12.走る人たち
夜九時過ぎ。
今日も残業を終えた伊達駿は、ふらふらとオフィスビルを出た。
涼しい夜風が肌に触れ、少しだけ気持ちが楽になる。
「……少し歩こう」
電車に乗る気力がなく、ゆっくりと駅から離れた道を歩く。
コンビニで缶コーヒーを買い、その甘さがじわりと体に染み渡る。
街灯の下、ふと気づいた。
歩道の向こう側を走っている人影。
すらりとしたシルエット、髪をひとつに束ねた姿――椎名梢だ。
「……椎名さん?」
思わず声をかけかけたが、彼女は気づかないまま、一定のペースで走り続けている。
無駄のないフォーム、疲れを感じさせない軽快な足取り。
伊達は少し迷ったが、ふと足が動いた。
同じ歩道を少しだけ走ってみる。
久しぶりに走ったせいか、息が切れそうになる。
だが、その“息苦しさ”が不思議と心地よかった。
少し先の公園に着くと、椎名が足を止めて深呼吸をしていた。
ようやく気づいたのか、振り返ると、少し驚いた表情を見せた。
「……伊達さん?」
「……あ、偶然」
椎名は軽く息を整えながら、じっと伊達を見つめた。
そして、口元に薄い笑みを浮かべた。
「走ってたんですか?」
「いや、なんとなく……椎名さんが走ってるのを見て、つい」
「……そうですか」
二人はしばらく沈黙したまま、夜の公園のベンチに腰掛けた。
周囲はひっそりとしていて、虫の音がかすかに聞こえる。
「……走るのって、好きなんですか?」
「好きというか、逃げたくなるときに走ります」
「逃げる……?」
「頭の中がぐちゃぐちゃしているとき、体を動かすと無心になれるんです。
仕事でうまくいかないときとか、誰にも会いたくないときとか」
その言葉が、今の伊達には痛いほど共感できた。
逃げたいと思っても、結局逃げられない。
そんな葛藤を、彼女も抱えているのだろうか。
「……俺、最近よく思うんです。
逃げたほうがいいって、頭ではわかっているのに、
なぜか逃げる勇気が出ない」
「それ、よくわかります」
椎名が小さく頷いた。
その横顔が、夜風に少しだけ髪を揺らしている。
「誰かを裏切る気がして、逃げるのが怖いんです。
自分のために逃げることが、周りを傷つけるんじゃないかって」
「私も、そんな感じです。
だから、走っている間だけは、自分だけの時間にしているんです」
伊達はふっと息を吐いた。
胸の中にあったモヤモヤが、少しだけ晴れていくような感覚がした。
「……椎名さん、いつから走ってるんですか?」
「大学時代からです。
その頃、いろいろあって、心の中がごちゃごちゃしてて。
誰にも話せなくて、ただひたすら走ってました」
「誰にも話せないって、辛いですよね」
椎名は、小さく頷いた。
「でも、走っていると、自分の心臓の音が聞こえるんです。
“自分がまだ生きてる”って実感するために、走ってるのかもしれません」
その言葉が、伊達の胸にじんわりと染みた。
“自分が生きている”と感じられる瞬間。
それが今、どれだけ希少なことなのかを痛感する。
「俺、今まで誰かに頼ることができなかったんです。
でも最近、少しずつ思うようになりました。
壊れる前に、助けを求めてもいいんじゃないかって」
「……そうですね。
私も、今ならそう思えます。
一人で抱え込むのは、やっぱり辛いから」
二人は、それ以上言葉を交わさなかった。
ただ、夜の静けさの中で、呼吸の音だけが互いに感じ取れる。
帰り際、椎名がぽつりと言った。
「また、走るときに会ったら、一緒に走りましょう」
「うん。……ありがとう」
その言葉が、不思議と温かかった。
伊達は帰り道、ほんの少しだけ足を早めて歩いた。
走ることで、自分を感じられる。
それが、今の自分には必要なことなのかもしれない。
夜、ベッドに横になりながら、
伊達はそっと目を閉じた。
「まだ、走ってもいいのかもしれない」
心が少しだけ軽くなった夜。
疲れたはずの身体が、いつもより生き生きとしていた。