、誰かの“盾”になっているのだと、痛感する。
夕方。
席に戻った伊達は、肩を落としながら椅子にもたれた。
椎名がふと近づき、手元にそっとメモを置いた。
「回せなくて当然です。
あなたが悪いわけじゃない。
みんな、知らないだけです」
文字は小さく、でもはっきりとそこに“怒り”があった。
伊達はそのメモを読み、心の奥で何かが軋む音を聞いた。
怒っていいのかもしれない。
怖くても、苦しくても、声を上げていいのかもしれない――
だがそれは、伊達にとって“まだ遠い感情”だった。
夜、会社を出る頃には、身体が自分のものではないような感覚だった。
胸の内で“責任”という名の岩がどんどん育っていく。
そしてそれが、今にも砕けそうな自分の上に、ゆっくりと、じわじわとのしかかってくる。
駅のホーム。
向かいの壁の広告を、ただぼんやりと見つめる。
『働くって、なんだろう?』
ふざけたキャッチコピーだ。
だが、今の伊達には、その問いが真っ直ぐ突き刺さった。
帰宅後、スマートフォンを開き、根津のブログを読み返す。
『責任って、何かを抱えることじゃない。
“誰かの不在を埋めろ”と言われたときに、
自分の存在価値と引き換えに差し出すものじゃない。』
その一文を見て、伊達は初めて、自分が今“ 誰かの代わりを務めることで、自分の存在を保とうとしていた”ことに気づいた。
それが、本当に正しいことなのか。
いや――
正しいかどうかすら、もうわからない。
ただ、伊達の中で何かが、またひとつ音を立ててひび割れた。