3.聞こえないSOS
昼休み。
伊達駿は、デスクに弁当を広げるでもなく、画面を睨み続けていた。
今朝から続く仕様バグの検証で、頭がすでに重い。
周囲の誰もが静かにキーボードを叩き、時折、ため息のような小さな音が聞こえてくる。
これが、いつもの昼休みの風景。
「休む」という感覚は、もうどこかへ置き忘れてしまったようだ。
画面の片隅にある社内ポータルのリンクに、ふと目が留まる。
《社内ヘルプ窓口/相談はこちら》
その文字が、なぜか今日に限って胸に引っかかった。
クリックすると、簡素なフォームが表示される。
名前:任意入力
内容:1,000文字以内
“こんなもんで、誰が救われるんだよ”
そう思いながらも、指が動いた。
思いつくままに言葉を打ち込む。
「仕事の量が処理しきれません。誰にも頼れません。
毎日、誰かの尻拭いをしている気がして、自分が何をしているのかわからなくなります。
こんなことを書くのも、ただの甘えでしょうか」
何度も読み返し、少し修正しながら、最後に送信ボタンを押した。
……が、画面は切り替わらなかった。
“サーバーエラー:現在、フォームは一時的に利用できません”
一瞬、時間が止まったような感覚に陥った。
救いを求めた先に、誰もいなかった。
背後では、電話の着信音が鳴っていた。
自分の担当ではないとわかっていても、その音が刺さる。
伊達は、ゆっくりとタブを閉じ、深く息を吐いた。
“助けを求めることすら、許されないのか”
午後の仕事は、指先が思うように動かなかった。
エディタ上のコードが、まるで自分を嘲笑うようにエラーを吐き出す。
そのたびに、胸の奥で小さな何かが崩れていくのがわかる。
「大丈夫ですか?」
突然、椎名梢の声がした。
驚いて顔を上げると、彼女は隣でマグカップを両手に持って立っていた。
「……大丈夫。ありがとう」
返事はしたが、自分でも声が震えていたのがわかる。
「疲れてるように見えたので」
それだけ言うと、彼女はすっと戻っていった。
でも、その言葉だけが、なぜか今日の唯一の“実在する声”だった。
夜、帰宅しても、伊達はスマートフォンを手放せなかった。
意識せず、昨日見たあのブログのページをまた開いていた。
《根津優磨|burnoutした元エンジニアの日記》
最新の記事のタイトルが、目に飛び込んできた。
「誰もあなたを助けてくれない現実の中で、
それでも、自分だけは自分を見捨てないために」
伊達は、その一文に吸い寄せられるようにタップした。
『相談窓口は、きっと多くの会社にある。でも、運用されていないことも多い。
制度というのは、そこに“ある”だけでは意味がない。
本当に苦しいとき、誰かに話したくなる。でも、話す場所がない。
だからぼくは、自分の声をこうして書いてる。
聞いてくれる誰かがいなくても、まずは“声を出す”ことが、生き延びる手段になると思ってる。』
文章は飾らず、まっすぐで、静かだった。
でもその静けさが、今の伊達には沁みるようだった。
もう一度、ページトップに戻ってプロフィールを読み直す。
“根津優磨
元エンジニア。
三年前に燃え尽き、会社を辞めました。
今はフリーランスとして、緩やかに働いています。”
その文面を見たとき、
「この人は、自分がなりたかった未来の姿かもしれない」
と、伊達は思った。
逃げることを選んだはずなのに、どこか芯が通っている。
壊れたのに、それでも自分を抱えて立っている。
それが、根津という人物の“生き残った姿”なのかもしれない。
自分も、あそこまで壊れてしまえば――
何かが変わるだろうか。
でも、まだそこまで踏み込む勇気はなかった。
ただひとつだけ確かだったのは、
今夜は、ほんの少しだけ“自分の声”を信じてみたくなったということ。
誰かが聞いていなくても。
たとえ、また画面に“エラー”と出ても。
壊れた翼でも、生きていく道はある。
そのかすかな可能性を、伊達はようやく手にし始めたのだった