4.ペットボトルと缶コーヒー
午後九時。
終業のチャイムなど存在しないはずなのに、社内の空気が一段落したのがわかる。
誰もがキーボードを叩く速度を落とし始め、席を立つ者がぽつりぽつりと現れる。
伊達駿は、まだ目の前のコードの修正に集中していた。
脳が霞がかっている。言語化しにくい“疲労”が、指先まで滲んでいた。
「切りが悪いな……」
呟いた瞬間、自分の声があまりに久しぶりで驚く。
空気が、重い。
肩が、痛い。
まぶたが、焼けるように熱い。
そのとき、視界の端に人影が動いた。
椎名梢だ。デスクから立ち、ひとり休憩スペースへと歩いていく。
その後ろ姿に、なぜか足が動いた。
目的はなかった。ただ、何かに引かれるように――
社内の自販機前。
椎名は、並んだドリンクの中から迷いなく一本を選び、ボタンを押す。
取り出したのは、微糖のペットボトルコーヒー。
いつもの選択だ。
伊達は、その隣で缶のカフェオレを買った。
ゴトンと小さな音が鳴る。沈黙が流れる。
「……甘いの、ですよね。それ」
唐突に、椎名が言った。
目はコーヒーのラベルを見ている。表情はいつも通り、淡々としている。
「ええ。眠気覚ましのつもりだけど……実は苦いの、ちょっと苦手で」
「……わかります」
それだけの会話だった。
でも、確かに“対話”だった。
「椎名さんは、いつもそのペットボトル?」
「うん。常温で飲めるから。冷たいと、お腹にくるんです」
「そういうとこ、ちゃんとしてるんですね」
彼女は小さく笑ったような気がした。
すぐに目をそらして、ラベルの裏を見つめたまま、静かに言った。
「壊れたら、元に戻すのは時間かかりますから。身体も、心も」
その言葉が、不意に胸に刺さった。
――壊れたら、元に戻すのは時間がかかる。
椎名は、何を知っていて、何を見てきたのか。
言葉にはならない何かが、その背後に潜んでいた。
伊達は缶コーヒーを開け、ひと口飲んだ。
甘さと、ほんの微かな苦みが舌に残る。
「……椎名さんって、よく夜に走ってるんですよね?」
「……どうして?」
「この間、たまたま会社の近くで見かけました。走ってる後ろ姿」
「……ああ」
椎名は少しだけ肩をすくめた。
「走ってると、自分の身体の音が聞こえるから、安心します。
誰の声も届かない時間に、自分が“生きてる”ってわかる」
その感覚は、伊達には少しだけ分かる気がした。
彼はふと、自分の内面を覗き込むように呟いた。
「俺、自分の声……聞こえなくなってるかもしれません」
椎名は答えなかった。
けれど、その沈黙すらも、責めるでもなく、許すでもなく、ただ“在る”だけだった。
それが、不思議と心地よかった。
翌朝、伊達は目覚ましが鳴らないまま、いつもの時間に目を覚ました。
いつもと同じはずの朝――
だが、胸の奥に微かに残る余韻が、確かに“昨日と違う今日”を知らせていた。
会社に向かう電車の中で、スマホを開いた。
また根津のブログを読み返す。
『誰かの声にならなくても、自分の中に言葉を持っているだけで、人は壊れずに済むことがある。』
伊達は、画面を閉じ、ふうっと息を吐いた。
缶コーヒーと、ペットボトル。
ただそれだけの会話が、確かに彼の中で何かを揺らした。
そしてようやく、伊達は自分の中で“何かが壊れ始めている”ことを、はっきりと自覚した。
それは恐ろしいことではなかった。
むしろ、ようやく自分の足音が聞こえてきたような、そんな感覚だった。