9.フリーズした画面
朝、目覚ましは鳴らなかった。
だが、伊達駿はもう慣れたように、無音の部屋で目を覚ました。
昨日よりも重い身体を引きずるようにして起き上がり、顔を洗う。
鏡に映る自分の顔色が、やけに青白いことに気づいたが、もう気にする余裕もなかった。
ワイシャツのボタンをかけ違え、慌てて直す。
朝食代わりにカロリーバーをかじりながら、スマホで今日のタスクを確認する。
通知が無数に溜まっているが、頭に入らない。
「今日も、行かなきゃ……」
つぶやく声が、やけに遠く感じた。
出勤途中、電車の中でうつむきながら、
“もうやめよう”という声と、“まだやれる”という声がせめぎ合う。
会社に着くと、すでに多くの席が埋まっていた。
誰もが忙しそうに画面に向かい、キーボードを叩いている。
伊達も自然とその波に乗り込むように、デスクに座った。
午前中の会議は、ほとんど内容が頭に入らなかった。
誰が何を言っているのか、ただ音が耳を通り過ぎていくだけ。
鳥越のいないプロジェクト会議は、やけに長く感じた。
「伊達くん、進捗どう?」
突然の質問に、反射的に答えたが、
言葉がうまく繋がらず、支離滅裂な説明になってしまった。
「わかった。じゃあ、その点は後で確認しておくから」
栗原部長がフォローしてくれたが、
その一言が逆に「期待されていない」ことを痛感させた。
心がひとつ、また崩れていく音がした。
昼過ぎ、急ぎの依頼が飛び込んできた。
顧客からのトラブル報告だ。
応急処置を施さなければならないが、手順が曖昧なまま作業を進める。
そのうち、別の担当者からも同じ件で問い合わせが入る。
「伊達さん、こっちのログも確認してもらえますか?」
「……はい、少しお待ちください」
頭の中が混乱している。
対応が追いつかず、ひとつのエラーが解決しないまま次々と別の問題が発生する。
椅子に座ったまま、手が震えていることに気づいた。
タイピングがうまくいかない。
手首に力が入らず、ミスばかりが積み重なっていく。
突然、視界が揺れた。
画面がぼやけ、モニターの光が刺すように目に痛い。
「……あれ?」
次の瞬間、意識がふっと遠のいた。
「伊達さん、大丈夫ですか?」
声がして、気がつくと床に座り込んでいた。
椎名がそばにかがみ込み、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ちょっと休んだほうがいいです」
「いや……大丈夫、少し疲れてるだけで……」
「嘘です。顔色、ひどいです」
栗原部長がその様子を見て、険しい顔で近づいてきた。
「伊達、今日はもう帰れ。無理して仕事しても、かえって効率悪い」
「……すみません」
伊達はふらふらと立ち上がり、荷物をまとめた。
椎名が少しだけ目を伏せ、何か言いかけたが、結局言葉にはならなかった。
帰り道、足取りが重い。
頭の中で何度も繰り返されるのは、
「休んでいい」と言われたことへの、妙な罪悪感だった。
――自分が倒れたら、他の誰かが負担を背負う。
――それが怖くて、無理をしてでも出社しようとする。
――逃げてしまったら、二度と戻れなくなる気がして。
部屋に帰り、ベッドに倒れ込む。
スマホを手に取るが、画面を開く気力が湧かない。
ただ、胸の奥が重たく痛んだ。
ふいに、涙が一筋流れた。
自分がこんなに追い詰められていることに、やっと気づいた。
「やめたい」と言ったはずなのに、それでも出社してしまう自分がいる。
――やめる勇気も、続ける力も、もうどちらもない。
ただ、そこにいるだけで、何かが崩れていく。
しばらくして、スマホが震えた。
根津のブログの更新通知だった。
『倒れる前に休めないのは、
責任感というより“恐怖”が原因だ。
働き続けないと、自分が価値のない存在だと思い込んでいるから。
でもね、壊れてしまえば、もう取り返しがつかない。』
その言葉に、伊達はふっと力が抜けた。
誰かに背中を押されたような気がした。
まだ辞める決断はできない。
でも、根津の言葉は、確かに心に響いていた。
「壊れてもいいのか……」
夜の空気が、少しだけ優しく感じた。
明日はどうなるかわからない。
それでも、今日はもう眠ろうと思えた。