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1.曇天に降りる通勤電車

目覚ましは、今日も鳴らなかった。

というより、もう鳴らなくなって久しい。

何度か設定をいじってみたが、どうやら完全に壊れてしまったらしい。

それでも伊達駿は、スマートフォンの光と体内時計だけを頼りに、いつもの時間に目を覚ます。


歯を磨き、ワイシャツに袖を通し、乱れた襟元を直す。

洗濯機を回す時間はなかった。昨日のシャツをもう一度、気にしないふりをして着る。

空腹はある。でもコンビニに寄る時間はない。

家を出るだけで、今日という一日が始まってしまう。


外は曇り空だった。

鈍色の雲が、空をぴたりと覆っている。

寒くはない。むしろ少し湿っていて、肌にじわりと重みが残る。

まるで、自分の内側に広がっているものと同じようだと、伊達は思った。


駅までの道を、淡々と歩く。

イヤホンを耳に挿すが、音楽は流さない。

雑音を遮断するただの蓋――感情が溢れないようにする、薄い膜だ。


ホームには、既に長蛇の列ができていた。

誰もが無言でスマートフォンを見つめている。

無音のざわめき。無関心の密集。


電車が到着すると、乗客たちは機械のように列を乱さず乗り込んでいく。

伊達もその中に紛れ込む。

身動きもできない車内。背中と背中がぶつかり、どこかで咳がこぼれる。


この密閉空間の中で、誰も他人を見ていない。

それがありがたくもあり、どこか寂しくもあった。


ユノ・テクノロジーズの最寄り駅で降りると、流れるように会社へと向かう。

グレーのスーツ、黒いリュック、うつむいた顔。

同じ色の群れに、自分も自然と溶け込んでいた。


オフィスビルに入り、エレベーターで十階へ。

カードキーをかざしてゲートを抜け、自分の席に向かう。

席に座るまで、誰とも目を合わせない。

それが「普通」になっていた。


「……おはようございます」


隣の席から、ぽつりと声がした。

椎名梢。新人の女性エンジニア。

普段はほとんど誰とも話さない彼女が、なぜか伊達にだけはこうして挨拶をしてくる。


「……おはよう」


声を返す自分が、まるで録音されたテープのように感じる。

機械のような日常。感情の抜けたやり取り。


午前九時三〇分。定例ミーティングの時間になる。

鳥越進――プロジェクトリーダーが、無駄のない足取りで会議室に現れた。


「API側の進捗、今週中にテスト環境まで持っていけますか?」


冷静な口調。まるで問答無用のチェックリスト。

視線がこちらに向けられているのがわかる。


「……はい。ただ、現状は仕様変更の影響でテストコードが崩れていて……でも今日中には修正できるかと」


「“かと”じゃ困ります。できるんですよね?」


一瞬の沈黙。

伊達はうなずいた。

ミーティング室の空気が、わずかに冷えたように感じた。


何かが間違っている気がする。

でも、それを言葉にする術がない。

自分が弱いだけだと、責める癖がもう染みついている。


その日の午後、伊達はふと、向かいの席のディスプレイが黒いままであることに気づいた。

誰もそこを気にしていない。

彼――山村は、昨日、退職届を出していた。

淡々と、事後報告のように告げられたその事実。

“また一人、消えた”

そんな感覚だけが、胸に残った。


「伊達くん」


人事部の山野井千春が、ふと休憩スペースで声をかけてきた。

コーヒーを片手に、柔らかな笑みを浮かべている。


「無理してない? 一人分の業務が増えると、どうしても余裕なくなるから」


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」


「“大丈夫”って、心に自動的に出てくる言葉よね」


伊達は笑えなかった。ただ頭を下げて、その場をやり過ごした。


夜、時計の針は午後八時を回っていた。

今日も、定時で帰れた者はほとんどいない。

カチャカチャというタイピング音だけが、遅い夜の空間に響いていた。


ふと、椎名が立ち上がった。

自販機の方へ歩いていく。

伊達も、気づけば席を離れていた。


無言で並ぶ二人。

彼女がボタンを押す。微糖のペットボトルコーヒー。

伊達は缶のカフェオレを取る。


「……甘いやつ、ですね」


椎名の声が、少しだけ柔らかかった。


「眠気覚ましには、苦いのはちょっと……」


「……わかります」


言葉は少なかった。

でも、ほんの少しだけ、世界に色が戻った気がした。


それが錯覚でも、たった一瞬でも――

伊達は、その温度を確かに感じていた。

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