第7話:果てに届ける(前編)
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「……着いちゃったねぇ」
色々な感情を混ぜた、深いため息をつくアウリウ。
断崖の側にある建造物と、
建物の数十倍近い大きさの巨大な半球としかいえない何か。
ここが目的地、果ての岬。
「二十年も経てば何か変わってるかなと思ったんだけど、そのままだ」
「どこに行けばいいか分かるか?」
「あの時と同じなら、建物に行けば誰かいるんじゃないかな」
建物に向かうが、自然と足が重くなる。
アウリウはちらちらと横目で何度もイェシルを見ている。
半年間、共に旅してきた仲間との別れの場所。
それも単に別れるのではない、死別という永遠の別れ。
ジュルターの槍によってその別れは果たされる。
それまでの時間を一呼吸でも伸ばしたいという、下らない足掻きだ。
「ジュルター、アウリウ、足が痛いの?」
「いや、少し考え事をしていただけさ」
心配そうにしているイェシルを軽く撫で、その手でアウリウの頭も撫でる。
アウリウは寂しそうに微笑んで、歩みの早さを元に戻した。
ジュルターも同じように足を早める。
あなたが決めた事だろうと、背を押された気がして。
建物に近づくと、熱気を伴った掛け声が聞こえてくる。
武芸の稽古だろう。懐かしい記憶が思い起こされた。
師範も兄弟弟子たちも、もう誰もいない。濁流にのまれて皆いなくなった。
師範に教わった技もほぼ我流に置き換わり、
彼らの存在を示すのは基礎の技だけ。
時の流れに寂しさを覚えながら建物の前に辿り着くと、
広場で十人ほどが稽古をしていた。
得物は長柄に分厚い曲剣をつけた物で、上段からの斬撃を主体とするようだ。
ふと、彼らの動きに特徴がある事に気付いた。
全員がそうなので、これは武芸を教える師範か流派自体の特徴。
「こんにちはー、責任者さん呼んでくれない?
お待ちかねのお届け物が到着しましたよ」
稽古中の弟子に話しかけていくアウリウ。
こちらを見てきたので、かるく会釈して背のイェシルを見せる。
弟子たちは稽古をすぐに止め、一人が慌てた様子で走って行く。
「責任者とは知り合いか?」
「知ってはいるけど、まだ生きてるかどうかは分からないかな。
前来た時の責任者は災いの花を討ったっていう英雄だったよ」
そういえば旅立ちの日、生き残った英雄と聖女に会った事があると言っていた。
ならば英雄の人となりにも詳しいのかもしれない。
「件の英雄はどんな人物なんだ?」
「妄執に取りつかれた狂人。
正直言うと、もう死んでて責任者変わっていてほしいと思ってる」
容赦のない酷評を即答され、アウリウをまじまじと見つめてしまう。
冗談である事を期待したが、こちらに向けられた顔は真剣そのものだった。
「災いの花を殺す事と聖女様の事しか頭にないからね。
もし英雄様が生きてたら、絶対に気を緩めないで」
「分かった」
実際に会ったアウリウが言うのだから間違いはないだろう。
弟子たちの武芸からもそれは分かる。
いつでも槍を手に取れるようにしておく。
走って行った一人が戻ってきたのは、それから随分と経ってからだった。
理由はすぐに分かった。隣にいる責任者と思わしき老人。
老人は右足が義肢で、弟子たちが振るっていた長柄を杖代わりに歩いていた。
彼の歩みに合わせれば時間も遅くなるだろう。
「うげぇ……」
今にも食べた物を戻しそうな声を出すアウリウ。
どうやら責任者は変わっていなかったらしい。
彼女がそんな声を出したくなる気持ちがよく分かる。
叩きつけるような殺気がむき出しになっている。
武芸者が初対面の相手に向けるような代物ではない。
世界中の生きとし生けるもの全てを憎む殺戮者でもこうはなるまい。
アウリウの酷評は的確に相手を射抜いていたようだ。
「災いの花を持ってきたというのは本当か」
「確認してくれ」
背の籠を地面に置く。老人とイェシルの目が合う。
瞬間、老人の殺気が明確な殺意へと変わった。
もはやジュルターの方を見ようともせず、
老人は虫でも払うように手を振ってくる。
「確かにあの時と同じ、災いの花だ。後はこちらでやっておく」
「俺も立ち会わせてもらいたい」
ジュルターの返答が余程気に入らなかったのか、
老人は殺意をこちらに向けてくる。
英雄と呼ばれた男の殺意。身震いするような物だと思っていたのだが、
恐怖らしい恐怖を感じる事はなかった。
「その必要がどこにある」
「約束した。俺が、果ての岬で災いの花を葬ると」
それを聞くや否や、老人は一気に踏み込んで長物を横薙ぎに振る。
こちらも踏み込んで逆手に持った槍の柄で刃を受け止め、
そのまま老人の顔面を拳で殴りつけた。
老人は受け身も取れず、吹き飛ぶように倒れる。
一瞬だけ呆気に取られていた弟子たちが、
師に何をされたかを理解して得物を向けてくる。
荒事になってしまったが仕方がないと槍を構え直した時、
大声がすぐ近くから響いた。
「やめてっ! 二人に手を出したら今ここで咲いてやるから!
災いの花が咲いたらどうなるか、当然知ってるでしょう!?」
イェシルの大声に激しく動揺する弟子たち。
ここにいる以上、災いの花がどういう物かは当然知っている。
花が喋る事を知っていたかどうかは分からないが、
行動を止めるには十分だったようだ。
「よく受けられたね、一応あれでも元英雄の一撃なのに」
「どこにどんな一撃が来ると分かっていれば、いくらでも対処できる。
とはいえ流石の技だ、肝が冷えた」
背中合わせになって細剣を構えているアウリウに答える。
いくら英雄と称された武芸者といっても人間。
人間の限界を超える早さで得物は振れない。
そして老人を観察していたが、左の袖が風で揺れていた。
老人は左腕も失っている。
右腕一本で振るわれる斬撃としては限界に近しい最速だったろうが、
老人の殺意と弟子たちの動きで、何処を狙ってくるかが丸わかりだったのだ。
武芸とさえ言えない、一刃で相手の首を落とす処刑人の技。
災いの花は、花が咲いた瞬間に首を落とせば枯れる。
そのためだけに突き詰めた、長柄の武器と技だ。
それだけを磨き上げてきたのだろう。
だからこそ、頭に血が上って咄嗟の時に選択する技はそれになる。
弟子たちが練習していた件の技には、一切の残心がなかった。
後先を考えず、ただ目の前の首を斬り落とすだけの技。
反撃を受ける事が考慮されていない。
自信の表れか、あるいは命を捨てる気なのか。
どちらでも構わない。隙だらけだったからぶん殴ったというだけ。
「殺す気で武器を振ってきたのだから反撃はさせてもらった。
そちらと敵対する気はない。ただ約束を果たしたいだけだ。
ご老人、貴方と俺の目的は一致していると思っていたんだが」
「半年かけてここまで連れてきたんだから、その位いいじゃないの。
邪魔するって言ってるんじゃないんだし。
ねえ、お爺ちゃん」
アウリウの煽るような声色に対し、老人の殺気は若干収まる。
仕方なしに矛を収めた、そんな印象。
完全に話すら通じないという訳でもないらしい。
起き上がろうとする老人を弟子が助け起こす。
いつもなら手を貸す所だが、
そんな事をしたら首に短剣でも刺さっているかもしれない。
それ位はやってくる。そう思わせる殺意が老人から噴き出ていた。
「……いいだろう。結界に入れてやる」
「し、師匠!? 結界にこんな連中を……!?」
口を出した弟子は最後まで喋る前に、
老人の裏拳を顔面に受けて地面を転がった。
いつもの事なのか、他の弟子たちは諦め顔でそれを見ている。
「どうせ自分の身柄を盾にそう言うつもりだったんだろう、災いの花」
「さあ、どうでしょう?」
殺意むき出しで睨みつけてくる老人相手に一歩も引かず、
平然と答えをはぐらかすイェシル。
その様子がアウリウにそっくりで、苦笑が漏れた。
「お前たちの名は」
「あたし無理矢理に名前言わされた事あるんだけど、あんたに」
アウリウの恨み節が聞こえていないかのように、老人はこちらの返答を待つ。
実際に聞こえていないというより、聞く気がないようだ。
ならば名乗ろう。外套の色から付けられた、面倒な異名と一緒に。
「"黄色槍"ジュルター」
「異名持ちの傭兵か、噂だけは聞いている。
黄色の外套を羽織って戦場を渡り歩く狂人だとな」
言葉自体は相変わらず刺々しいが、雰囲気がわずかに和らいだような気がした。
ジュルターをかつての自分の同類だとでも思ったのだろう。
大陸の果てのような場所でも、この異名は使えるらしい。
アウリウが片目を閉じ、自分の手柄のように満面の笑みを見せてくる。
頬をつまんで引っ張ってやろうかと思ってしまった。
「あたしはアウリウ。この子がイェシル」
老人はイェシルを一瞥し、吐き捨てる。
「それは災いの花だ。名前など要らん」
「あんたもお弟子さんたちも人間って名前だったの? 変わってるね」
「そちらがどう考えようが、俺たちにとってこの子はイェシルだ。
俺たちが呼ぶ事まで否定される謂れはない」
言い草に怒り、食ってかかったアウリウに続ける。
老人はジュルター、アウリウ、イェシルの順に睨みつけると、
拗ねたように背を向けてしまう。
「勝手にしろ。ついて来い、結界の入口はこっちだ」
数人の弟子たちと共にゆっくりと歩いていく老人。
アウリウと同時に肩をすくめ、籠を背負って少し後ろをついて行く。
長物の射程に入る気は起きない。
先ほどの攻防は相手の油断と、
こちらが弟子の稽古を見て手の内を知っていたからできただけだ。
同じ手は通じない。恐らく老人は攻め手を変えてくる。
右か左か、一瞬の迷いでさえ致命になる必殺の一刃。
二度受けたいとは思わない。
「アウリウ、無理矢理に名前を名乗らされたと言っていたが、何があったんだ?」
「果ての岬に観光に来たら、吸血鬼だってばれて捕まえられたの。
心が壊れちゃった聖女様を治せって強要されてね。
気持ちよく楽にしてやるしかできないって分かったら殴られて捨てられた。
殺されなかっただけ恩情だったかもね」
「……すまなかったな」
誰がどう考えても二度と立ち寄りたくない場所だ。
それなのにアウリウがここにいるのは、ジュルターが行くと言ったから。
思えば依頼を請ける最初の時から、彼女は岬に行くのを止めたがっていた。
そんな事情もあったとは。謝るしかできない。
「じゃあ今度は、あたしの行きたい所に付き合ってね」
「それが何処かにもよるな」
「ちょっと、そこは嘘でも頷く所でしょ?」
「すまんが今は槍を持っているんだ」
構えてこそいないが手に持ったままの槍、その石突を細剣の柄で小突かれた。
背のイェシルがくすくすと笑う。すっかり日常になった、いつもの事。
これからは背の笑い声がなくなる。目的地に辿り着いたのだから。
老人の遅い歩みは、感傷に浸る時間を十分に用意してくれた。
建物を通り過ぎ、謎の半球体に触れそうなくらい近い場所までやって来た。
遠目では黒い石に見えた球体の壁は、
黒い水が固い泡のようになっているようだった。
入口のような物は見当たらないが、近くに人が待機できる小屋がある。
使われている形跡があり、ここが出入り口で間違いないようだ。
老人が球体の壁に手をかざす。その中指には宝石のついた指輪。
指輪が淡い光を放つと、一部だけ水が引くようにして壁に穴が開いた。
老人と弟子たちは球体の中へと入っていく。
ジュルターたちの方を見ようともしない。
入るのが恐ろしければ去れと言わんばかりに。
「アウリウ、中に入った事はあるか?」
「あるけど、説明するのは難しいかな。説明の間に入口が閉じちゃう」
そう言ってアウリウは頭巾を外す。
太陽の光に照らされて輝く金の髪。
日光に身を焼かれる女吸血鬼は、真っ直ぐに太陽を指差して言った。
「ちゃんと見ておいた方がいいよ。しばらくは見られなくなるからね」
空と隣のどちらを見ようか迷ったが、素直に空を見る事にした。
こういう時の彼女の助言は外れた事がないからだ。
「いつもそうやって素直だったらいいのに」
優しく笑うアウリウの方を向きたい気持ちを、意地を張って押さえ込んだ。
少しの間だけ日の光を浴び、球体の中へ入る。
壁はジュルターたちが入ってしばらくしたら、音もなく閉じた。
太陽が見られなくなるというので中は暗いと思っていたが、
淡い光を放つ何かが浮いている。
その光源は夜空を照らす月の光に似ていたが、
天井に反射する光が自然の光ではない事を思い出させる。
「あちち、ちょっと焼けちゃったか」
アウリウを見ると、額や頬、鼻先が焼けただれている。
既に再生は始まっているようだが、なぜあんな事をしたのかは気になった。
「どうして頭巾を外したんだ」
「わずかな時間でも、あなたたちと一緒でいたかったの。
日の出と共に目覚めるジュルターと、日の光を浴びて育つイェシルみたいに。
偽物の太陽でしかできないのは寂しいから」
浮かぶ光源を見つめるアウリウ。
偽物と称されたそれは、見ていても目を焼くような激しい光ではない。
その所為か周辺は薄暗く、夜明け直前の時間帯のような明るさだった。
朝になる事を拒んでいる。そんな印象を受けた。
アウリウはそれ以上何も言わなかったが、理由は分かった。
三人で見る最後の太陽だからだ。
「あまり傷付く事はしてほしくない」
「今回だけ特別だよ、あたしだって痛い思いはしたくないもの」
イェシルの蕾を撫でるアウリウ。
誰が言っても聞きそうにないと思うのは、似た者同士だからかも知れない。
「あの爺さんたちがどこに行ったのか分かるか?」
「その辺で待ってると思うよ。
英雄様の魔道具で開閉してるから」
そう言われて目を凝らすと、少し離れた場所で老人たちが待っていた。
弟子たちは仏頂面でこちらを睨んでいるが、
老人は先ほどと違って感情の読めない顔でたたずんでいる。
「こっちだ、ついて来い」
老人たちはゆっくりと歩いていく。
周囲には植物らしき物も生えておらず、
殺風景な荒野を歩いているように感じる。
空気の流れを感じるので密閉空間ではないらしいが、
箱の中に閉じ込められたような気分になる場所だ。
歩いていても時間の感覚が分からなくなるような場所をどれだけ進んだか、
頑丈そうな小屋を通り過ぎる。
人の気配を感じたので窓を覗いてみようとしたら、老人に止められた。
「そいつを担いだまま小屋に近づくな。
聖女様が療養中だ、災いの花なんぞ見せるわけにはいかん」
災いの花のせいで心を壊した聖女にイェシルを見せたら、
発狂死してもおかしくない。
中の様子が気にはなったが、建物には近寄らないようにした。
「二十五年経ってもあのままかぁ……」
「どんな様子だったんだ?」
「無理矢理生かされてるだけの何か。死なせてあげた方が幸せだったろうにね」
対して興味もなさそうに淡々と言われ、それもそうだと思った。
この結界とやらは老魔術師が作った魔道具が作っている物で、
聖女とは関係がない。
ジュルターたちにとっては会う必要もない人物、確かにどうでもいい。
老人たちが三十年をかけて治せなかった心を、
会ったばかりの他人がどうこうできるはずもない。
しかし、あの老人は聖女の姿をジュルターたちに見せるだろう。
そんな確信があった。
建物から離れてしばらくすると、
円筒状の低い壁に囲まれた闘技場のような場所に着いた。
中心に何かを置く台座がぽつんと配置され、他には何もない殺風景な場所。
何のための場所なのかは、すぐに思い至った。
「処刑場か」
「花を人のように言うな。駆除だ」
「随分と大袈裟な草むしりだな」
老人が一々食ってかかってくるので、
売り言葉に買い言葉で棘のある言い方になってしまう。
半年間共に旅をした仲間を貶してくるのだから尚の事。
「その台座に花を植えろ」
植えろという言い方に疑問を覚えながらも台座に近づくと、意味が分かる。
台座は固い土が盛られた植木鉢のようになっていた。
槍で固い土を掘り、イェシルの根を穴に入れて土を被せる。
花にしろ野菜にしろ、普通は大きく育つように祈りながらやる行為。
数日後に手折るために植えたくはなかったなと苦笑する。
イェシルを台座に植え終わり、少し離れる。
殺風景な処刑場の中心にある台座に植えられた人型の植物。
珍妙な絵面のはずだが、なぜか神秘的に見えた。
老人はイェシルの側に近づき、その首に手を掛ける。
「花よ、何時に咲く」
「今咲いちゃうね。ぽーん」
気の抜けそうな掛け声と同時に、老人の体が動く。
得物を抜き様、必殺の横薙ぎをイェシルの首に叩きつける。
しかし刃はイェシルの身を傷つける事能わず、甲高い金属音を放ち弾かれた。
老人は反動で得物を取り落とし、
弟子たちは驚いて腰を抜かしている者までいる。
ジュルターとアウリウは一切動いていないし、驚く事もなかった。
「悪い冗談は止めなさい」
「だってこのお爺ちゃんが乱暴にするから」
意趣返しにしては強烈過ぎる冗談に、
老人は恐ろしい形相でイェシルを睨んでいる。
「見ての通り、丁重に扱わないと機嫌を損ねるぞ。
そもそも自分でいつ咲くかなんて分かるのか?」
「融通は利くけど、五日後からならいつでも」
イェシルの答えを聞き、老人はジュルターたちに背を向ける。
顔も見たくないという態度かもしれない。
「ならば五日後に駆除する。ついて来い、寝床に案内する」
「水と食う物だけ貰えればいい。
イェシルをここから動かさないなら、ここで寝るつもりだ」
「今まで散々野宿してきたからね、雨風や獣の心配が要らないなら快適だよ」
「……勝手にしろ。食い物と水は先ほど通り過ぎた小屋まで取りに来い」
老人と弟子たちはそれ以上何も言わず、処刑場を立ち去ってしまう。
ジュルターたちだけを残して不用心ではないかと考えたが、
ここが結界内という密閉空間である事を思いだした。
老人の指輪がなければ外に出る方法自体がない。
イェシルを逃がす気ならそもそも果ての岬になど来ない。
ジュルターたちが何もできないし、する気もないと知っているのだ。
「ちょっと喧嘩腰になっちゃったから、夜にでも襲撃してきたりして」
もちろんその可能性もあり、弟子たちなら提案しているかもしれない。
そんな事を喋った者は拳を叩き込まれているだろうが。
「俺たちを排除する気はないだろうさ。
あの爺さんの目的は災いの花を葬る事、それだけを考えて生きてきた男だ。
いざという時の戦力になる俺たちを排除はしないし、できない。
その気なら結界の中に入れはしなかったはずだ」
「じゃあ襲撃してきたらあたしの勝ちね。
負けたら何でも一つ言う事を聞くって事で」
「俺が素直に言う事を聞くと思うか?」
「あり得ないね、うん」
イェシルも含めて三人で笑う。
敵対的な連中と寝床を共にするより、
いつも通りこうやって笑っていた方がいい。
イェシルの側に毛布を敷き、寝転がる。
処刑場には天井がなく、光源が淡い光でジュルターたちを照らす。
ずっとあのままだとすると、時間の感覚が狂いそうだ。
じっと光源を眺めていると、アウリウが隣に寝転んできた。
「あれ、外が夜になったら光が小さくなるんだよ」
「随分と便利だな」
「ずっと明るかったり暗かったりしたら、人の心は保たないからね」
あえて人間ではなく人と言ったのは、吸血鬼も含んでいるからだろう。
朝と夜というものはそれほど重要なのだ。
それを偽物で補ってまで作られた、災いの花を封じるためだけの結界。
その中に今、自分がいる。奇妙な感覚だった。
しばらく下らない話をしながら時間を潰していると、光が小さくなっていく。
星月夜のような丁度いい暗さ。
屋外だが心地よく眠れそうだ。自分たち三人だけが結界にいるのなら。
「見張りはどっちからにする?」
「先に頼む。適当な所で起こしてくれ」
襲撃はないと思ってはいるが、それは老人の個人的な考えのはず。
弟子たちが暴走して襲撃してこないとも限らない。
「見張りならわたしがするけど?」
「二人とも寝起きだと対処できないからね、気持ちだけ貰っておくよ」
結界に入っている弟子たちは全部で四人。
全員が襲い掛かってくる最悪を想定するなら、二人とも寝ていては厳しい。
即応できる一人を置いておくのが常道だ。
「……わたしも動けたらよかったのにな」
寂しそうに呟くイェシル。
イェシルはまるで人間のような姿をしているが、腕と足に当たる部分はない。
そもそも自発的に動く機能がほぼない。
「荒事は俺たちがやるから、今と変わらないだろう」
「そうじゃなくて……」
「手を繋いで、一緒に歩きたいってだけだよね」
「うん」
続きを引き継いだアウリウに同意するイェシル。
「今も似たようなものだと思うが、ほら」
そう言ってイェシルを撫でるが、二人して不満げな顔を向けてくる。
「違うんだよねぇ……」
まったく同時に同じ事を言うものだから、吹き出してしまい更に睨まれた。
吸血鬼と植物だというのに、母娘のようによく似ている。
飼っている動物は主人に似てくるらしいが、花でも同じなのだろうか。
「もしも、わたしがそうしたいって願ったら、一緒にお願いしてくれる?」
微笑むイェシルをしっかりと見つめ、答える。
「それはできない」
自分の口から出た言葉に対しての、酷い嫌悪感で顔をしかめた。
花の少女の生を否定し、殺すためにここまで連れてきた。
安易に頷き誤魔化す事は、今までの旅路全てを否定する事だ。
正直に言う以外の選択肢はなかった。
だが、叶わぬ望みだとしてもこのくらいの追加は許されるはずだ。
「願っていいのなら、そうしたかった」
「ジュルターなら、そう言ってくれると思ってたよ」
微笑んだままのイェシル。
視線を逸らさずにそれを見つめる。
アウリウの寂しそうな呟きが、やけにはっきりと聞こえた。
「……そんな所ばっかり似なくてもいいのに」
***
天井の光源が徐々に明るくなってくる。
朝日が昇る場面と比較すると、違和感が激しい。
襲撃はなく、夜は静寂そのものだった。
ここまで周辺から音がしない野営は初めての経験だ。
焚火もなく、眠るアウリウを起こさないようにじっと座っているだけ。
焚火があれば揺らめく火の動きで気を紛らす事もできたのだが。
立ち上がって背を伸ばし、固まった体をほぐす。
いつもは周辺が明るくなったらすぐ目覚めるアウリウだが、
まだ寝息を立てている。
光源が弱いので辺りが薄暗く、音もないので寝入ってしまっているのだろう。
太陽の光ではないので肌が焼ける心配がないのも一因か。
そのまま眠らせてやりたいが、水と食料を貰いに行く必要があるので
肩に手を置き、小さな体を揺する。
目を覚ましたアウリウは、寝ぼけ眼をこすりながら気の抜ける声で言ってきた。
「襲撃なし? じゃあ何でも言う事聞いてあげるよ?」
「なら身支度を整えてくれ。小屋に行く」
「分かった、ちょっと待ってて」
女の身支度は長いというが、アウリウの身支度は非常に早い。
手櫛で髪を整えるだけで化粧もしないのですぐに終わる。
それでもいつも通りの美貌を保つ。世の女性たちなら羨ましがるだろう。
「イェシル、ここで待っていてくれ。しばらくしたら戻る」
「多分だけど聖女様に会う事になると思うから、少し時間かかるかも」
「大丈夫、わたし何されても無敵だから」
自慢げなイェシルの言い回しが可笑しくて、二人で笑ってしまった。
景色が全く変わらず方向感覚が狂いそうになるが、何とか小屋に辿り着いた。
小屋の近くでは弟子たちが長物を振っている。
結界の外で見た技とは違う、長物を扱う基本的な動き。
処刑技だけを教えている訳ではなかったのだな、と当たり前の事を思った。
あまりに厳しくても教えを乞うに値する師なのだろう、彼らにとっては。
「おはようございまーす。水と食料ちょうだいな」
呑気に声を掛けるアウリウに、一斉に向けられる敵意の目線。
師匠をぶん殴った連中だという理由だけではないと感じる。
恐らくだが、ここにいる四人の弟子たちは高弟。
結界に入る事を許されているのは数少ない選りすぐりなのだろう。
だというのに、いきなり来た旅人が入る事を許された。
彼らの矜持は大いに傷付いたはずだ。
自分たちが積み上げ、為してきた事を否定する者たち。
仲良くなれるはずもない。
視線を受け流しつつ小屋を眺めていると、中から老人が出てくる。
老人は弟子たちを一瞥し、顎をしゃくる。
弟子の一人が見るからに渋々といった感じで、
小屋に置かれていた水袋と保存食を渡してきた。
「中に入れ。聖女様に面通しをする」
「人の顔なんて見てもいないはずだけど。二十五年経って少しは変わったの?」
アウリウの予想通り、聖女に会わせようとしてくる老人。
一度会った事のあるというアウリウは馬鹿にするように肩をすくめる。
老人は少しの時間だけ顎に手を当て、小さく頷いた。
「二十五年前……そうか。お前、役立たずの吸血鬼か」
「覚えてたんだ。寝て起きたら忘れてると思ってた」
吸血鬼という単語を聞いて弟子たちがざわめく。
老人が一睨みするとすぐに姿勢を正し、一言も発さなくなる。
老人に連れられ、小屋の中へ入る。
中は外観通りこじんまりとした古屋で、
天井から垂らされたぼろ布が部屋の中心を区切っている。
ぼろ布の奥に入っていく老人について行くと、
寝具で寝ている人らしきものがいた。
その隣には年配の女性がいて、ジュルターたちに一礼をした。
「……随分と老けちゃったねぇ」
寝ている人物にしみじみと懐かしむような声を掛けるアウリウ。
だとすればこの人物が聖女なのだろう。
わずかに胸が上下し、呼吸はしているので生きてはいる。
骨と皮だけのやせ細った体、微かに開いている目は虚ろで何も映していない。
顔は齢百を超えた老婆のように皺だらけで、ぽかんと開けた口は空洞のよう。
身じろぎ一つせずに寝ているその姿は、死体と見紛うほど。
人間を十日ほど天日干しにしたら丁度こんな感じになるかもしれない。
「聖女様、今一度我らの使命が果たされる時が来ました」
老人は膝をつき、臣下のように礼をする。
ジュルターとアウリウは軽く頭を下げた。
聖女は一切の反応を示さない。こちらの声が聞こえているとも思えない。
無駄な時間だ。
「ご老人、俺たちのような旅人が長居しては聖女の身に差し障るはずだ。
次からは水と食料だけ受け取りに来る」
「よく見ておけ、彼女の姿を」
こちらも人の声など聞こえていないのか、老人はそう言って顔を上げる。
仕方がないのでもう一度見てみたが、やはり人間の天日干しだ。
「お前たちが子のように扱うあれが、聖女様をこうした。
目に焼き付けておけ、この痛ましい姿を。
二度とこのような事を起こさぬために、結界と我々は在るのだ」
悲壮なはずの声が右から左へと流れていく。
一応、顔だけは神妙な表情を作っておいた。
友人の死体を見る事も珍しくない傭兵が、
生かされているだけな屍の姿など覚えておくはずがないだろうに。
小屋を出て、処刑場へ戻る道を歩く。
景色に変化がなく方角はさっぱり分からないが、
道はあるのでそこを歩けば辿り着く。
老人も弟子たちも、一切言葉を発する事はなかった。
自分たちの言いたい事だけをぶつけてくる。会話をする価値のない類だ。
「あれは生きているんだよな?」
隣のアウリウに聞いてみると、大袈裟に肩をすくめて返してきた。
「水と流動食を無理矢理流し込まれて、一日中ずっとあの調子。
多分だけど三十年ずっと。それを生きているって言うなら、そうかな」
「意外だな、飲み食いはするのか」
「ん? そう言われればそうだね。噛まないけど飲み込みはしてた」
飲み食いをするという事は生存欲求があるという事だが、
あの姿を見る限りとてもそうは見えない。
死にたくても死なせてもらえないので諦めたのかもしれない。
「あの生に意味があると思う?」
「ない」
断言する。単に死んでいないだけの生に意味などない。
あれではイェシルを見た所で問題はなかったろう。見てもいないのだから。
結界の維持に聖女が必要なのかとも考えたが、
魔道具を作った老魔術師は一切そんな事を言わなかった。
そもそも結界の操作に魔力は必要ないとさえ言っていたはずだ。
つまり聖女は、必要もないのに結界の中で生かされている。
「何が何でも生きなければならない。生かさなければならない。
本人が生を望んでいないのにそれを強要するのは、残酷だ」
重傷を負ってもう助からない者を介錯したのは一度や二度ではない。
止めを刺してくれと乞われ、その通りに命を奪った事もある。
体が動かなくなったら死を選ぶ。
程度はどうあれ、武芸者であれば覚悟して得物を振るっていると思う。
武芸者の基準を一般人に当てはめるべきではないと分かってはいるが。
「イェシルはどうなんだろうね。
生を望んでいる者に死を強要するのは残酷じゃないの?」
突然聞いてきた生の意味は、この話題に繋げる意図があったらしい。
あえて目を伏せていたのに、まんまとアウリウに誘導されてしまった。
「成し遂げてと言われた」
「あたしたちがそう望んだからだよ」
逃げを許さない冷ややかな目線がこちらを射抜く。
彼女は自分たちと言ってはいるが、願ったのはジュルターだ。
アウリウはそんな事を望んでいない。
ただジュルターを放っておけなかっただけ。
だから、この後に続くのは彼女の本音。
「三人で一緒に、もっと色んな所を旅したかったな。
色々な物を見せてあげたかった」
同じく人間でない異種に同情をしつつも、
長い年月を経た傭兵らしい乾いた諦めの言葉。
叶わぬ願いの方が遥かに多いと知っているから諦められる。
そして思い出として心の奥にしまい込み、忘れる事ができる。
だとするなら、
二十五年しか生きていない若造がその境地に至れないのも仕方がない。
旅路の中で考えていた。これからも三人で旅するために必要な物は何か。
今までどうするか悩んでいたが、結界と英雄のなれの果てを見て決心した。
「災いの花はなぜ災いを起こすのか、理由を聞いた事があるか?」
「……推測でしかない物ならいくつか。明確な証拠がある説はなかったはず」
突然の質問に一瞬だけ面食らっていたが、
すぐに意図を理解して答えてくれるアウリウ。
人間への憎しみ、異界からの侵略、神の裁き、自然の怒り。
数多の説はどれも証拠がなく、推論に推論を重ねた仮説でしかないと。
「なら、本人に聞くしかない」
「イェシルも分からないって言ってたでしょ?」
「花が咲いた後なら分かる。
なぜ災いを起こすのか、起こさなければならないのか、イェシルは知るからだ。
花が起こした災いには、誰の物かは分からないが意思を感じるんだ」
村を滅ぼした。一国を滅ぼした。英雄たち九人を殺し、聖女の心を壊した。
無意識に起こす災厄にしては、意思をもって行動しているように感じる。
特に三十年前、英雄たちを殺した時だ。
意思なく殺戮を行うだけなら、聖女を生かしておく理由がない。
「これは英雄殿に話を聞いた方がいいな。
戦場の様子はどうだったのか、聖女は守られていたのか、他にも色々と」
「そっか、状況次第じゃ聖女だけ無傷で生きてるのがおかしくなる。
心を壊したって事は、その場にいた可能性が高いもんね」
小さく頷いた後、期待に満ちた目を向けてくるアウリウ。
既にジュルターの意図は伝わったようだが、あえて明言する。
「俺は知りたい。災いの花がなぜ災いを起こすのか、その理由を。
理由次第では止める方法があるかもしれない。
それが実行可能なものだったのなら、イェシルを殺す必要はないんだからな。
願っていいのなら、叶えるために力を尽くすだけだ」
「そう言ってくれるから、あなたの事好きだよ」
随分と直球な事を言いながら、アウリウは花のような笑顔を見せる。
「止めようがないのなら、俺は躊躇せず処刑人の役目を全うするがな」
「それを今言っちゃう所はちょっと嫌い」
「差し引いて好きの方が上なら十分だ」
頬を膨らませながら脇腹を指でつついてくるアウリウ。
こちらは膨らんでいる頬をつついてやった。
***
次の日、小屋に水と食料を受け取りに行くと、
相変わらず弟子たちが稽古をしていた。
師である老人は小屋にもたれかかって目を閉じ、弟子たちに見向きもしない。
弟子たちもジュルターたちを無視しており、袋は小屋の近くに置かれていた。
袋を取ると、老人が目を開きジュルターを呼び止めてきた。
「待て。今日は外から荷が届く、お前たちが小屋まで運べ」
老人の言葉に、弟子たちから向けられる敵意の量が跳ね上がる。
ただの荷物運びでしかないが、彼らにとっては自分たちだけに与えられた特権。
それを奪われていい気分はしないだろう。
ジュルターたちにやらせる理由は分からないが、丁度いい。
「なら、荷物運びのついでに聞かせてくれ。
三十年前の災いの花について」
探るようなどうでもいい話題はいらない。真っ向から行く。
弟子たちは敵意を通り越して、殺気立ってこちらを睨みつけてくる。
「話す必要が何処にある」
「相手の事を知ろうとしないのは愚の極みだ、勝利のために話してほしい」
「初見の相手と戦う恐ろしさはよく知ってるでしょ?」
老人はしばらく考え込み、得物を杖として歩き出す。
「いいだろう。歩きながら話してやる」
弟子たちの敵意を背に、老人の後について行く。
老人は弟子を弟子だと思っていないのかもしれない。
自分の行動を彼らがどのように思うか、一切考慮されていない。
ジュルターに対する敵意が殺意に変わったような気がした。
「すぐに外に繋がる場所に着く。お前たちが聞きたい事を話すぞ」
外部に出る場所は、小屋からそこまで離れてはいなかったらしい。
相変わらず口数は少ないが、こちらから質問をする事で情報を引き出していく。
そして感情や主観の入り混じった情報を整理する。
災いの花と対峙したのは英雄十人と聖女。
英雄十人が円を描くように花を囲み、聖女は少し離れた場所にいた。
聖女が戦闘の場にいた理由は治癒魔術を使うため。
赤黒い花が咲いたのを確認して、十人一斉に仕掛けた。
次の瞬間、植物のつるのような物が彼らを細切れの肉塊に変えていったという。
聖女の治癒魔術は広範囲を一気に癒す最高位の物だったらしいが、
癒せたのは片腕と片足を切断され、
一人辛うじて生き残った者の止血程度だった。
花はつるを聖女に伸ばし、その身を器用に掴んで目の前まで引き寄せる。
何があったのかは分からないが、聖女は狂ったように悲鳴を上げ、気を失った。
興味がなくなったかのように聖女を投げ捨てる災いの花。
一瞬の隙をついて得物を振るい、花ごと首を跳ね飛ばした。
大まかに必要な情報を纏めると、こんな感じになるか。
この話はジュルターの仮説を補強してくれた。
やはり明確な意思の元で行動している。
英雄たちを九人まで殺しておいて、一人だけ手加減したように生かし。
聖女には傷さえ付けず、ただ心を壊すだけに留め。
老人は一瞬の隙と言っていたが、周囲の十人を一瞬で迎撃できるような化物が
片腕と片足を失った者の攻撃を無防備に通すだろうか。
「せっかく話してくれたのになんだけど、都合良すぎないかな。
まるで台本のあるお芝居みたいじゃない」
アウリウが思っていた事をそのまま言ってくれた。
老人が自分の戦果を誇張していないと仮定するなら、
あまりにも都合が良すぎる。
その指摘に老人は怒るかと思ったが、
意外にも感情を見せず、ゆっくりと首を振った。
「黄色槍、お前も武芸者ならば分かるはずだ。
武の高みを求める者が、名声や栄誉を欲して腕と足を捨てはせんと」
「まあ、そうだな」
武を極めようとするのなら、可能な限り五体満足でいたい。
片腕を失えばそちら側に巨大な死角ができる。
片足を失えば歩く早さは確実に落ちる。
八百長試合でわざと四肢を失う武芸者は、
武を捨てて生きようとする者くらいだろう。
ジュルターは、自分で体を動かせなくなったなら死を選ぶと決めている。
多くの武芸者たちも同じように考えているはずだ。
当然、この老人も。
「えっと、つまり?」
「彼は台本を書いていない、という事だ」
ジュルターの返答を聞いたアウリウは目を細め、頬に手を当てて思考に沈む。
その場にいた老人以外の者は死ぬか、心を壊している。話を聞きようがない。
誰かが書いた筋書き通りだったのか、あまりに都合良く見えるだけの偶然か。
これ以上は情報もなく、推察するしかない。
「そもそも、災いの花を仕留めたからといって栄誉など得られん。
何もかも失っただけだ」
老人はその自嘲を最後に、話を打ち切ってしまった。
誰も言葉を発さずにただ歩く時間は、思考に没頭するには丁度良かった。
結界の内壁に辿り着くと、老人が指輪をかざして壁を開く。
開いた穴から、外にいた弟子たちによって運び込まれる荷物。
荷物と共に、ぼろを着ている弟子たちとは違う、
身なりの良い男が一人結界に入ってきた。
老人や弟子たちが何も言わないという事は、それが許されている特例の人物。
弟子たちが荷物を置いて結界を出て行った後も、男はその場に残り続けた。
「伯父上、今日は最後の報告に参りました。
父の死より五年。遺言に従い続けてきた援助を打ち切らせてもらいます」
「ふん、そうか」
男は老人の甥らしく、援助打ち切りの言葉に老人は鼻を鳴らす。
その様子を見て、アウリウが男に話しかける。
「もしかして、このお爺ちゃん貴い血筋って事?」
「三十年前に家を父に任せ、それきりだが」
恨み節のような言い方に、男が心の底に抱えている不満の大きさが知れた。
果ての岬の近くには産業になりそうな物は何もない。
老人や弟子たちの生活費、聖女の介護費用、必要な物資の輸送など、
どこから金が出ているのかとは思っていた。
何の事はない、貴族であった老人の家が自腹を切っていただけ。
そして、その金もついに尽きたという事だろう。
「何もない岬に多額の金をつぎ込んで、
こんな所にわざわざ運ばれるはずもない花を三十年も待つ。
貴方は時間と労力を、私たち家族は金を無意味に失ったという訳ですね」
男は嫌味として言ったのだろうが、
老人はその言葉を待っていたとばかりに笑い出す。
「災いの花は今ここにある。こいつらが届けに来た。
オレの三十年は無意味ではなかったぞ」
「そんな、まさか……」
驚きで目を丸くしている男に頷きを返す。老人の言った事は真実だと。
弟子ではなくジュルターたちを伴った理由が分かった。
甥に証明させるためだ。
「おじさんの気持ちとしては、おめでとうって言うのはおかしいよね」
「……聡いお嬢さんだ。ああ、その通りだよ。
私は伯父上が無意味に時間を浪費したと嘲笑いに来たつもりだったのだから」
彼の気持ちは分からなくもない。
どこでどのように発生するのか不明、見つかるかどうかも不明、
首尾よく見つかったとして岬まで運んできてくれるかも不明。
そんな物のために三十年間、湯水のように金をつぎ込んできたとなれば、
無駄に終わった無様な姿を見て溜飲を下げたくもなる。
しかし老人の準備か執念か、あるいは両方がもたらした奇跡なのか。
災いの花は今まさに、結界の中で処刑を待っている。
男は一度大きく息を吐くと、優雅に一礼をする。
賞賛や謝罪の礼ではない、別れの礼を。
「それでは伯父上、三十年越しの宿願を果たしてください。
どちらにせよ援助は打ち切らせていただきます。ご容赦を」
「好きにしろ」
老人は虫でも払うかのように手を振る。
男はそれを見ても表情を一切崩さなかった。
「謝った方がいいだろうか」
「私に嫌がらせをしたくて運んだ訳ではないだろう?
詫びる必要はどこにもないよ。
気に病む必要はない、忘れたまえ。伯父と甥の下らない確執さ」
男は気落ちしているような、それでいて解放されたような笑みを見せる。
果ての岬の維持費は、彼にとって悩みの種だったのだろう。
散々迷惑を掛けてくれた伯父への意趣返しで嘲笑いに来たらこの状況。
しかし、今日で悩みは全て終わる。そんな複雑な感情を思わせる笑顔だった。
「弟はどうなった?」
「失意の中で亡くなりましたよ。
意味の分からない場所に莫大な金をつぎ込んでいると糾弾され続けて。
それさえなければ名君として生涯を終えられたというのに」
それ以上は何も言わず、男は足早に結界の外へと出て行った。
老人が指輪をかざす。結界の壁は元通りに閉じられた。
「甥っ子に、一言くらい謝ってもよかったんじゃないの」
「あいつをこれ以上惨めにしてたまるか。
傲慢不遜で狂った穀潰し、
そんなオレを憎めばあいつは誇りある貴族でいられる」
老人から返ってきた言葉が予想外だったようで、
アウリウは目をぱちくりさせている。
確かに老人が謝罪した所で何の意味もなく、ただ老人の気が晴れるだけ。
災いの花が現れなかったのなら謝罪に意味があったが、花はここにある。
その状態で謝られた所で、余計惨めな気分になるだけだ。
だからあえて何も言わなかったのだろう。甥のために。
「ふん、下らん事を言った。忘れろ」
老人は背を向けて歩き出す。
片腕と片足で荷物が持てるはずがないので、
当然ジュルターたちが全て持つ事になる。
三箱あるうちの一つをアウリウが担ぐが、かなり辛そうだ。
残り二つをまとめて抱えたが、足腰に力を入れていないと倒れそうな重さ。
「足腰が砕けそう……」
「砕けても元に戻る不死者が下らん事を言うな」
「砕けたら痛いし、再生するのだって一苦労なんだからね!」
「憎まれ口が叩けるのなら問題なかろう、さっさと歩け」
老人にあしらわれ、珍妙な呻き声を上げながら歩くアウリウ。
こんな会話もできるのだなと、老人への評価を改めた。
***
処刑場でやる事もないので横になっていると、光が小さくなっていく。
「今日は一緒に寝ちゃう?」
「それは無理だ、我慢も限界になる」
隣で横になっているアウリウに肩をすくめて返す。
弟子たちはそろそろ我慢の限界を超えてしまうはずだ。
自分たちだけに都合のいい理由を作り出し、
ジュルターとアウリウを排除しようと動く。
それを正当防衛として叩きのめす。
はっきり言って、連中は邪魔だ。
いつ暴発するか分からない爆弾を放っておきたくはない。
それこそ花が咲く時に先走りをされたり、暴走されては迷惑極まりない。
こちらの目的のためにも襲ってきてくれた方が都合がいいが、どうなるか。
もし理性の方が上回るのならそれでいい。
それだけの理性を持ちわせているのなら、花が咲く時でも邪魔はしないはず。
しかし同じ武芸者未満として、連中がやる事は何となく分かるのだ。
ここまで虚仮にされて黙ってはいないと。
確固たる信念がなく、武のみを寄る辺にしていれば尚の事。
他愛もない話をしていると、周辺に感じる複数の気配。
アウリウとイェシルに目配せをして、毛布を少し移動させた。
「いつも通り、先に眠らせてもらうぞ」
「寝顔に悪戯しちゃおうかなー」
愛らしい吸血鬼のかわいい悪戯なら構わないが、
周辺で殺気を隠そうともしていない連中の悪戯は御免被る。
槍を近くに置き、横になってはいるがすぐに立ち上がれるような姿勢を作る。
殺気が膨れ上がる。隙を作ってやればすぐに襲ってくるだろう。
どのように隙を見せるか考えていると、
アウリウが隣に寝てしなだれかかってくる。
「何をやってるんだ」
「そりゃ男女の営みでしょ」
付近は光源があるとはいえ暗いので、アウリウがもぞもぞと動いていると
女が男に抱き着いて行為を始めているようにしか見えないだろう。
襲撃者にとっては絶好の隙だ。
イェシルは何故かわくわくした目でこちらを見ているが、
細剣の鞘を抱えて即座に抜剣できるようにしている女を相手に
何をどうしろというのか。
周囲に向けた鋭くも可憐な眼差しを眺める間もなく、気配が一斉に動き出す。
駆け寄ってきた二人の足を槍で払い、
姿勢を崩した所へ跳ね起きて体当たりを食らわせて転倒させる。
もう一人は右の肩口をアウリウの細剣で貫かれ、蹴り倒されていた。
襲撃者は四人全員。やはりこうやって襲撃してくると思っていた。
残りの二人は真っ直ぐにイェシルへと向かい、得物を振り上げる。
災いの花を討つという栄誉。そのためだけに仕込まれ鍛え上げた技。
右と左からイェシルを挟むように振るわれる横薙ぎの長物。
お前たちのような旅人になどくれてやるものかと叫ぶような一撃。
気配の位置と殺気の方向でそうするだろうと思っていたから、あえて無視した。
結果は分かりきっている。
甲高い金属音と共に、二人ともが反動で得物を取り落とす。
人間の限界に近しい師の斬撃で傷一つ付かない花を相手に、
自分たちの技なら通じると何故思ったのか。
「花が咲くまで、わたしには傷一つ付けられないんだよ」
その様子を哀れむイェシル。
倒れた弟子の顔面に石突を叩きつけて行動不能にし、
イェシルを攻撃した残り二人に向き直る。
「あたしたちに四人がかりで来た方がよかったんじゃないの?」
「それだけ目端が利くなら、こんな所にいるはずがないな」
槍を構え直す。アウリウは細剣を腰から外した鞘に仕舞い、鞘を逆手に持つ。
弟子たち二人も長物を拾って構えたが、既に勝敗は分かりきっている。
気合の声か憎悪の叫びか判別できない声を発しながら、
弟子たちが突っ込んできて長物を薙ぐ。
イェシルに仕掛けたのと全く同じ、首を狙う左右からの横薙ぎ。
そのために作られた長物、最大の威力を発揮する横薙ぎを使うのは当然。
武芸者を相手に、種の割れた技を使うなと師は教えてくれなかったのか。
師のものとは比較にならないほど遅い横薙ぎを、
ジュルターは槍の柄で、アウリウは細剣の鞘であっさりと受ける。
そのまま、隙だらけの顔面へ拳を叩き込む。
アウリウは身長が足りないので腹に打ち込んでいた。
老人との一合の再現。
二人は得物を手から離し、処刑場の地面に倒れた。
槍の切先を倒れた一人の目の前に突き付ける。
命乞いでもしてくるかと思ったが、向けられた目は怒りに塗れていた。
「力を得るために災いの花と吸血鬼の下僕になった外道なんぞに……!」
何やら勘違いをしているらしく、的外れな罵倒にため息を返す。
襲撃のために作った大義名分らしきものはそれらしい。
アウリウは心底蔑んだ目で冷たく言い返す。
「吸血鬼が人間を強くできる訳ないでしょ。弱くする事ならできるけど」
「出まかせに騙されるものか、吸血鬼め!」
「食料を強くする意味がどこにあるって言った方がよかった?」
下らない事を言った男の首をそっと掴むアウリウ。
低い体温の冷たい手に力は込められていないが、男が感じる恐怖は相当だろう。
恐らく男は吸血鬼について碌に知らない。知らぬ事は恐怖となる。
首に掛かった手は少女の姿相応の力しか出せないのだが、
男は巨大な獣に押さえつけられているかのように震えている。
「まあ、俺をどう思おうが構わんさ。朝になったら怖い師匠に報告するだけだ。
殴るだけで済ませてくれるとは思えんがな」
「な……!?」
男が何か言う前に、アウリウが首を絞めて落とす。
他の三人も止血だけはしてやり、気を失わせて縄で縛っておいた。
「わたし、ジュルターとアウリウに何もしてあげられてないのにね」
作業が一段落して横になると、イェシルが寂しそうにそう言った。
アウリウがイェシルの葉をそっと撫で、微笑む。
「三人で旅した半年は楽しかったから、それでいいんじゃないかな」
「思い出は貰った。十分だ」
イェシルはジュルターたちの返答に微笑んでくれたが、
それはどこか寂しそうなままの笑顔だった。
***
光源が明るくなり、朝になった事を告げる。
縛っておいた連中を引きずって連れて行き、
小屋の前に座っていた老人の前に突き出した。
「夜に襲撃してきたので返り討ちにした。引き取ってくれ」
老人は怒るでもなく、静かに弟子たちを一瞥だけする。
弟子たちは怯えきっており、師から何をされるか恐怖しかないようだ。
ジュルターたちの方を向いた老人が口を開く。
「どのような戦いになった」
言い訳や互いの主張など不要、真偽ではなく戦いの状況が知りたいと。
なるべく客観的に、昨夜の返り討ちを説明する。
弟子たちはでたらめだ、都合よく言うなだの喚いていたが、
老人は喚き声に聞く耳さえ持たず、ジュルターの説明だけを聞いていた。
「お前たちはどう見た」
「いない方がましだ、邪魔にしかならない」
「倍の人数で奇襲してきてこの有様、功を焦って隊列乱すだけでしょ。
同僚にいたら可能な限り離れるね、巻き添えで死にたくないもん」
率直な感想を伝えると、老人は背を向けて歩き始める。
「すまんが、そいつらを引きずってきてくれ」
困惑する弟子たちを尻目にそれだけを言うと、振り向きさえせずに歩いていく。
言われた通りに弟子たちを引きずっていく。
老人が彼らをどうするかは、何となく察しがついた。
ジュルターの予想通り、辿り着いたのは外部との連絡口。
老人が指輪をかざし、壁を開く。
何事か不測の事態が起こったのかと数人が慌てた様子で入ってくる。
入ってきた者たちに、老人は顎をしゃくって縛られた弟子たちを示す。
「外へ連れて行け。要らん」
容赦のない宣告に声を上げようとした弟子たちだったが
老人の一睨みで声が出せず、口をぱくぱくさせるだけ。
彼らが声を出さなくてよかったと安堵する。
老人から放たれる怒気はまるで殺意の塊。
一言でも何かを言っていたら二度と見れぬ顔になっていただろう。
外から入ってきた者たちも師の怒りを感じ取ったのか、
逃げ出すように弟子たちを引きずり結界の外へ出て行った。
全員が出て行くと、老人は即座に結界を元に戻す。
「いいの? あたしたちだけで相手する事になるけど」
「あれでは花と対峙した時に死ぬ。それだけなら構わんが邪魔者は不要だ。
無駄に命を散らす事もない」
ジュルターもそう思い、同じ事を言いはした。
先の事を考えれば最良の結果になった。
どちらに転んでも邪魔になる弟子たちを排除し、
老人とイェシルにだけ集中できる。
自分の側には外から来た傭兵二人だけという状況、
老人はそれでいいのだろうか。
「随分と俺たちを信用してくれているんだな」
「お前たちなら死んでも構わんからな」
それだけを返してくると、老人は小屋に向けて歩き出した。
弟子たちには全く伝わっていないだろうが、
外へ追い出したのは彼なりの思いやりでもあったのだろう。
しかし、だからこそ弟子たちはあの程度でしかない。
厳しい態度を取る割に半端な優しさを見せる。その中でも最悪の形。
災いの花を討つための技以外まともに教えないのに、
捨て駒として使う事を否定する。
優しくするのなら自らの武芸を全て伝え、
免許皆伝を渡し快く送り出すべきだ。
厳しくするのならその命は栄誉のためにあると教え、
名誉ある死を誇らせるべきだ。
どちらも選べない選択の保留。何もかも中途半端。
弟子たちもそんな師はさっさと見限らなければいけないのに、
未だ付き従っている。
他に縋れる物が何もないから。
災いの花を討つという執念を心の芯としている老人はいいが、
それがない者は英雄の弟子、
結界の守護者である事自体を拠り所にしてしまった。
外法を使ってまで拠り所を奪おうとする者、ジュルターがそう見えたのだろう。
排除に動くのは当然の事と言えた。
イェシルを攻撃したのは名誉欲か、師に見捨てられる恐怖からか。
今となってはどちらでもいい。
襲撃者はもういない。今夜からはぐっすり眠ってもよさそうだ。
***
襲撃者のいない夜。
毛布に寝転んでくつろいでいると、台座の上から声を掛けてくるイェシル。
「聞いてもいい?」
アウリウと共に上体を上げて聞く体勢に入る。すぐに続きを聞いてきた。
「人間と吸血鬼って子供はできるの?」
「できるよ。不死性や異能は確実になくなるけど」
一瞬面食らってしまったジュルターとは対照的に、淡々と答えるアウリウ。
「どっちの血がどれだけ濃いかにもよるけど、太陽の光への弱さが変わるね。
人間の血が強いと平気だし、吸血鬼の血が強いと光で焼かれる。
それ以外は人間と同じかひ弱なくらい。可哀相な子たちだよ、半人って」
ジュルターは人間なので半吸血鬼という言い方が馴染み深いが、
吸血鬼からしてみればそういう呼び方になるのは当然か。
「吸血鬼にとっての認識は、仕方なく血筋を残すための代替物。
前にあたしが純血の吸血鬼って言ったでしょ?
混血っていうのが、半人に産ませた吸血鬼なの」
「付き合いも長いが、初めて知ったな」
「あんまり喋りたい事じゃないしね」
悲しさと寂しさが混じった声。
吸血鬼を激しく嫌うアウリウが、純血の子を産む事はあり得ない。
しかし可哀相と称する人間との混血もまたあり得ないだろう。
子を成す事なく、無限に近い命を生きるつもりなのだ。
「半人と人間の子供って人間になる?」
「そうだね、大抵普通の人間になるらしいよ。ごく稀に半人」
「ちょっと安心した」
イェシルとアウリウは、ジュルターに視線を向けてくる。
次に何を尋ねられるかは大体分かる。
「二人は子供作らないの?」
「両親がどっちも傭兵で、母親が吸血鬼なんて子供が可哀相にも程があるよ。
それにこの人、妻子より自分のやりたい事を優先しちゃうもの。
子供は作らない方がいい方の人だね」
即座の酷評が事実でぐうの音も出ない。
間違いなく妻と子供を泣かせるような事をしでかす。確信に近い。
自分でも分かってはいるのだが、真っ向から言われると流石に気落ちする。
「あたしも人の事は言えないけど。ろくでなしだから」
「アウリウなら、ちゃんとした母親になると思う」
旅人、傭兵をやっているのは一つ所に長く留まれないから。
彼女が親に不適だと思っている要素は全て、吸血鬼という種族に起因する。
気質が家庭を持つのに向いていないジュルターとは違う。
「もし俺一人だったら、イェシルがどんな風になっていたか。
アウリウがいてくれて助かったよ」
「この子、結構なお父さん似だと思うけどなぁ」
イェシルに手を伸ばすが、
横になっていては台座の上まで手が届かず諦めるアウリウ。
起き上がって代わりに撫でてやる。
「母親にそっくりだと思っていたんだが」
「あたしたちの悪い所を覚えさせちゃった感はあるかも」
苦笑しながらアウリウと顔を見合わせる。
そして笑みを消し、一度深く頷いた。
頷きを返してくれるアウリウ。腹は括った。
「イェシル、やはり俺は知りたい。
災いの花がなぜ災厄を起こすのか、その理由を」
「前にも言ったけど、わたしにも分からないの」
「花が咲いた後ならば分かる。
三十年前に咲いた花は明確な意思を持って行動をしていた可能性が高い。
衝動や本能に任せた行動でないのなら、そこには必ず理由がある。
花が咲いた後に、それを聞かせて欲しい」
ジュルターの言葉に、イェシルは激しく困惑している。
災いの花を殺すには、花が咲いた瞬間に首を落とすのが最良。
その優位を完全に捨てると言っているのだから。
「でも、災いの花が咲いたら……!」
「あたしたちがイェシルに負けるとでも? 見くびらないでよね。
ジュルターは十年、あたしは数十年傭兵やってるんだから」
不敵な笑みのアウリウが言う通り、これでも一応は歴戦の傭兵だ。
英雄十人を一瞬で仕留めた花に対してはあまりにも心許ない自信だが、
上辺の説得力だけはそれなりにある。
「言ったはずだ。願っていいのならそうしたかったと。
理由が分かれば対処の方法があるかもしれない。
必要がないのに槍を振るうほど、殺しに飢えてはいないつもりだ」
「約束を……願いを、違えるの?」
旅の全てを土壇場でひっくり返すような事を言ったので、
イェシルの困惑は更に激しくなる。
困惑と共に勘違いをしている。まずはそれを正す。
「最初に言った事を違える気もない。他に方法がないのなら躊躇いなく葬る。
だが、やれる事があるのに何もせず惰性で選びたくはない」
「そもそも願いって一つしか持てない物じゃないでしょ。
複数の内からどれか一つ選ぶっていうのもありだよね。
全部選べるんなら一番嬉しいし」
イェシルは静かにこちらを見る。
その様子に困惑はなくなり、何かを思い出しているように見える。
ジュルターたちの言葉で、思い出してくれているだろうか。
住処を焼き尽くした炎のように生き、惰性を拒んで誇り高く死んだ山賊を。
複数の願いから己が真に欲した物を選び取り、
幸せに暮らしているだろう料理人を。
イェシルを真っ向から見つめ返す。
願いを変えたわけではない。約束を違えるつもりもない。
ただ、もう一つ願いを増やしただけ。
「……わかった。ジュルターとアウリウがそれを望むなら」
「頼んだぞ」
イェシルは納得してくれたようで、内心で胸を撫で下ろす。
彼女の協力がなければどうにもならない事だったので、
この説得に全てが掛かっていた。
「でも、どうして? ジュルターは一度決めた事を曲げないと思ってた。
アウリウにお願いされたの?」
「違うよ。あたしは諦めてたけど、ジュルターはそうじゃなかったの」
「馬鹿の特権だ」
威張って言う事ではないが、胸を張ってそう言える。
頭がいいから結論に到達し、諦める事ができる。
ジュルターは頭の悪い馬鹿なので諦める事ができなかった。それだけだ。
「この事はあの爺さんには話さないでくれ。
当日、もう後戻りができない状態になってから俺たちが話す」
「前日とかに話しちゃうと増援呼ばれるかもしれないしね。
せっかく邪魔者を追い出せたのに、また増やされたら困っちゃう」
「二人とも時々怖い」
悪い顔でもしていたのか、目を細めて睨んでくるイェシル。
アウリウと顔を見合わせ、最高に悪い笑顔を返しておいた。
「ろくでなしだからな」
「イェシルはこんな風になっちゃだめだよ?」
「うーん……手遅れかなぁ」
他人事のように言うイェシルが可笑しくて笑ってしまう。
いつしか三人で笑いあっていた。
この時間が続けばいい。花が咲いた後もずっと。
壊し、傷つけ、殺す事でしか糧を得られない傭兵でも、
たまにはそんな事を夢見て願ってもいいだろう。