予備用
『ベッド松』
ある小春日和の午後、故郷の能代市で漁師の仕事をしていた爺ちゃんが、漁から戻り魚の入った籠を持ち上げようとした。すると、一匹の猫が籠から飛び出してきた。
そのポテッとした黒猫は、漁れたばかりのハタハタを咥えて船から飛び降りると、小走りで漁港から逃げていった。
「猫に魚は付き物だからな」
爺ちゃんは家に帰ると、笑いながら父にそう話したという。
今から何十年も前の話だが、まだ幼い父がつけていた日記には、当時の出来事がつぶさに記されていたとのこと。
黒猫はその後も漁港に現れ船を待ち伏せしたが、いつの間にか爺ちゃんには懐き、クロと名付けられた。
だがそのクロも、数年後には不慮の事故でこの世を去る事になる。
そしてその出来事を切っ掛けに、爺ちゃんの中でひとつの踏ん切りがついたようだと、父は語る。
実際漁師を引退し、祖母と父を連れ東北の地を去ったのもクロの死と同時期だったそうだ。
この件は日記だけでなく、思い出話として私が当人から直接聞いたエピソードでもある。
※
十一月の晴れた第一日曜日、部活から戻ると庭木の根元でクロが寝転がっていた。
珍しいなと思ったけど、最近出没していた原っぱにロープが張られていたのを思い出す。
大規模開発の波が、この黒猫の遊び場にも及んでいたのだ。
玄関のドアを開けると同時に、クロは私の足下に寄ってきた。そしてそのポテッとした体を廊下に乗せると、客間を兼ねた父の仕事場まで小走りで駆けていった。
「ただいま」
「おお、おかえり」
文机を前に座る父の膝に、クロが前足を乗せている。
「それさあ」
「うん?」
クロの喉元を撫でながら、父が返事をする。
「登りたいんじゃないの? お父さんの膝に」
「ああ、そうか」
そう言って父は、座り方を胡座から正座に変えた。
「いや、そういう事じゃなくて、抱いて足の上に乗せてあげればいいんじゃない?」
「ああ、そうか。それにしても、また来てくれるとは思わなかった。なんかこう、丁度良い遊び道具でもあればなあ」
「ネコジャラシみたいな玩具あったじゃん」
「失くした」
掃き出し窓の向こうの小庭を見る。
本当に登るのが下手なんだな。猫なのに。
さっき寝転んでいたのも、チャレンジして失敗した後だったのかもしれない。
父の膝上や玄関の式台さえ厳しいのだから、あのツバキの木なら当然か。
「お母さん帰ってくんの、夕方だよね?」
「ああ、父さんのとこ……お爺ちゃんのとこにも寄るって言ってたから」
「そうだった。あれ……もしかしてさあ、クロが来たのも、そのせいかもね」
ぼんやりとしていた父の目がギラリと光った。猫の目みたいだ。これは物書きとしての閃きかな。
「そうか。猫には予知能力があるとか言うな。それに小説家との縁も深い。よし、次作はそれを題材にしたSFものでも書くか」
「うん。またヒットするといいね」
その頃開発の波は、猫の名付け親でもあるイサム爺ちゃんが住む木造アパートにも押し寄せていた。
母は帰宅すると夕飯の席で、爺ちゃんが私達との同居に応じた事を報告した。
「なんか、嬉しそうじゃないね」
反応の薄い父に向かい、母が不満気に言う。
「いや、そんな事ないよ。嬉しい……ありがとう」
父は伏し目がちのまま応えると、「ごちそうさま」を言いキッチンを後にした。
「あんたは、本当のところどうなの?」
父の後ろ姿を見ながら、母が訊いてきた。
「賛成だよ、本当に。でも、あんだけ拘ってたのによく説得出来たね」
「説得ってほどでもなかったよ。別にお義父さんは独り暮らしに拘ってたわけじゃないし、去年は孫娘の受験があったからでしょ。あ、もらったの大事にしてる?」
「もちろん」
勉強机の引き出しに仕舞ってある「必勝祈願」のお守りが浮かぶ。
「何より、お義母さんとの思い出の場所でもあったわけだし」
「そうだね、その場所が無くなっちゃうんだもんね……二回目の踏ん切りか」
二階の自室に戻り、布団の上に寝転がってからふと思った。
もし父が代わりに出向いていたら、爺ちゃんは首を縦に振る事はなく、ミッションは失敗に終わっていたのではと。
なんせ、父と爺ちゃんは全く似ていない。
むしろ勝気な性格で褐色の肌をした母の方が、実の娘と間違われる事が多かったようだ。
そのせいもあるのか、爺ちゃんがうちに来た時、父は格段に口数が少なくなった。
私が覚えている限り、自分から爺ちゃんに話し掛けたのは一度きり。それも「クロに似てない?」の一言だ。
二年程前、庭に迷い込んだとおぼしき黒猫を見て問い掛けたのだけど、爺ちゃんは返事をせず掃き出し窓を開け、庭木に爪を立てるその猫をじっと見つめていた。
そしてそれが、イサム爺ちゃんと二代目クロとの最初の出会いとなった。
勉強机に置いた卓上カレンダーを見上げながら、その一人と一匹が再会する場面を想像する。
そういえば初代クロの方は、自力で膝の上に乗る事が出来ていたのかな……。
本人に訊いてみようかとも思ったけど、引っ越しの日にあたる一週間後には忘れちゃってるかも。
十一月の晴れた第二日曜日、部活から戻るとイサム爺ちゃんが、庭木の根元に寝転がるクロの喉元を撫でていた。
去年の誕生日に母と私が贈った白のセーターを着て、愛用のハンチングも被っている。
久し振りに見る姿だけど、以前と変わっていない様子だ。
「爺ちゃん」
声を掛けると爺ちゃんは、皺の刻まれた顔に笑みを浮かべながら手を振り、母の名を呼んだ。
「ああ見えてすっとぼけたところもあるから。僕をクロと呼んだ事もあった気がする」
夕飯の後、文机の前にいる父に昼の出来事を話すと、タイピングを続けながらそう応えた。
「その辺は似てるんだね」
「え?」
「いや、だったらいいんだけどさ」
「気にし過ぎだよ。なんなら今風呂出たみたいだから、話してくれば?」
そう言われ居間を覗いてみると、既に爺ちゃんは布団を敷き横になり、豪快に鼾をかいていた。
「はやっ!」
だが更に驚いたのは翌日。今度は朝練がある私よりもずっと早く起き、クロを膝に乗せながら掃き出し窓の向こうに広がる明けの空を眺めていた。
「漁師をしていた頃の習慣が今でも抜けきれなくてよ、市場が開かれる時間に目が覚めちまう事があるんだよ」
そう爺ちゃんは笑い、父の作った朝食を一緒に食べ終えると、能代の話をしながら私をバス停まで送ってくれた。
杉の木材加工で栄えたとか、そろそろマダラやハタハタが漁れる時期だとか、春になれば「きみまち阪」の桜が綺麗で「能代役七夕」では眩い城郭型の灯籠が街を練り歩くとか。
何度も聞いた話ではあったけれど、穏やかな波のような口ぶりに私は胸を撫で下ろした。
なんだ、やっぱり思い過ごしか……。
そして別れ際、みんなのおかげで無事に高校生活を送れている事を伝えバスに乗ると、爺ちゃんはちゃんと私の名前を呼んで手を振ってくれた。
車中、初代クロの件を訊き忘れた事に気がついたけれど、まあいつでも機会はあるだろうと大して気にも留めなかった。
だが、それ以降再び部活や勉強に集中するようになると、自然と爺ちゃんとの会話も少なくなった。
一方の爺ちゃんも故郷や漁師をしていた頃の話をしなくなり、私だけでなく父や母の名も呼び違えるようになっていった。
それは「間違えている」というよりも「忘れている」という印象を与えた。
だから私がしようとしていた質問も、もう忘れているのかもしれない。
異変は体の方にも起こっていたようだ。
年明け頃より布団からの立ち上がりに時間が掛かるようになり、父は母の提言を受け役所へ行き介護保険の申請を行った。
そして、一連の手続きの結果認定される運びとなり、ひと月後には我が家に初めてベッドが搬入される事となった。
だが、元々介護サービスには遠慮気味なうえ、父曰く「昔ながらのベッド嫌い」な爺ちゃんは蟠りを覚えていたみたいだけど、そこは流石の母による説得で承諾を得る事が出来たのだ。
「寄る年波には勝てねえからな」
昼間、庭にいた爺ちゃんはツバキの花を眺めながらそう呟いたと、母は言った。
居間にデンと据えられたベッドを見て、ちょっとした感動を覚えてしまう。
「申し訳ありません。足りない用具は今日中にお届け至しますので」
と、レンタル業者の男性職員は言い残し、職場へ戻っていった。
「足りないのって、ベッド柵の事かな」
隣で同じように魅入っていた父がそう言った通り、数時間後ベッド松が郵送で届き、私は居間へと運んだ。
いや、待て……松ってどうなんだろう。
私は父と違い国語が苦手だ。”松”と”柵”は同じ木部だし、きっと読み間違えちゃったんだ。
気を取り直して、もう一度送り状の品名を読んでみる。
介護用ベッド松
なんだ、ただの書き間違いだ。私は思ず噴き出し、箱を開けて数本の松を取り出した。
「馬鹿な……」
「どうした?」
トイレから戻った父が、怪訝な表情で尋ねた。
「いやこれ、松だよね……?」
手に持っていたうちの一本を手渡すと、父はそれを矯めつ眇めつ眺めた。
「うん……亀甲状に割れた灰黒色の樹皮といい円錐形の樹冠といい、大きさは別として黒松のようだけど……」
「それだ!」
「え?」
「お守りと一緒に貰った図鑑セットにも載っててね。前に爺ちゃんがイラストを見ながら解説してくれたの。でも」
それをどうしろと……。
呆然と二人でベッドと松を見比べているうちに、父がある事に気付いた。
ベッドの両端、サイドフレームと呼ばれる部分に柵を差し込む為の穴が幾つかあるのだけど、そのどれもが土で埋まっていたのだ。
「お父さん……」
「植えよう」
「は?」
「たぶん、その為の松だろうから」
こうして私達は、仕事帰りの母への言い分を考えながら”植樹”を開始し、数分後にはベッド上部両端は黒松で埋まった。
「なんか、絵になるよな……」
「うん。正解みたいだね」
再び二人で魅入っていると、背後に気配を感じた。
振り向くと、そこには散歩から戻ったイサム爺ちゃんが立っていて、目を輝かせながらベッドの前へと進んだ。
私はハッとし、爺ちゃんがしてくれた能代の話を思い出す。
その中には、七百万本もの黒松による防災林で、現在は日本五大松原のひとつにも数えられている「風の松原」の話題もあったはず。
きっと、若き日の爺ちゃんもといイサム青年は漁から戻る船の上で、海岸に立ち並ぶ黒松を眺めていたんだ。
そして今その光景が、胸の中に甦っているんじゃないだろうか。
「こういう効果があったんだね」
私はそっと父に耳打ちをした。
「ああ、回想法という療法に近いかもしれない。でもちょっと心配なんだ」
今度は父が耳打ちをする。
「爺ちゃんはね、鼾だけでなく寝相も豪快になる時があるんだ。特に気持ちが昂った日の夜なんて、今の時期の日本海に立つ荒波のようだよ」
「という事は……」
「念の為今晩一晩、僕が見守っていようと思うんだ」
だが、そんな心配も杞憂に終わった。
なぜならベッド松は、ちゃんとベッド柵の役割も担ってくれたから。
つまり、潮風や高波を防ぎ爺ちゃんの故郷を守ってきた黒松は、波のような体動によるベッドからの転落も防ぎ、爺ちゃんを守ってくれたのだ。
洗濯物を畳み終え、そのポテッとした体をベッドの上に乗せると、クロは前足で樹冠をポンポンと叩いた。
登る必要もないベッド松は、ツバキよりもネコジャラシよりも、丁度良い木であり玩具なんだろう。
「クロって名前も、黒松が由来なんだね」
「うん。日記にも書いたはず」
掃除機の紙パックを填めながら、父は応えた。
今日は久し振りの晴天ということもあり、午後になると爺ちゃんは母と共に、母の友人が所長を務めるデイサービスへ見学に出掛けた。
私は春休みで部活もない日の為、父と共に留守番の最中だ。
「なんでも日記につけてたんだね」
「小説を書きたいなら日記を書け、文章の練習にもなる。そう爺ちゃんにも……父さんにも言われたからな」
「へえ、反対されてたわけじゃなかったんだ」
「ああ見えて靭やかなところもあるから。松の枝のように」
夕方、爺ちゃんは帰宅すると、疲れたのかベッドに横になりすぐに寝息を立てた。
後から聞いた話だと、この時見た夢の中で爺ちゃんは「風の松原」を歩いていたという。
様々な生き物が棲む事でも有名だけど、その中にはクロもいて、黒松に爪をたてていたらしい。
ただその黒猫がどちらのクロかは、わからなかったという。