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2. “普通”の仮面

「確認しましたが、仕様書のほうに矛盾があるようです。現場側とのすり合わせを先に……」


「いや、そっちで解決して。現場が止まるのが一番まずいから」


鳥越進の言葉は、刃物のようだった。

一切の感情も、迷いもない。

そこにあるのは“効率”だけ。


伊達駿は、唇をかみしめながら席に戻った。

言いたいことは山ほどあった。

けれど口を開けば、誰かに“甘え”だと切り捨てられるのがわかっていた。


仕事を続けるということは、口を閉じるということなのか。


その日の午後、社内ネットワークで小さな騒動が起きた。

テスト環境の更新スケジュールが古いもののまま共有され、それを鵜呑みにしたメンバーの作業がずれたのだ。


鳥越はすぐに現場に現れ、状況を把握するなり、

「誰が送ったの?」と一言だけ発した。


周囲がざわめく中、伊達は手を挙げた。


「……すみません。私です。古いデータに気づかず……」


「今後、送信時は確認を。君が悪いって話じゃない。でも、誰かが傷を負う前に気づくのが理想だよね」


声は穏やかだった。だが、それが余計に冷たく響いた。


“誰かが傷を負う前に”

それは、つまり――誰かが傷を負うのは当然だということ。


会議が終わったあと、椎名梢が伊達のデスクの端に、小さくメモを置いた。

「お疲れ様です。見てました」とだけ書かれた、控えめな文字。


顔を上げると、彼女はもう席に戻っていた。

キーボードを叩く姿は変わらない。

でも、何かが違って見えた。


その日の夕方、伊達は相談窓口のページを開いた。

ユノ・テクノロジーズ社内には、匿名で悩みを投稿できる専用フォームがある。

一見、社員の声を拾い上げるための仕組み。

けれど実際は、誰もその存在に触れようとしない。


入力欄に指を置いた。

「仕事が苦しいです」と書きかけて、消した。

「自分が悪いのかもしれません」と書いたあとも、また消した。


最終的に何も書かず、画面を閉じた。


伊達はふと、デスクの下に目をやった。

足元には、誰かが落とした空の缶コーヒーが転がっていた。

ラベルは擦れて読み取れない。

それが、今の自分に重なって見えた。


夜九時前、帰る準備をしていると、人事部の山野井千春が通りかかった。


「伊達くん、帰るの?」


「……はい、今日はこのへんで」


「無理しすぎないようにね。いろいろ、あると思うけど」


その「いろいろ」が何を指すのかは、語られなかった。

けれど、伊達はその曖昧さに少しだけ救われる気がした。


部屋に戻ると、スマートフォンの通知がひとつ表示されていた。

SNSのタイムラインに、見覚えのないアカウントのブログが流れてきていた。


《逃げることは悪じゃない。生き残る手段だ。

 燃え尽きたあと、ぼくはやっと“働く意味”を考え始めた》


筆者の名前は「根津優磨」。

プロフィールには、「元エンジニア/今はフリーランス」の文字。


伊達は思わず、その投稿を何度も読み返した。


――生き残る手段。

――働く意味。


どこかで聞いた言葉のような気がした。

いや、ずっと心の中に埋まっていた問いが、誰かの声にすり替わっただけなのかもしれない。


気づけば、画面を見つめたまま、時間が過ぎていた。


“普通”でいることが、こんなにも苦しいのはなぜだろう。

“真面目”でいることが、こんなにも孤独なのはなぜだろう。


伊達はスマートフォンをそっと伏せ、天井を見上げた。

眠気はなかった。ただ、明日がまた来るのが、怖かった。


そして、何もかもが“普通”で終わっていくのが――

たまらなく、寂しかった。

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