最終話:果てに届ける(後編)
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結界の中に入って五日目の朝。
天井の光源にもすっかり慣れてしまったが、見るのは今日で最後だ。
「目が覚めたようだな」
老人が処刑場に入ってくる。
杖代わりにしている長物とは別に、三本の長物を持っている。
それを刃が上になるように、地面に一本ずつ刺していく。
「一本で十分だと思うけど」
寝転びながら欠伸をするアウリウに対し、老人は鼻を鳴らす。
得物が破壊された時の替え。
防衛戦で同じ事をしている奴を二回見た事がある。
武器を替えるのに失敗して叩き斬られたのが一人、
それなりに活躍したのが一人。
老人はどちらにもならない。武器を振らせる気は一切ないからだ。
イェシルを生かせるなら武器は要らない。
殺すのならジュルターの槍でだ。
「準備は」
「待ってくれ、まだ腹に何も入れてないんだ」
急ぐ事でもないので、保存食を普通に食べる。
老人にも勧めてみたが、不機嫌そうに首を振られた。
アウリウとイェシルが食事をしないのはいつも通りなのだが、
更に一人見ているだけの人物を追加されると流石に気まずい。
「イェシル、咲くのならどんな感じになるの?」
「決めた時から少し経ったら咲くと思う。
詳しくはやってみないと分からないけど」
「初めてやるんだし、そりゃそうだよね」
イェシルが何度も花を咲かせるのかは分からないが、
今回が最初の一回目なら本人にも分かるはずがない。
不慮の事態に備えるためにも、準備だけは完璧にしておこうと思った。
「少し待ってくれ、寝起きの体を起こす。
アウリウ、頼む」
「任せてよ」
槍を手にして、細剣を抜いたアウリウと二歩半の距離で向かい合う。
慌てた様子のイェシルが声を上げる。
「ジュルター、アウリウ!? 何してるの!?」
「喚くな、演武だ」
ジュルターたちに殺気がない事を見抜いたのか、煩わしそうに言う老人。
イェシルに演武を見せるのは初めてだ。
無垢な少女の教育に悪いと思ったのもあり、
いずれ殺す相手に技を見せたくないと思ったのもある。
しかし今見せなければ、二度と機会はないかもしれないから。
首を狙って槍を突き出す。
細剣の鞘で受け流され、大きく踏み込んでの突きが返ってくる。
力を込めて槍でアウリウを押し、姿勢を崩させて剣先を躱す。
槍と体を回すように動かし、石突で胴を狙う。
アウリウは受けては折れる剣身ではなく、器用に柄を使って受けた。
受けの反動を利用しての刺突、斬撃。槍の柄で受け流す。
首筋を斬りつけてくる返しの斬撃を、後ろに一歩引いて躱す。
間合いを取り直し、大きく息を吐いた。
槍を下ろし一礼。アウリウも細剣を下ろし一礼をする。
イェシルは呆けたような顔でこちらを見ていた。
「あんまりイェシルの前で剣を振った事はないけど、
あたしも中々やるでしょ?」
器用にくるくると細剣を回し、胸を張るアウリウ。
実際に彼女の剣技は長年の鍛錬もあり、上澄みの方に入る。
今回の旅路では剣を抜く機会が少なかっただけだ。
「彼らとは違う。オレと同じ半端者の槍か」
老人はアウリウに目もくれず、ジュルターだけを見ていたらしい。
十人の英雄の一人というだけあり、見る目は確かなようだ。
死した九人の英雄たちは、きっと真摯に武の極みを求めたのだろう。
確かにジュルターは半端者だ。
武の高みという目的はとりあえず立てた物に過ぎないのだから。
「終わったのなら、さっさと咲く準備を始めろ」
準備と言っても朝食は済ませ、腹ごなしと眠気覚ましも終わり。
ジュルターとアウリウは主となる得物を一本しか持っていないので、
既に準備は終わっている。
後はイェシルの心ただ一つだ。
「イェシル、始めてくれ」
「……うん、分かった」
目を閉じるイェシル。
外見に変化が起こる事はなかったので、緊張を解すように大きく息を吐いた。
老人は相変わらずイェシルに殺意を向けているが、
それとは違う感情も籠っている。
歓喜。三十年間望んできた瞬間に立ち会っているという喜びだ。
その喜びに氷水をぶちまける。
「イェシルと話した。
花が咲いた後、災いの花がなぜ災厄を起こすのか、その理由を語ってくれと。
だから花が咲いても、話が終わるまで攻撃をしないでくれ」
「馬鹿な事を言うなっ! 最大の機を捨てろというのか!?
名まで付けて、下らん情でも湧いたか!」
激昂する老人が得物を振り上げようとした瞬間、アウリウが柄を掴んで止めた。
「何も知らなかったら、また三十年後に同じ事が起こるだけじゃない。
お金もなしに結界と場所、誰が維持するの」
「理由が分かれば対処の方法が分かる。
理由などない災いだったとしても、結界の中で留め置ける。
災いの花に結界を使える最後の機会が今だ」
こちらの言う事に聞く耳を持たないのなら
殴り飛ばしてしばらく動けないようにしておくつもりだったが、
老人は激昂を辛うじて収め、憎悪の形相でジュルターを睨んでいる。
「最初からこうするつもりだったか」
「いいや、決めたのは結界に入ってしばらくしてからだ。
最初から決めていたのなら、そもそもここまでイェシルを連れて来ない」
「弟子連中だって、あっちから殴りかかってきたから叩きのめしただけで
あたしたちからどうこうする気はなかったけど。
全員追い出す羽目になった原因は師範失格のお爺ちゃんでしょ」
反論が出てこないのか、ただこちらを睨みつけるだけの老人。
増援を連れて来られない状況になってから話したのは謀ったと言えるが、
それ以外の状況を作り出したのはジュルターたちだけではない。
無様を晒したくないから外から来たジュルターたちを重用するように振舞い、
弟子たちへの浅い情で結界から追い出した。
その流れを利用させてもらっただけであり、
そんな有様を見たからこそ、理由を知りたいという決意に火が付いた。
欲しかったのだ、槍を振り下ろすに足る理由が。
イェシルを殺さねばならないなら、それが正しいと思える何かが。
半端者の元英雄も、天日干しの聖女も、その理由たり得なかった。
「どうせ俺の事は予備程度にしか思っていなかったんだろう?
自分が真っ先に首を落とす事しか考えていなかったはずだ。
ならば俺も好き勝手にやらせてもらう。雇い主はあんたじゃないしな」
雇い主は一応あの国になるのだろうが、
もう立ち寄る気はないのでどうでもいい。
成功報酬で貰える殺意の籠った数十の武器が欲しいとも思わない。
この辺りの心持ちが武芸者として半端者と評されたのだろう。
「傭兵をただ働きさせようとしたお爺ちゃんが悪いって事で」
「オレの倍は生きている化物に、爺呼ばわりされる謂れはない」
「あたし七十九歳だから、倍には足りないと思うよ」
老人はせめて何か言い返そうとしたのだろうが、
あっさりと年齢を答えられて押し黙ってしまう。
真実はいかなる虚飾や虚勢をも払いのける。それが良いか悪いかに関係なく。
そんな事を話していると、天井の光とは違う方向から淡い光が見えた。
イェシルが発光している。
「あれが咲く予兆なのか?」
老人に聞いてみるが、返答はない。
相当に機嫌を損ねたので無視されているのかとも思ったが、
彼はイェシルしか見ていないだけだった。
「あの時と同じだ、すぐに花が咲く。
糞忌々しい、大きな赤黒い花が」
老人は気付いているのだろうか。
嫌悪の言葉とは裏腹に、自分が獰猛な笑みを浮かべている事に。
アウリウは老人の得物を持つ手に力を込め、
ジュルターが老人の前に出て移動を遮る。
こちらに攻撃してくるようなら、何とか掻い潜って首を落とす。
そうならないように願った。
イェシルを殺したくないという意味と、
英雄十人を返り討ちにした相手と戦いたくないという二つの意味で。
イェシルが発している光はじっと見ていても苦にならず、
揺らめく焚火を眺めているような気分になってくる。
精神を落ち着けるようなそれに似ているからだろうか、
アウリウが首を傾げながら言及するまで気付かなかった。
「イェシル、大きくなってない?」
徐々に大きくなっていたので気付かなかったのか、
確かによく見てみれば大きくなっている。
幹の部分がかなり膨らんでおり、見た目が随分頑丈そうになっていた。
「随分太くなっているな。前もそうだったのか?」
「花が相当の大きさだった。それを支えるために大きくなるのだろう」
老人がそう言うのなら、三十年前と同じように進んでいる。
注視していても気付かないほどゆっくりと進む変化は、少しじれったい。
槍の石突を地面に付け、大きく息を吐いて体の力を抜く。
「ジュルター?」
「時間が掛かりそうだからな、ずっと気を張っていては肝心な時に力が出せない」
「いいなぁ、あたしはお爺ちゃんの所為で気を休める暇ないよ」
アウリウが手を離せば、老人は即座に斬りかかってくるかもしれない。
戦力を削るような事はしないと考えていたが、それは準備段階での話。
今の老人は己の宿願を果たす事しか考えていない。
その邪魔をするジュルターとアウリウは、排除の対象でしかないだろう。
「なら今すぐにオレを殺したらどうだ」
「無意味に戦力を削りたくはない。あんたとは違ってな」
老人は無言でジュルターを睨みつける。
考えが正しかったと確信した。
「イェシル、後どのくらいで咲くー? なんて、答えてくれるわけ……」
「ちょっと急いでみるから、もう少し待って」
「返事できるの!? いや、無理して急がなくていいからね!?」
返事が返ってくるとは思わず、焦るアウリウ。
ジュルターも槍を取り落としそうになってしまったくらいには驚いた。
厳かな儀式のようだったので、
変化の途中でも普通に喋れるとは思いもよらなかった。
話ができるのならせっかくなので聞いてみる事にする。
「何か変わった事はあるか?」
「あんまり分からない。咲いてからじゃないと変わらないと思う」
「そうか。集中を乱してすまなかったな」
「気にしないで」
会話が途切れると、イェシルの発光が少し強くなった。
律儀に急いでいるのか、次の段階に入ったのかは分からない。
これ以上声を掛けるのも迷惑になりかねないので、静かに見守る。
明るさが一定の結界内では、時間の感覚が狂う。
自然と会話らしい会話もなくなり、ただ光るイェシルを見ていた。
随分と長い時間だったようにも思えるし、短い時間だったような気もする。
退屈な見張りをしている時のように呆けながらイェシルを見続けていたが、
ついに目に見える変化が現れた。
イェシルの頭にある蕾が、開き始めたのだ。
「いよいよ、かぁ」
感慨深く、それでいて複雑な感情が入り混じった声を漏らすアウリウ。
旅の終わり。そして、イェシルの命が終わるかもしれない瞬間。
その命を繋ぎ止めるために、
彼女は元英雄の武器を振らせないように掴んでいる。
「準備して」
イェシルの短い警告。全身に力を込め直し、槍を構える。
全員が構え終わった次の瞬間、発光は閃光となった。
逆手をかざし光を遮る。目を開けていては光で焼かれる。
続けて破壊音と、細かな固形物が体にぶつかる感触。
それは、老魔術師と共に挑んだ大岩から降ってくる小石に似ていた。
光が徐々に消えていく。
ほぼ発光がなくなった所で目を開けると、イェシルは大きく姿を変えていた。
ぱっと見では倍近くに大きくなったように見えたが、
その理由は四肢が生えているからだと気付いたのは一拍遅れて。
幹が枝分かれして人の腕のようになっており、
大きく育った根が二又に伸び、しっかりとした両足のようになっている。
台座は内側から破壊されており、ぶつかってきたのは台座の破片だったようだ。
そして、頭で咲いている花。
「金色の花か」
「黄色の花だね……」
大きな赤黒い花とは似ても似つかぬ、髪飾りのように頭を彩る小さめの花。
ジュルターは淡い金色だと思ったのだが、アウリウは黄色だと思ったようだ。
言われてみれば、どちらともとれる色合いをしている。
背から感じる激しい殺意。
即座に足を踏みつけて動きを封じた。
杖代わりの得物は掴まれており、片足が義足の老人は軸足を封じれば歩けない。
「少しくらいは待ってくれないか。聞いていた状況と全く違うんだ」
「次の瞬間には命がないかもしれんのだぞ」
「しないよ、そんな事」
老人が驚愕する。イェシルが話しかけてくるとは夢にも思っていなかったのか。
以前の花は咲いた瞬間に殺戮を行ったようなので、
あり得ないと考えていたようだ。
「イェシル、覚えてるよね?
あたしの名前とか、こんな可愛い容姿だけど八十歳だとか」
「アウリウはまだ七十九歳じゃ?」
「大丈夫みたいだね、よかった」
意図的に年齢を一つずらして聞いたアウリウに、
あっさりと正解を答えるイェシル。
いきなり別人に変わるような事はなさそうだ。まずは胸を撫で下ろす。
だが本題はここから。災いの花が災厄を為す理由が分かるのか。
「イェシル、教えてくれ。理由は分かったのか?」
「……全部分かったよ。今から話すね」
胸に手を当てながら頷くイェシルに、
首や腕も動かせるようになったのかと、どうでもいい事を考えてしまった。
「まず、わたしは……わたしたちは、災いを起こす花じゃなかった」
「では何だと?」
「簡単に言うと"願いを叶える"花」
イェシルがそう言った瞬間、踏みつけた足が無理矢理に押し上げられる。
即座に長物の柄が黒い炎に包まれ、ジュルターは後ろに肘打ちを放つ。
動こうとしていた老人は炎に炙られ得物から手を離してしまい、
顔面に肘打ちを受けて吹っ飛ぶように倒れた。
当然動くだろう。
イェシルの言った事は、老人にとって許せる事ではないだろうから。
「でたらめを……ぉぐっ!」
「ちょっと動かないで黙ってて、あの子の命が懸かってるの」
叫ぼうとした老人の腹をアウリウが踏みつける。
これで大声は出せず、立ち上がる事は困難になる。
荒っぽい方法ではあるが仕方がない。
老人を無力化した後イェシルへと向き直り、頷いて続きを促す。
「わたしたちは接した人の願いを読み取り、それを可能な限り叶える花。
災いだと思われてきたのは全て、人の願いの結果だった」
まるで体験したかのように語りだすイェシル。
九十年前の花が叶えた願いは、村八分にされていた農夫のもの。
村人もろとも村がなくなってしまえばいいという暗い願いを叶え、
村人全員と村を滅ぼした。
当然ながら村人であった農夫も含めて。
六十年前の花が叶えた願いは、
敵国から拉致され、奴隷として酷い環境で働かされていた者たち。
この地の連中を皆殺しにしてやりたいという憎悪を叶え、大殺戮を行った。
所有物として扱われていた奴隷たちも、全て等しく。
「ちょっと待って、じゃあ三十年前は?
英雄たちが自殺を望んでいたって事になっちゃうんじゃない?」
アウリウの疑問に、何とか動こうともがく老人。
それが先ほど無理矢理にでもイェシルを殺そうとした理由。
自分、それ以上に死した英雄たちへの侮辱だからだ。
イェシルは悲しそうに首を振る。
「違うの。英雄たちが望んでいたのは、自分よりも強い相手と戦いたい。
その先もあったんだろうけど、花が読み取った願いはそれだけだった。
十人のうち、一人だけを除いて」
イェシルが老人を指差す。
何かを思い至ったのか、老人は獣のような声を出しながらもがいた。
「そのおじいちゃんだけ違う事を願っていたの。
こいつらがいなくなってくれれば自分だけが英雄になれるって」
老人の発する声は叫びになり、悲鳴へと変わっていく。
辻褄が合ってしまった。
絶対的な強さで英雄たちを殺しながら、あっさりと手負いの相手に殺された花。
やはり八百長試合だったのだ。台本を書いたのは花自身。
自分が死ぬ事さえ予定通りの、人の願いを叶えるためだけの筋書き。
老人だけが無傷であれば八百長を疑われるので、
辛うじて動けるように片腕と片足だけを斬り落とすという徹底さ。
「じゃあ聖女は? 花が心を壊したって言ってたけど、実は嘘とか?」
「嘘じゃない、本当だよ。聖女の願いを叶えたの。
立場も何もかも捨てて自分だけ安穏と暮らしたいって願いを」
聖女と称される割には俗な願い。
確かに立場はしがらみもなく捨てられていて、
外界と隔離された安全な結界の中で身動きさえせず安穏と暮らしてはいる。
「その願いを叶えるのに心を壊す必要ってある?」
「三十年前の花はすぐに結界の中に入れられて
人と接する事もなく、英雄や聖女としか顔を合せなかったから。
善も悪も、人の心も想いも、生の意味も、何も知らなかったの」
最も確実で、最短最速の方法を選んだのだろう。
安穏と暮らしたいのならば、普通は周囲の環境を整備する必要がある。
だが、本人を日常生活が送れないように破壊してしまえば話は別。
こんな辺境の地に三十年も放置されているのは、利用価値がなくなった証拠だ。
確かに聖女の願いを叶えてはいる。
それが幸福かどうかが考慮されていないが。
花がどういう存在なのかは分かった。
ならばイェシルは何の願いを叶えるのか。
「イェシルが叶える願いは何だ?」
「ジュルターが理由を知りたいと願ったから、まずはそれを。
色々な人の願いを受けて、わたしが叶えるのは……」
イェシルはその場に膝をつき、胸の前で手を組む。
その姿は祈りを捧げる聖像のように見えた。
「ジュルター、わたしに言った一番最初の願いを叶えて。
果ての岬で、災いの花を葬って」
「……違うと言ったのはイェシルだろう!」
思わず息を飲み、続けて大声が思考の前に口から出た。
願いを叶える花だと言ったのは彼女自身だというのに、
どうしてそんな事を言うのかが分からない。
「違うけど、違わないの。わたしたちはどんな願いでも叶えようとする花。
願いは簡単に災いへと変わる」
願いを叶えるという行為は常にいい結果になるとは限らない。
人の願いとはすなわち欲望。欲望であるが故に歯止めが効かない。
老人のように、嫉妬心から他者を排除したいと願う事だってある。
イェシルはそれさえも叶えようとしてしまうのだと。
「じゃあ、あたしの願いは叶えてくれないの!?
あたし、三人でもっと一緒にいたいって……」
「今はそう願ってくれているのは知ってる。
でも、ずっと願ってたのはジュルターと二人でだったからいいかなって」
一歩、二歩。アウリウの足が後ろへ下がる。
何度も小さく首を振りながらうつむく様は、幼い少女のようにも見えた。
イェシルを大切にしてはいたが、アウリウは諦めていた。
それを見透かされたから何も言えず、ただうつむいて肩を震わせるだけ。
押さえつけていた足が離れた事で老人は自由に動けるはずだが、
手で顔を覆っているだけで起き上がろうとはしなかった。
自分自身の中に隠していた最も忌まわしく醜いものを直視させられたのだ、
体を動かす気力さえ出てこないのだろう。
「山賊さんはいない方がいい存在もあるって言った。
料理人のお姉さんは願いを諦める事を見せてくれた。
魔術師のお爺さんはどうにもならない事があるって教えてくれた」
旅路の中で出会ってきた者たち。
そこから学び、イェシルは結論を出していた。
「そして、アウリウが教えてくれたの。
大事な人のためなら命を捨てても構わないって気持ちを」
「あたしは吸血鬼、不死者なの!
一度死んだらお終いのあなたたちは、それじゃだめなんだよ!」
悲鳴のような涙混じりの声を背に、イェシルに近づく。
その首は木の幹とよく似ていて固そうだ。
槍で切断するのは難しいかもしれないが、この程度の細さならどうとでもなる。
槍の間合いに入ったジュルターに、優しく微笑みかけてくるイェシル。
「お願いします」
アウリウは止めに来ない。
ジュルターも、イェシルも、一度やろうとした事を曲げないと知っているから。
イェシルは全てを受け入れるように、
それでいて達成感に満ちた笑顔を向けてくる。
願いを叶える花としての本懐が成就する時という事か。
手に持った槍を回し、感情をぶつけるように全力で地面に突き立てた。
「馬鹿にするのも大概にしろ」
怒りのままに吐き捨てた言葉に、驚いて目を見開くイェシル。
そういえば、今までイェシルを叱った事はなかったなと思い出した。
「……ジュルター?」
「俺から学ぶ事は何もなかったようだな、当然といえば当然か。
武芸者にも傭兵にもなり切れない、ろくでなしの半端者。他山の石が精々だ。
だがな、そんな奴にも矜持ってやつはあるんだ」
どうせ最後になるのなら。最後にさせないために。
相反する思いを抱え、やはり半端者だと自嘲しながら全てぶちまける。
「あの山賊は最期に何て言った。
絶対に俺のようになるな、と言ったはずだぞ。
願いを叶える花がそれを破るのか、お笑い草だ」
「そ、それは……」
「それに料理人は願いを諦めたんじゃない、選び取ったんだ。
他の方法がないと諦めるだけのお前と一緒にするな」
「……あ、う……」
「魔術師の爺さんも、五年間たった一人で村を守り抜いた。
どうにもならないと諦めたのは力を尽くした後だ」
イェシルは泣きそうな顔になってしまう。
大人が幼子相手にやる事ではないのかもしれないが、
言わずにはいられなかった。
イェシルの命がどうこうではなく、彼らへの侮辱が許せなくて。
「アウリウが命を捨てても構わないと思っていた? お前は何を見ていたんだ。
あれは複数考えた作戦の中でも最悪の物を使った結果に過ぎない。
生きて勝つために俺たちがどれだけ作戦を練っていたか、忘れたらしい」
喋ってから論点が外れてきている事に気が付いたが、
幸いにもイェシルは思い至る事なく反論もしてこない。
冷静さは常に保ちつつも感情のままに、このまま行く。
イェシルの話を聞いて、思いついた事があるのだ。
「俺たちの上っ面だけを読んで、よくもそんな戯言を言ってくれたな。
今からお前の下らない思惑なんぞぶっ壊してやる」
激しく怒りを露わにしているジュルターを見て、
完全に怯えてしまっているイェシル。
仕方がない。父親というものは娘に嫌われても正道へ導くのが役目だ。
「今すぐに、俺の願いを叶えてもらう。
俺とアウリウの願いを一度だけ叶えて以降、他人の願いなんか叶えるな、だ」
「え? で、でも、だって、そんな事……!?」
「自分で言ったはずだ、どんな願いでも叶えようと"してしまう"花だと。
言葉通りならお前に拒否権はない。さっさと叶えろ」
疑問だった。イェシルが言った事には一見すると矛盾がある。
しかし、矛盾しないように言い分を全て通す事はできる。
一つの例外を付ければ。
それこそが突破口になるかもしれない。
「どんな願いでも強制的に叶えなければいけないのなら、排他の願いはどうする。
爺さんが自分の手で花を殺したいと願い、アウリウは生きていて欲しいと願い、
俺は約束を果たすためにこの手で殺す事を願った」
三人のうち誰かの願いを叶えれば、他二人の願いが叶う事はない。
本来ならば矛盾を引き起こすはずの問題に対し、
イェシルはあっさりとジュルターの願いを叶えると決めていた。
「アウリウに返した言葉で気付いた。もういいかな、と言ったよな?
つまり、排他の願いはお前自身がどれを叶えるか決められるって事だ」
誰かに命令されたり、本能によって最大幸福を決定した訳ではない。
最大幸福というなら、一介の傭兵に殺されるよりも
英雄の悲願を成就させた方が幸福は増えるはずだ。
そこに意思が介在している。イェシル本人の意思が。
「なら意図的に矛盾させて行動を縛ってやればいい。
そうすれば叶えるか叶えないかはイェシル自身が選べる」
言い終わるのとほぼ同時にアウリウが駆け寄ってきて、背中に抱き着いてきた。
そしてジュルターの外套で押し付けるように顔を拭く。
そこは自分の服なりを使ってほしかったが、言うのも野暮なので黙っておいた。
「あたしの願いは、
イェシルが本当に叶えたいと思った願いだけは叶えてもいい。
これで完璧に矛盾完成だね」
満面の笑顔で隣に並ぶアウリウに、勝ち誇った笑みで頷く。
これで、イェシルは願いを叶える花としての宿命に縛られる事はない。
老魔術師が言ったように、力を"振るわない"自由と権利を得られる。
イェシルは困惑しきっており、泣きそうな顔でこちらを見つめてくる。
「わたし、どうしたらいいの?
願いを叶えられない花は、何のために生きていけば……」
「生きる理由か。そんな物、俺の方が欲しいくらいだ。
俺の願いを読み取ったというなら、知っていると思っていたが」
イェシルは小刻みに首を振る。
人の願いを読み取るとはいっても、
表層の部分や言葉に出した物しか読み取れないのだろう。
ジュルターがずっと抱え続けてきた、根幹の願いが分からないと言うのだから。
「俺は家族を亡くした日から、生きる理由を……
生きていてもいい理由を探している。
武の高みを求めるためと言って、傭兵稼業で黄色の外套を着続けたのは
理由が見当たらなくて自棄になっていたからだ。
死ぬに足る理由がなかったから生きてきたというだけで」
自分だけが生き残ってしまった意味、理由が欲しかった。
そんな物などないと頭では薄々分かっていても、ただ欲しかった。
存在しない物を探すという矛盾に耐えかね、
最も死に近い場所で与えられた死装束を纏い続けた。
心のどこかで死ねば楽になれるかもしれないと考え、理由を付けて死地にいた。
しかし、家族の分まで生きねばならないジュルターの
死に値する理由が見つからなかった。
ある意味では山賊として最期まで生きた男に似ているのかもしれない。
あの男はしっかりと自らを形作る理由を持っていたが。
「それでも案外と生きていられるものだ。
まだ死ななくてもいいか、と思えば生きてはいける。
そこの爺さんも、聖女も、俺と同じような半端者だ」
自分がやった事ながら、こんな奴の槍で死んだ敵は不憫に思うが
他の生き方を見出せていないのだから仕方がない。
「とりあえずでいい、武の高みなんてあるのか分からないものでいい。
滑稽無形でもいいから何かやりたい事を当座の目的にするんだ。
その中で探せばいい、何のために生きるかなんて」
「ジュルターがわたしを岬に運んだのは、とりあえずだったの?」
「ああ、行き当たりばったりだ。
やりたいと思い、やらなければならないと思ったからだ。
だから当座の目的として選んだ」
「当座の目的として選ぶには狂ってるけどね」
茶化してくるアウリウの頬を指でつまみ、
変な顔にさせてから再度イェシルに向き直る。
ジュルターの話に思う所があったか、いつものじゃれ合いを見たからか、
イェシルの表情はかなり和らいでいるように感じる。
「俺たち定命の者が死ぬのは簡単にできる。だが死ねばそこで終わりだ。
何かしらの目的を作って、それを成し遂げてから死ぬかどうか考えればいい。
俺は十年そうやってきたぞ、意外と死ぬ気にならないものさ」
イェシルに手を差し出す。
生えたばかりの腕を動かし、イェシルはジュルターの手を取った。
見た目は完全に樹木のはずだが、赤ん坊の手を握っているような感触。
「もう馬鹿な事言わない?」
「……ごめんなさい」
アウリウが優しい声で問いかけると、イェシルは静かに頭を下げた。
槍を引き抜き、背に仕舞う。この場で振るう意味がなくなった。
老人に目をやると、倒れたままの姿勢で身動きさえしていない。
「イェシルを殺す意味はない。もうこの子は災いなど起こさない。
連れて行くぞ、構わないな?」
「好きにしろ」
老人は手で顔を覆ったまま、そう言って笑いだす。
その笑い声は、泣いているようにも聞こえた。
「あいつに伝える事もできん、
無意味どころかオレの浅ましい願いが元凶だとはな。
この指輪を持っていけ。結界を開くのに必要だ」
「弟子に渡したいなら自分でやればいいじゃない」
「違う。結界から出たら、二度と入れぬようにした後で壊してくれ」
閉じた結界の中で朽ちたいと。
それが自らに課した罰だとでも言いたげに。
自死でなく緩慢で苦しい死を選んだのは罪の意識からなのだろうか。
きっと違う。これは結局の所今まで見てきたものと同じ、老人の本質だ。
それに対する返答は決まっていた。
「アウリウ、ランタンを灯してくれ。爺さんとの約束を果たす」
「任せて。はい、どうぞ」
懐から紙切れを取り出して見せると、
すぐにアウリウがランタンを灯してくれる。
黒炎を火口箱代わりにするのもどうかとは思うが、便利なので仕方がない。
紙切れに書かれている合言葉を、天に届くように大声で唱える。
「"天に浮かぶ偽りの太陽よ、その光を一時止めて我が元に舞い降りろ"!」
合言葉を言い終わると同時に、
天井の光がふっと消えて球体の物がゆっくりと下りてくる。
ランタンの明かりで照らされている所以外は完全な暗闇。
密閉された空間なので星の光さえ存在せず、
明かりがなければ自分の手さえ見えないはずだ。
ジュルターの側に下りてきた浮遊している球体をよく見てみると
きれいな丸い玉ではなく、
複数の部品が組み合わさって球体になっている物だった。
大きさは人の頭くらい。もっと大きいかと思っていたので、意外に小さかった。
恐る恐る触れてみたが、熱を持っているような事はなく冷たい金属だ。
その様子を見て、老人は驚愕で目を見開いている。
「お前は……お前は、一体何をしている?
なぜそんな事ができる!? この指輪でさえそんな機能はないんだぞ!?」
「結界を作った人に頼まれたんだ」
球体を形作る部品を、紙切れの指示に従って順番に外していく。
外して地面に落とす部品が、鈴のような澄んだ音を鳴らす。
破壊される断末魔ではなく、それこそが正常な操作だと音色で伝えるように。
部品はいつの間にか、最後の二つがくっついているだけになっていた。
両手で一つずつ部品を持つ。
「この失敗作をぶっ壊してくれとな」
最後の部品を外すと結界は青白い光を放ち、下から溶けるように消えていく。
外から差し込む日の光。アウリウの位置が影になるよう一歩移動する。
時間にしてわずか二呼吸ほどで、結界は跡形もなく消え失せた。
部品を捨てる。既に地面に落ちていた他の部品に当たり、綺麗な音が鳴った。
久々の強い光に目を細める。
まだ朝の早い時間だったようで、太陽は地平線の少し上にある。
老人は呆然と、天井の消えた青い空を眺めている。
「あの爺さんが結界を失敗作と罵った理由が分かったんだ。
結界は、あんたたちが何もかもを保留するための牢獄でしかなかった」
ずっと感じていた老人の本質。
現実からの逃避。あるいは保留癖と言ってもいい。
何もかもが中途半端で、とにかく一時でも引き延ばす事しか考えていない。
自分と同じ半端者という評がその証明だった。
老人はその悪癖に気付いていながら、それでも保留し続けた。
本気で災いの花を殺すつもりなら、
こんな辺鄙な場所で結界に引き籠るなど愚策もいいところ。
貴族である自身の金と地位を使い、情報を収集し、精鋭を集め、
完璧に迎え撃つ布陣を作らなくてはならないはずだ。
だというのに三十年もの間、無為に金を浪費し続けるだけで大した事もせず、
弟子とは名ばかりの下男を率いてただ結界の中で待ち続けた。
聖女に関してはアウリウに何とかさせようとしてみるなど
打てる手は尽くしたようだが、
試みが失敗してもなお結界の中で生き永らえさせている。
願望や欲望は人の本質をさらけ出してしまう。
三十年前の花は、老人のそうした本質すら見抜いていたのかもしれない。
こいつをこの状況に追い込めば、
聖女の安穏と暮らすという願いを叶えられると。
偶然あった都合のいい牢獄に引き籠り、全てを先延ばし続けた男の末路。
だからこの老人が嫌いだった。
同族嫌悪。まるでジュルターのなれの果てを見ているようで。
「あんたの保留と先延ばしはもう終わりだ。
自分の事も、聖女の事も、いい加減に決断して進めろ」
きっとこのために、老魔術師は結界の操作方法を託してくれたのだろうと思う。
誰も彼もを縛り付けて不幸にしかしない失敗作を、
作った者の最後の責任として処分するために。
「俺もそうする事にした。少なくともまずは一つ、もう保留は止めだ」
一つ大きく深呼吸をして、アウリウを強く抱きしめた。
彼女に驚きはなく、静かにジュルターの言葉を待っている。
「アウリウの事が好きだ。ずっと共にいて欲しいと思っている。
言わぬが花とは言うが、俺は花じゃないからな。言葉にする事にした」
アウリウはジュルターの頬を両手で包み、肩を押して屈ませてくる。
片膝をついた状態にまで屈むと、丁度目線が合った。
いつの間にかイェシルが後ろに立っていて、
日光を遮る影が途切れる事はなかった。
「あたし吸血鬼だよ」
「五年前から知っている」
「嫌われたくないから隠してたけど、本当はろくでなしの面倒臭い女だよ」
「隠せてはいないから知っている。
だが、俺以上に面倒臭い奴などそうはいない。負ける気がしないな」
アウリウの表情がころころ変わる。
恥ずかしい、怒る、納得、後は困惑か。
やがて表情は決心へと変わり、ジュルターを見つめながら口が開かれた。
「後悔しない?」
「何度かはするだろうな」
嘘はつけない。
人間と吸血鬼という異種というだけでも問題だらけ。
その上どちらもろくでなしの根なし草。死ぬまで定住ができぬ旅暮らし。
この選択を後悔しないと言ったら、それはただの嘘で出まかせだ。
「それでも、この想いを抱えて保留し続け、擦り切れさせるよりはずっといい」
「そこで言い切ってくれない所はちょっと嫌いかな」
アウリウは苦笑をすると、ジュルターに抱き着いてきた。
お互いの頭を肩に置くような姿勢。
吸血鬼相手にこんな姿勢を作るのは愚かにも程がある。
無防備に首筋を晒し、血を吸ってくれと言っているようなものだからだ。
だからこそ、その事実こそが信頼の証になる。
「あたしもごまかすの止めた。
直してほしい所はたくさんあるし、ちょっと嫌いな所もあるけど……。
それ以上に、あなたの事が大好きだよ!」
陽気なアウリウらしい返事を聞き、そっと抱き直した。
先に進めるというのは恐ろしいものだ。
もしも断られたら、今まで通りの関係ではいられなくなる。
楽しい時間をできるだけ引き延ばしたいと考えるのは人の常だろう。
だが、それではいけないのだ。
どこかで終わらせ、進めなくてはならない。
想いや願いが成就しても、成就せず道を違えたとしても。
終わりのない保留は、単なるみっともない逃避でしかないのだから。
「……人前でよくも恥ずかしい事をやる。
無為に三十年を使い潰した罪人への当てつけか?」
「幸せのお裾分けだよ」
「他人の痴情の押し付けなど誰が要るか」
上体を起こし座り込んでいる老人は悪態をついてくるが、
その顔は青空を見つめており、どこか晴れやかだ。
「おじいちゃん、わたしを殺したい?」
イェシルの静かな問いに対し、
老人は近くにあった長物を手に取り、立ち上がる。
少々名残惜しいが抱いていたアウリウから体を離し、老人に向き直る。
しかし心配は無用だったようだ。
老人から常に放たれていた殺気が消えている。
「何もしていない小娘を殺すほど耄碌してはいない」
「ふふ、ありがとう」
礼を言われて怪訝な顔をする老人。
彼は気付いていただろうか。初めてイェシルを人として扱った事に。
老人は小屋のある方向へとゆっくり歩き出す。
後を追うかは一瞬だけ迷ったが、共に行く事にした。
「ついて来ても嫌な気分になるだけだぞ」
「最後まで見届けたい」
「好きにするといい」
常に拒絶を纏っていた老人だが、今はそれがない。
花に挑む前の彼はこうだったのかもしれない。
願ってしまった欲望と三十年の月日が、歪めてしまっただけなのだろう。
***
結界が消失するという異常事態に、
弟子たちは真っ直ぐ処刑場に向かってきたようだ。
花を咲かせているイェシルを見ると即座に襲い掛かってこようとしたが、
「止めろ。こいつはもう何もせん」
殺気立った一喝や拳ではなく、静かな諫めの言葉によって武器を収めた。
もし老人がいつも通りに言っていたのなら、決して彼らは止まらなかったろう。
穏やかな諫めだったからこそ、
弟子たちは武器を振るう気勢を完全に削がれたのだ。
使命が終わったのだと悟ったから。
「結界がなくなった以上、オレやお前たちの役目も終わった。
これからは自分で考えて別の道を行け。
だが、武芸者だけは止めておけ。お前たちには向いていない」
師からの破門宣告に等しいはずだが、
弟子たちは声を荒げる者もおらず、激昂して得物を振り上げる者もおらず、
ただ意気消沈して悲しそうに老人を見るだけだった。
彼ら自身も薄々気付いてはいたのだろう。
鉄拳制裁も辞さない厳しすぎる師。
本当に花が持ち込まれるかも分からない使命。
武芸というには何もかもが足りていない、身にならない稽古。
はっきりと言ってしまえば、選ばれし英雄の真似事をしていただけだ。
武芸を修めるのに他人から殴られる必要がどこにある。
強くなるのに使命を帯びる必要がどこにある。
武芸者は結局の所、自らが強くなりたいから強くなるのだ。
強さを求めるならこんな場所、こんな師など見限って出て行くべきだった。
それができず現状を保留した時点で、武芸者として生きても大成はない。
逃げるのが恥だとでも思ったのだろうか。
不利な場所で無意味に戦い続けるのはただの阿呆。
自分が有利になるように、生き残れるように逃げる事も考慮してこそ。
これは傭兵として生き延びてきた経験則だが。
「達者で暮らせ」
その一言を最後に、老人は小屋へと歩き出す。
困惑の声に混じりすすり泣きが聞こえてきたが、構わず老人の後を追った。
彼らが今後どうするのか、知らないし興味もない。
結界も使命も消え失せ、己と向き合う時が来たというだけだ。
それがどれだけ辛く、激痛を伴うものだとしても。
老人と共に小屋の中へ入ると、相変わらず聖女は寝具で横になっていた。
年配の女性が頭を下げてくる。
「終わったのですね」
「結末はこうなってしまったがな」
老人が一歩だけ横に退く。
年配の女性はイェシルと目を合わせる事になり、小さく悲鳴を上げた。
「怖がらなくても大丈夫、わたしはもう災いとか起こせないから」
「吸血鬼の知識を侮ってもらっちゃいけないなぁ」
いかにも悪そうに格好つけて、くぐもった笑いを女性に向けるアウリウ。
童女が大人の真似をしているようで可愛らしいとしか思えないのだが、
女性はそれを信じたらしい。
老人は聖女の側に歩み寄り、ひざまずいて首を垂れる。
そして、枯れ枝のような手を騎士の儀礼でそっと取った。
「結界は消えました。この地を維持する金もありません。
我らの保留と安寧は終わりました。貴女の次なる望みは何でしょうか」
答えが分かっている問いに、聖女の口がわずかだが動く。
ささやかで自分勝手な安寧を求めた彼女らしい、声なき言葉。
もういい。
「……仰せのままに」
老人は立ち上がると、得物を屋内でも使えるように短く構える。
多少持ち方を変えても、老人の技は寸分違わず目的を達するだろう。
災いの花ではなく、聖女の首を落とすという目的を。
その間に、女性がゆっくりと割って入る。
「これは聖女様の願いだ」
「ええ、私の役目です。他の誰にも譲る気はありません。
この時のためだけに、偽物の太陽だけを見て三十年生きてきたのですから」
よく見ると、女性の右手には短剣が握られていた。
その切先は一切揺れる事もなく、彼女の意志を鈍い光で示している。
老人は得物を下ろし、小屋を出て行く。
「どいつもこいつも、オレを徹底的に無能のままでいさせる気らしい」
自嘲を呟いた老人の後を追い、ジュルターたちも小屋を出た。
あの女性が聖女とどんな関わりがあったのか、なぜ結界に残ったのか、
そんな事は分からないし、知る意味もない。
確実に分かるのは、彼女たちの安寧は永遠の安息に変わるという事だけ。
それが真に安らげるものであるようにと祈った。
老人と共に昨日までは結界の境界線だった場所に辿り着くと、
結界に入る事を許されていなかった弟子たちが殺気立って出迎えてくれた。
老人の一言で高弟たちと同じように困惑していたが。
老人や彼らには後始末や撤収の準備があるだろう。
ここでお別れだ。
「それではな、爺さん。謝りはしないぞ」
「構わん。許す気もないからな」
憎まれ口を叩き合っていると、イェシルがびっくりしたように突然跳ねる。
その表情は難問をいきなり突き付けられたような困惑顔。
「わたし以外の花ってどうしたらいいのかな?
わたしはジュルターとアウリウのお陰で大丈夫になったけど……」
三十年ごとに突然現れる、願いを叶える花。
悪意ある願いに触れてしまえば災いをもたらす花をどうするか。
「実は災いの花じゃなくて、願いを叶える花だって真実を……。
絶対だめだね、間違いなく碌でもない事になる」
頭を抱えるアウリウに同意する。
人の浅ましさ、愚かさについてはよく知っている。
今回の雇い主は敵国に爆弾を押し付ける程度の扱いをしていたが、
これは災いを起こす花だと思っていたからだ。
願いを叶える花だと知っていたなら、叶えてもらっていただろう。
自分たちにとって都合のいい武器となるようにと。
なにせ国一つを滅ぼした実績がある。しかも英雄十人とほぼ相討ちの強さ。
使わない理由が見当たらない。
どんな願いでも叶える存在を手に入れたいと思わない物は極少数だ。
どんな手段を用いても手に入れようとするはず。
そういう輩が暴力や殺しを躊躇うはずもなく、
花の周辺は死と憎悪の坩堝と化すだろう。
下手をすれば花が戦争を引き起こしかねない。
正直な所は三十年後の話なんぞ知った事ではないと言いたいのだが、
不死者のアウリウと同族のイェシルのためには何とかしてやりたい。
しかし足りない頭で考えても妙案が出てこない。
ジュルターがやったように自己矛盾を引き起こす願いを掛ければいいのだが、
真実を知った者がそんな殊勝な事をやってくれるかどうか。
かといって災いの花と誤認されていては、そもそも願いなど掛けない。
イェシルはジュルターが救いようのない馬鹿だったからの結果であり、
次の花にも同じような馬鹿が寄り添ってくれるのを期待するのは難しい。
アウリウの知恵に期待して彼女の顔を見てみたが、渋い表情で唸っている。
そう簡単に妙案が出てきたら苦労しない。
「悩む事などあるまい、簡単な話だろう」
そんなジュルターたちの苦悩を、何でもない事のように老人が言う。
「適当な事言ったら本気で血を吸うからね」
「足りぬのは血でなく頭だろうが」
「頼むから喧嘩を売るな、買うな。そんな事より聞かせてくれ、爺さん」
アウリウを抱きとめて宥め、老人に話の続きを促す。
老人は鬱陶しそうにこちらを一瞥すると、
一度大きく息を吐いてから話し始める。
「災いの花のままでいいだろう。
そのままで、災いを止める方法としてお前たちがやった方法を使えばいい。
お前は何も叶えるな、と心から願えば災いは起こらないという事だけを伝えて」
「詐欺じゃないの」
アウリウが評した通りだと思った。
花が何を叶えるか、名称からして普通は災いだと考えるだろう。
大半の者は何も叶えるなと、災いを起こすなと願ってくれるはずだ。
本当は願いを叶える花だと知る事もなく。
「他にいい方法もあるまい。既に災いの花の事は大陸中に伝わっている。
実物を知らぬまでも、聞いた事のある奴は余程の田舎村でなければいるはずだ。
今さら真実を言った所で誰も信じはせんが、
既存の情報に追記をするだけならば信じられる可能性はぐっと上がる」
「じゃあさ、イェシルと同族たちはずっとその汚名で呼ばれてろって言うの?
人が勝手に願った結果の災いなのに」
「それでいいと思うよ」
予想外の方向から返事が来たので、驚いて振り向くアウリウ。
返事をしたイェシルは平然としている。
「どう呼ばれるかなんてどうでもいいの。
その方が都合がいいなら、災いの花と呼ばれても構わない。
ジュルターが都合のいい時だけ黄色槍って名乗るのと同じでしょ?」
必要な時だけ異名を利用するジュルターのやり方を覚えてしまっていたらしい。
何とも言えず唸っていると、イェシルは更に続ける。
「アウリウも吸血鬼だって怖がらせる時に言ったりするじゃない。
人間たちに怖がってもらった方がいいんだよ、わたしたちも。
そうすれば利用しようとする人は減るよね」
「娘の方が随分と優秀だな?」
老人の煽りに対して言い返せず、妙な呻き声を出すアウリウ。
自分たちが教えてしまった事を応用しているだけに何も言えない。
そんなジュルターたちに笑顔を見せつつ、
イェシルは自分の樹皮を小さく剥ぎ、そこに指で文字を刻んだ。
それをアウリウに見せると、彼女は驚いてまじまじと樹皮を見つめる。
「これ、吸血鬼の古語で書いてあるじゃない!?
"汝、何事も願い叶えるなかれ"って」
「別にどんな言語でもいいんだから、これを使ったらいいかなって。
普通の人が知らない言葉だから信憑性や雰囲気が出せるし、
もしこれが吸血鬼の言語だと知ったら、吸血鬼が元凶みたいに思えるよね」
罪を擦り付ける罠まで仕込む周到さに、頭を抱えてしまった。
筋金入りのろくでなし。
アウリウが瞳を潤ませてジュルターを見てくるが、
泣きたいのはこっちも同じだ。
誰がこんな風に育てたのやら。
「それを伝えるにしても限界があるんだよね。
そもそも災いの花を知らない人も多いし……」
「責任を負う必要なんてある?
人間一人ができる事なんてたかが知れてるよ。
わたしは花だし、アウリウは吸血鬼だけど大差ないよね」
「あたしたちってそんなに冷酷非情な対応してたかなぁ!?」
他人にあまり関わらないようにしていたとはいえ、
そこまで極端に冷酷な対応を取ったつもりはないのだが。
旅の結果とも言えるイェシルがこんな思考をするのだから、
そうやってきたのだろう。
自分たちの言動を逐一採点されているようで居たたまれない。
そしてイェシルの言う事は正しい。三人でできる事など大した事ではない。
世界に影響を与えるような事ができるのは、才と運で最上位に位置する者だけ。
一介の傭兵二人とその娘に、世界中の他者を気にかけろと言われても無理だ。
だからこそ、それが目的になってくれるかもしれない。
そう思った瞬間、老人が口を開いた。
「それに関しては任せてもらおう。
お前たちと違い、オレには貴族時代の伝手がある。
災いの花の対処法を広めよう。
ここ以外に進むべき道を見出せない馬鹿弟子どもに、
役割を作る事もできるからな」
先手を取られた上、そちらの方が合理的で言い返す事もできそうにない。
ジュルターたちが返答に困っている間に、
イェシルはアウリウから樹皮をさっと掠め取って老人に渡す。
「お願いします」
「オレの命が続く限り、贖罪を果たす」
それだけを言うと老人は背を向け、歩き出す。
引き留めようとして言葉にならない声が漏れ、
息を吐いたのと変わらぬようなそれが聞こえたのか、
老人が笑いながら振り向いた。
してやったりと言わんばかりの陰険な笑顔で。
「これほど極上の生きる目的、お前たちなんぞにくれてやるものかよ。
精々もがき苦しめ、同輩」
最後に意趣返しができて清々したのか、
大声で笑いながら老人は去っていった。
その声は自棄の笑いにも、子供が泣き喚くそれにも似ていた。
普通なら使命に縛られぬ自由をくれたと喜ぶ所なのだろうが。
しかしジュルターからすれば、せっかく見出した生きる目的に足るものを
横合いから掻っ攫われたような形であり、とても喜ぶ気にはなれない。
遠ざかっていく老人と弟子たちの背が見えなくなるまで、
ただ無言で見続けるしかなかった。
しばらく呆然と立ち尽くしていたが、大きく深呼吸をして平静を取り戻す。
一歩を踏み出そうとして、どちらに進めばいいのか迷ってしまった。
とりあえずの目的が消え失せてしまったから。
アウリウに視線を送ろうとして思いとどまる。
彼女に全て押し付けて委ねるなど、格好が悪すぎる。
そんな奴はちょっとではなく本気で嫌いだろう。
どの方向でも構わないから、せめて一歩踏み出そうと足に力を入れた瞬間
イェシルが口を開いた。
「ジュルター、アウリウ、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「無茶なお願いじゃなかったらね」
ちらりとジュルターを見てくるアウリウ。
心当たりがあり過ぎて苦笑を返すしかなかった。
イェシルはくすくすと笑ってから、北の空を指差した。
「わたしが、わたしたちが生まれた場所が北の果てにあるの。
そこまでわたしを連れて行って」
驚きで言葉が出てこない。アウリウも同様らしく、口をぱくぱくさせている。
願いを叶える花そのものに関わる出生の場所。
当然そこにはあるはずだ。花の秘密を暴く物が全て。
「それを、知っていたのか?」
辛うじて口から出たのがそれだけ。
イェシルは首を振ろうとして取りやめ、考え込む仕草をしてから頷いた。
「ジュルターが願ったから知れたの。知ったのは花が咲いた時。
どんな場所なのかは分からないけど、位置だけは分かる」
イェシルの話を聞いて感じた事が一つ。
アウリウは不機嫌そうな顔をしており、ジュルターと同じ事を感じたようだ。
「来れるものなら辿り着いてみろ、か。
随分と馬鹿にしてくれた挑戦状じゃない」
なぜ花が生まれたのか、あるいは生み出されたのか。
花が災いを起こす理由を知りたいという願いが叶ったのなら、
当然出生の秘密も開示されるはずだ。
それなのに開示されたのは生まれた場所だけ。
全て秘密のままだというなら、ただの機密事項なのだと分かる。
しかし場所だけを開示したのだ。
まるで、ここまで来られたのなら真実を教えてやると言わんばかりに。
どんな超常の存在だか知らないが、人を馬鹿にするにも程がある。
「北の果てか。ある程度具体的には言えるか?」
「ずっと北。人の生活圏を超えて更に先。
危険も苦しい事もきっとたくさんある。辿り着く前に命が尽きるかもしれない。
無茶なお願いだから、聞き流してくれてもいいよ」
アウリウと顔を見合わせる。
愛しい吸血鬼は、花のような笑顔で頷いてくれた。
二人で同時に、イェシルの両手をそれぞれ取る。
「上等だ。生きる目的として上等に過ぎる。
願いを叶える花がなぜ生まれたのか、その秘密を解き明かす未踏の旅路。
英雄殿の目的よりも更に極上だ、他の奴に譲りたくない」
「黄色槍の伝説に特大の逸話を加えちゃおうか。
あたしたち三人でね」
手を繋いだまま歩き出す。
まずは東へ。老魔術師に事の顛末を話してから、北東の方向にある港へ。
そこから海を渡り北へ、北へ。
目的地がはっきりしているのなら踏み出す事への迷いはない。
生まれてからずっとそうしてきた。
「もしかして、俺の願いを叶えてくれたのか?
生きていてもいい理由が欲しいと言ったから」
「ご想像にお任せします」
笑顔ではぐらかしてくるイェシルの手をちょっとだけ強く握ってやった。
わざとらしく痛がるイェシル。絶対の防御は確かに消失しているようだ。
どちらなのか少しだけ考えて止めた。
北の果てにイェシルが作ってくれた理由がある。それだけで十分だ。
ただそれだけで、この足は前へと進んでいける。
「あれ? もしもあたしが人間になりたいって願ってたら、叶えてくれてたの?」
「できるけど、体中を弄るから死んじゃうんだよね……。
不死じゃなくなった後で死んじゃうから、つまり」
「あーうん、分かった。杭突き立てられるのと大差ないって事か」
願いを叶える方法が割と力業なのは魔術に寄らない花の限界なのかもしれない。
突然、落胆するアウリウと繋いでいる手をぶんぶんと振るイェシル。
「でも子供の体質改善ならできるよ!
人間と吸血鬼の子供でもほとんど人間と変わらない位にできるの。
お腹の中にいる時に、脇腹あたりから腕を突っ込んで弄る必要はあるけど」
「聞くだけで痛すぎるし何もかも洒落になってない!
吸血鬼の再生能力だって限界があるんだからね!?」
しばらく肉が食べられなくなりそうな説明に声を上げるアウリウ。
凄惨な死体はそれなりに見てきたが、
生きたままそんな拷問をされた者は流石に知らない。
イェシルはしゅんとしてしまい、肩を落とす。
「弟か妹が欲しいの……」
子供特有のわがままに頭を抱えてしまう。
木彫りの人形ではあるまいし、ぽんと作って渡せるものではない。
声を掛けようとして、また保留をするのかと一瞬躊躇った。
しかし思い直す。保留には違いないが、優先順位を付けただけだ。
「北の果てに辿り着いてからな」
「本当? いいの!?」
「できるかどうかは授かり物だから分からんが、頑張ってみるさ」
「とんでもなく痛い思いするのはあたしなんだけど!?
ジュルターが欲しいって言うなら、まあ、頑張ってもいいけど……」
照れて頭巾を深く被ってしまうアウリウ。
否定されなかったので、楽しみの一つとして胸の奥にしまっておく事にした。
ささやかかもしれないが、生きる目的の一つにはきっとなってくれる。
「行こうか。北の果てへ」
手を繋いだまま、三人で歩き出す。
果ての岬から、北の果てへ。
彼女たちが共にいる限り、死に安寧を求める事はない。
北の果てへは生きて辿り着く。
次の村か町で準備を整える時には、古びた外套を買い替えようと思った。
死装束として着続け色褪せた黄色の外套を捨て、
災いの花の秘密を解き明かす旅人"黄色槍"に相応しい、鮮やかな黄色の外套を。
*****
災いの花。
三十年の周期で突如として現れ、周辺に災厄をもたらした忌むべき花。
なぜ発生するのか、なぜ災厄をもたらすのかは一切が不明。
確かに災厄をもたらしてきたという事実だけがある。
最初に出現した時は村を滅ぼし、
次に出現した時は国の首都を滅ぼした。
首都が王族と共に消失した国は、周辺の国家に領土を切り取られ消滅した。
滅びた国の民たちは、復讐をするかのように災いの花を仕留める計画を立てた。
ある魔術師に二十年の月日を費やした結界の魔道具を作らせ、
当時名を轟かせていた十人の英雄たちを招集し、
治癒の大奇跡を使える唯一の聖女の助力も得て、万全の態勢で花を迎え撃った。
結果は紙一重の勝利。英雄は一人だけが生き残り、聖女は心を壊された。
それから三十年が経ち、花は四度この世界に現れた。
しかし、ただ一人生き残った英雄は三十年の月日の間に、
花の対処法を発見していた。
"汝、何事も願い叶えるなかれ"。
この意味を持った文言を唱える事により、災いの花は災厄を起こさなくなると。
それを証明するかのように、四度目の花は誰も傷つける事なく消えた。
五度目の花が現れた際、発見者である学者がこの文言を唱え、
花を無力化する事に成功している。
英雄が見出した文言は後世の研究により、
吸血鬼が使っていた古語だと判明しており、
災いの花は吸血鬼が作ったというのが現在の通説となっている。
吸血鬼が何を考えて花を作ったのかは憶測でしか語れないが、
効率の良い人間の間引きを行うためだったという説が有力である。
英雄の対処法が功を奏したのか、
花が百年の間ただ静かに咲いていただけだからなのかは分からないが、
六度目の花は現在まで現れていない。
百年の監視と研究をもってしても、花については未だに不明な点が多い。
分かっている事はどうでもいい事ばかり。
安物の香草に似た味がする、白い花が一年中咲いている、など。
実物が存在しない今となっては研究のしようがなく、
伝承や口伝を探り、残された資料を漁るしかないのが実情である。
花に関する情報が集積されていくうち、
ある奇妙な記述が研究者たちの目を引いた。
北方で歩く花を見た、というものだ。
旅人の男女に連れられ、まるで子供のようだったという歩き喋る花。
その絵姿が災いの花に酷似していると。
彼らは人の住まぬ未踏の地である北の果てへと向かい、その後の行方は不明。
黄色の外套を纏った武芸者、金色の長い髪をした少女のような女性。
そして頭に黄と金が混じったような色の花を咲かせた歩く植物。
彼らの存在を示す確たる物は、一切が発見されていない。
研究者たちは未踏の地への到達を試みているが、未だにそれは為されていない。
恐らくは技術の進歩を数世代先まで待たねばならないだろう。
彼らが何者だったのか。災いの花とは何なのか。
憶測でなら何とでも言えるが、それは本質を見失う愚行に過ぎない。
故にただ一言"分からない"とだけを記しておく。
*****
「……この子はもう作られちゃったからどうにもならないけど、
これ以降はもう生まれないよ、大丈夫」
「ここって割と快適だよね、いっその事住んじゃおうか」
「冗談じゃない、こんな何もない極寒地帯でか?
あの結界内と同じ事をするのは御免だ。
一番近くの村まで何とか辿り着くぞ」
「問題は、どっちから来たのかさえ分からない事かなぁ……」
「わたし方角なら分かるよ」
「なら十分だ。ここで少しだけ英気を養って、また歩いて行こう。
次の目的地へ」
完