5.昼休みの深呼吸
「よう、伊達」
その声が背後から聞こえたとき、伊達駿は思わず肩をすくめた。
緊張ではない。むしろ、それは“油断”に近い。
「水瀬……お前、今日はこのビルに?」
「うん。営業先、こっち方面だったからさ。ついでに顔見にきた」
水瀬陽太。伊達の大学時代の同期で、元エンジニア。
数年前に部署を異動し、今は営業としてあちこちを飛び回っている。
自由な空気と、どこか世渡り上手な言動が、
かつてはまぶしくもあり、うらやましくもあった。
「それ、昼飯? それともただの栄養補給?」
水瀬が指さしたのは、伊達が手に持っていたコンビニのカロリーバーだった。
「……昼休み、詰まってて。これでいいかなって」
「相変わらずだな、お前。学生のころから、追い込まれると飯も忘れて作業してたよな」
「……覚えてたか」
「そりゃな。お前、情熱だけでコード組んでた時期、あったもんな。
バグ出まくって、結局俺が修正したりしてさ」
伊達は思わず笑った。
懐かしさよりも、“今の自分”がどれだけ変わってしまったのかが、逆に胸に迫った。
「……あの頃は、まだ何か作るのが楽しかった気がするな」
「楽しかったじゃなくて、“楽しくしようとしてた”だろ?
お前、うまくやれなくても、すげえ真面目だった。
熱量のかけ方、間違ってるのにな。そこがまた伊達っぽくて、皆、嫌いになれなかった」
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
伊達は、ふとビルの屋上を思い出した。
行ったことはないが、風が通る場所に行って、深く息を吸いたくなった。
「水瀬、お前、どうして営業に行ったんだ?」
「んー? シンプルに、“技術じゃ食ってけない”って悟ったからかな。
でもな、別に逃げたとは思ってない。
エンジニアが続けられるやつばっかりだったら、俺、営業に来てないよ」
その言葉は、伊達の胸に微かに響いた。
“続けられるやつばっかりじゃない”
それはつまり、“辞めても、壊れても、否定されることじゃない”ということか。
「お前さ、いま何割くらいで生きてる?」
水瀬の問いに、伊達は一瞬言葉を詰まらせた。
「……三割、いや二割くらいかも」
「なるほどな。なら、たまには空気吸えよ。
酸素吸ってないと、ちゃんと燃えねえんだからさ」
水瀬はそう言って、缶コーヒーを手渡してきた。
甘さ控えめのやつ。
自分では選ばない種類だった。
「……ありがとな」
「礼はいいよ。たまに顔見せに来るから、潰れてないでね」
そう言って、水瀬は軽く手を振り、スタスタと去っていった。
伊達はその背中をしばらく見つめていた。
確かに、昔と変わらない部分もある。
でも、彼は“自分のやり方で生き方を選んだ”んだ。
何も決断できず、ただ耐えることだけを続けている自分とは違う。
その日、午後の仕事中も、水瀬の言葉が胸のどこかに残っていた。
「何割で生きてる?」
問いかけは、まるで自分自身に突きつけられた刃のようだった。
けれど、それが呼吸のきっかけになったのもまた事実だった。
ふと、伊達は席の下に置いていたノートを開いた。
何も書かれていない、まっさらなページに、鉛筆で一行だけ書き込む。
「今の俺は、生きているか?」
その問いの答えは、まだ見えない。
でも、その問いを“書けた”ことが、
ほんの少しだけ、胸の奥に空気を通した。
それが、今日の深呼吸だった。