第6話:血を啜る者たち
*****
「この旅もそろそろ終わりだね」
すっかり日も沈んだ夜。焚火の前で足を投げ出してくつろぐアウリウ。
果ての岬までは後十五日ほど。半年の期限まではまだ四十日ほどある。
余裕を持って旅を終えられるだろう。
災いの花をこの手で殺すための旅を。
静かにゆらゆらと揺れているイェシルに視線を向ける。
ここまで半年近く共に過ごしてきて、
どう見ても世界に災厄をもたらすようには見えない花の少女。
それを殺す。花が咲いた瞬間に。
その事自体には納得しているし、躊躇う事もないだろう。
しかし思うのだ、災厄を起こす理由を聞いてみたいと。
生まれた時から決まっている自然の摂理なのか、他の理由があって起こすのか。
一度聞いた事があるが、まだ蕾であるイェシルには分からないという。
花が咲いた時どうなるかは自分でも分からないとも。
岬に着いて己がどうするべきなのか、未だに決断はできていない。
「……結構隙は見せてるつもりなんだけどなぁ」
ジュルターにしか聞こえない小さな声の呟き。
先ほどから何者かが様子を伺っている気配があった。
かつて同じような出会いをした山賊とは違う、
気配を消す事に慣れていない相手。
明確な敵意を感じるような気配ではなかったので、様子を見ている。
隙を見せれば何かしらの行動を取るかもと思ったが、相当の慎重派らしい。
寝込みを襲うつもりだろうか。
「こうして待っていても仕掛けてきそうにないな。
アウリウ、先に食事を済ませてくれ」
「うん、それじゃお先に」
アウリウはその辺りで捕まえておいた
小さめの獣を無造作に掴み、牙を突き立てる。
血を啜る音。命を吸われていくように干からびていく獣。
その瞬間、気配が殺気に変わった。
何者かが投擲してきた石のような物を手で弾く。
アウリウは獣を口にくわえたまま。
「あつっ!?」
獣から口を離して声を上げてしまうアウリウ。
彼女が石を弾いた右手の甲からは、うっすらと白い煙が出ている。
近くに叩き落とした飛来物を見てみると、それは聖印だった。
吸血鬼に触れて効果のある、
信仰を伴った聖印を投げつけてくるのは予想の外だ。
一瞬の隙を突き、物陰から飛び出してくる人影。手には短剣。
アウリウは左の腰に細剣を差しているので、右手が焼かれては反応が遅れる。
即座に槍を取り、槍の柄で人影を受け止めた。
焚火の明かりに照らされたその姿は、村娘風の幼げな少女。
よく見れば少女が手に持つ得物は短剣ではなく、木製の杭。
「邪魔をしないで、あんたは人間なんでしょう!?
そいつは吸血鬼なんだよ!?」
「友人を滅ぼそうと向かってくる奴なんぞ止めるに決まっている」
少女を押し返す。多少鍛えられてはいるが、
村娘を押しているような手応えのなさ。
必死で前に進もうともがく少女が、ジュルターの服の袖を掴む。
「そいつから離れてっ!」
アウリウの警告とほぼ同時に、少女を蹴り飛ばして離れる。
腹に入ったためか、少女は体を曲げて湿った咳をしている。
少女が袖を掴んでいた手を握る瞬間、見えた。
一切の詠唱なしで燃える白い炎。吸血鬼の黒炎と酷似した異能の炎だ。
「こいつは人間なのか?」
「白き炎の子。人間の中にごく稀に生まれる、吸血鬼殺しの異能だよ。
黒炎を打ち消し、吸血鬼をその血ごと焼く白炎の使い手。吸血鬼の天敵だね」
「俺は吸血鬼じゃないが」
「服がいきなり燃え上がったらただじゃ済まないでしょ」
アウリウが敵の服を掴み、瞬時に燃え上がらせるのを何度か見た事がある。
それをただの人間がやろうとしてくるとは思わなかった。
服が燃え上がれば大火傷は確実で、死の危険さえある。
組み付く訳にはいかなくなった。
こちらを睨みつける少女に話しかけてみる。
「何故襲い掛かってくる? 生まれもった定めだからか、他の理由があるのか」
「吸血鬼が私の村を、お母さんや友達を滅茶苦茶にしたからじゃない!」
どうやら宿命ではなく怨恨らしい。
アウリウに視線を送ると、呆れた顔で首を振って返してきた。
「いや、あたしがこの辺りに来たのって二十五年は前だよ。
あなたもお友達も生まれてさえいないでしょ、吸血鬼違いだよ」
「吸血鬼なんてどいつもこいつも同じよ!
人間の事なんて餌か玩具としてしか考えてない!」
「……それは否定できないけど」
実際に他の吸血鬼と出会った事はないが、アウリウがいつも言っている。
吸血鬼とは、人と似た形をしただけの危険な化物だと。
だが、ジュルターは知っている。
アウリウが人に寄り添う事を好む変わった化物である事を。
「幼子を好んで十人殺したという奴に会った事がある。
腕は大した事はなかったが、
人を傷つける事に躊躇がないどころか嬉々としてやっていた。
嘘や誇張ではなく本当にやっていたんだろう」
「だから何!?」
「そんな奴が生まれる人間は全て邪悪な存在だ、滅ぼさなければならない。
こう言われた時にどう反論する」
少女の目が泳ぐ。それで少女の性質を大まかに推測する。
頭が悪いわけではなく、憎しみに身を任せていただけで基本的に善性。
わざわざジュルターの屁理屈に対する返答を考え、即座に言葉として出さない。
"そいつが悪いだけで人間全てが悪い訳じゃない"。
この返答を使ってしまえば、自分の正当性が消失してしまうと理解できている。
「で、でも、そいつ、動物に酷い事して……」
「あなた、肉食べた事ないの? 血抜きも兼ねてるんだよ」
「う……」
苦し紛れに矛先を逸らした所へ、逃げ道を塞ぐ追い打ち。
酷いも何も、獣を殺して肉を食う人間が非難できる行為ではない。
すっかり気勢が削がれた少女に微笑むアウリウ。
「あたし、人間の血は敵か、死が避けられない人への介錯以外では吸わないの。
そういう訳だからさ、
安心してとまでは言わないけど襲い掛かってこないで欲しいな」
憎悪が困惑に変わっている少女は、ジュルターの方を見る。
「あ、あんたは、どうして吸血鬼と一緒にいるの?」
どうしてと言われると返答に困ってしまう。
一言で言い表すにはどの単語も微妙に違う気がして、アウリウを見てみる。
何故か満面の笑みを返してきたので、少女に答える。
「一緒に馬鹿な事をやっている友人だからだな」
「そこは大親友とか、一心同体みたいなものとか言ってよ」
「槍を手にしている時に嘘や冗談は言いたくないんだ、悪いな」
軽口を言い合いながら笑い合う。
少女から注意を外したように見せたが、襲ってくる事はなかった。
両手は力なく下がっており、殺意も戦意も消えていた。
憎しみが少女を支えていたのだろう。
その支えが使えないので今にも倒れてしまいそうだ。
「こっちに来て休んだらどうだ。今から肉を焼くんだ、一緒に食わないか?」
少女はしばらくの間ジュルターとアウリウを交互に見てから、
躊躇いながらも小さく頷いた。
少女に干し肉のスープが入った器を手渡す。
「それは村で買った保存用の干し肉だ」
その言葉に安心したのか、少女はスープを飲み始める。
吸血鬼に憎しみを向けていた少女が
吸血鬼が血を吸った後の肉に口は付けないだろう。
別に毒がある訳でもないし、腹を下した事もないのだが。
少女はアウリウの近くにいるのは嫌なのか、
ジュルターを挟むような位置に座っている。
こちらからは話しかけず、少女が話すのを待つ。
焼いた肉を三つほど腹に入れた所で、少女は話し始める。
「吸血鬼の所為で、村が滅茶苦茶になったの。
お父さんは私を置いて出て行って、お母さんは……」
少女の話によると、村に吸血鬼が来訪したのは三年ほど前。
当初は吸血鬼だとは分からず、村に旅人が居付いた程度に思っていたという。
田舎村では見た事のない、妖しいまでに秀麗な容姿の男。
村の女たちは皆が熱を上げ、男連中は呆れと嫉妬を向けていたらしい。
少女だけは嫌な気配と臭いがすると感じて、男に近づかなかった。
「吸血鬼殺しの力があるからかもね。
多分あたしも同じ臭いに感じるんじゃない?」
「うん、あいつと同じ臭いがする」
ジュルターにはさっぱり分からないので、異能の影響なのだろう。
アウリウの頭に顔を近づけて嗅いでみたが
昼に水場で洗ったばかりなので臭いはしなかった。
「それで、そいつが村で何をしたの?」
「最初は近所のおばさんがおかしくなった。その次は娘さんが。
二年ほどしたら、女の人たちがみんなおかしくなってた」
生気がなくなり、笑う事も殆どなくなり、
ただ生きているだけの屍のようになった女たち。
そんな折、少女の父は様子のおかしい妻の後を追い、
不貞の現場を目撃したという。
暗がりだったので詳細は見えなかったらしいが、
恍惚とした表情で男に抱かれる妻がはっきり見えたと。
それを問いただすと、謝るどころかどれだけ甘美な時間だったかを語りだす妻。
少女の父は愛想を尽かし、妻と娘を置いて村を出て行った。
出稼ぎで殆ど家にいない父の事が好きではなかったから、少女は村に残った。
その判断を今でも後悔しているとも。
なぜならばその後、母に連れられて少女は男に差し出されたのだから。
自分を抱き、首筋に牙を突き立てようとする男。吸血鬼。
その瞬間、手から白い炎が噴き出し吸血鬼の顔を焼いた。
怯む吸血鬼を振り切り、泣きながら村から逃げ出したのが半年前の事。
炎の使い方を訓練し、吸血鬼を討つため故郷に戻ってきた所だという。
アウリウがそいつの仲間か何かだと思って襲撃してきたらしい。
「女の人たちの様子、詳しく聞かせてもらってもいい?」
「うん……」
女性たちの状態、普段の様子、変化した所などを細かく聞いていくアウリウ。
全て聞き終わると、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「村が完全にそいつの餌場になってる。
……あなたには酷い事を言うよ。村の女の人たちはもう元に戻らない。
異性の吸血鬼に血を吸われると激しい快楽を感じる。
その快楽で心を壊されてる。
それは吸血鬼を滅ぼしても治らない。どんな医術も治癒魔術も効果がないの」
「そんな……!?」
吸血鬼さえ滅ぼせばすべて元に戻るというのは、唯一の希望だったのだろう。
それをあっさりと否定され、少女はただ呻くしかできない。
アウリウは大きく息を吐き、ジュルターをじっと見つめた。
「ごめん、あたし岬まで一緒に行けなくなった。
そんな奴を放っておくわけにはいかないからね、ここからは一人で行って。
そいつを始末したら後から追い付くよ」
苦笑しながら言うアウリウに、わざとらしく大きなため息をついてみせる。
「俺が底なしの馬鹿だというのは理解していると思っていたんだが。
まだ二十日近く時間の余裕はある。当然俺も行くぞ」
「たまにはお姉さんの言う事聞いてくれないかな?」
「すまんが聞けないな。
この子に吸血鬼と二人きりで共闘しろと言う方が無理だろう」
アウリウは指摘されて初めて気が付いたようで、手で顔を覆ってしまう。
吸血鬼を憎む少女と二人きりで戦っては連携も何もあったものではない。
現に今も、ジュルターを挟んで近づこうともしないのだ。
時に感情は理に勝ってしまう。
作戦を提示した所で素直に聞いてくれるかどうか。
憎むべき吸血鬼の言う事は聞きたくないとなってもおかしくない。
しばらく顔を覆っていたアウリウは、自分の頬を軽く叩いて手を離す。
「ごめん、手を貸してほしい。あなたがいれば使える作戦もかなり増える。
何よりもその子が安心できるもんね」
「そういう訳だが、俺たちも討伐に協力して構わないか?」
話がまとまったので聞いたが、少女は放心状態で返事がない。
少女の肩を掴んで揺さぶり、ジュルターの方を向かせる。
泣きそうな顔は最初の印象よりも随分と幼く見えた。
「どうする。故郷を滅茶苦茶にした吸血鬼を討つんじゃなかったのか」
「でも……みんなもう元に戻らないんじゃ、意味なんか……」
「腹が立たないのか? 意味なんてそんな物でいい、聞いているのは君の意志だ。
俺たちと共に下衆野郎を討つか、討たないか」
少女を置いてアウリウと二人で討ちに行く事はできるが、
それでは彼女には何もなくなる。
一度消えた火をもう一度つける事は難しいが
完全に消えてさえいなければ、やり様はいくらでもあるものだ。
火と同じように、人の心もまた。
「……あいつが許せない。それだけで、いいの?」
「他の理由が必要あるのか?」
「……お願い、します。私に力を貸してください」
頭を下げる少女の肩を軽くぽんぽんと叩き、そのまま手を差し出す。
「俺は槍術士のジュルター。よろしくな」
「あたしは細剣使いのアウリウ、よろしくねー」
あえて武芸者のような名乗りをした。
単に旅人や傭兵だと言うと
アウリウが吸血鬼だという事実だけが目立ってしまう。
武芸者の名乗りをすれば得物に注意が行き、多少は嫌悪感をごまかせるだろう。
「私は、えっと……短剣を使うサフィ。よろしくお願いします」
少女、サフィはしっかりとジュルターの手を握る。
瞬時に炎を呼び出せる相手に手を握らせるのは、信頼の証だ。
まだ何とも言えない表情をしているサフィに、
一つ謝っておけなければいけない事があった。
「さっきは蹴ってすまなかったな」
「そうしなかったら焼いてただろうから、別に……今も痛いけど」
「始末が終わったら急所以外を二、三回蹴ってくれていいぞ」
ジュルターの言葉に少しだけ笑顔を見せるサフィ。
アウリウは先ほどの自己紹介もそうだが、
ジュルターで少女の視界を遮るように離れている。
今はまだそれでもいいが、
吸血鬼との戦いまでには最低限の協力ができるようにしたい。
二人の仲を取り持てるのはジュルターしかいないという事実に、
軽く頭痛がした。
***
翌朝に出発し、一日をかけてサフィの村まで辿り着いた。
日は頂点に昇ってからかなり地面に近づいており、
そろそろ夕方になろうという頃。
村を遠目に確認できる草むらに隠れ、様子を伺う。
「さて……どうする、アウリウ。専門家の意見を聞きたい」
「日が落ちるまでに村の様子を見てみたいかな。
イェシルは預かっておくから、ジュルターだけで様子を見てきてくれる?
サフィちゃんは顔が割れてるし、あたしは多分だけど吸血鬼だって気付かれる」
「分かった。注視するべきは何だ?」
「いくつかあるけど、優先順位は……」
イェシルの籠を下ろしながら説明を聞いていると、服の裾が引かれる。
アウリウの説明を手で制して一時止めてもらい、裾を引いたサフィに向き直る。
サフィはおずおずとイェシルを指差して言った。
「それ、災いの花だよね? それを使ったらだめなの?」
老魔術師が守っていた村は岬からそこそこ離れていたが、
彼の話によると、村ではある程度の年齢以上なら知っていると言っていた。
ならば果ての岬に近い村の住人なら、詳しく知っていてもおかしくはない。
一国を滅ぼし、万全の用意をしていた十人の英雄を九人まで殺した花だ、
武器として使えるのならこれ以上の物はないだろう。
しかし、イェシルにそんな事をさせる気は一切ない。
「イェシル……災いの花は、俺が果ての岬に届ける。岬以外で咲かせはしない。
そういう仕事として請け負い、そう約束したからだ」
「仕事は分かるけど、約束?」
「わたしと約束したの」
突然喋ったイェシルに驚き、
叫び声を手で抑えながら尻もちをついてしまうサフィ。
知らずに不意討ちで喋られれば驚くのは当たり前だ。
「イェシル、どうした?」
「言いつけ破ってごめんね、ジュルター。
わたしが咲くのは果ての岬でなければいけないって言いたくて。
ジュルターが言ってもサフィは納得できないと思ったの」
出会った当初と比べて随分と流暢に話すようになったイェシル。
幼子のようだった言葉は、いつの間にかはっきりとした知性を感じられ、
人間関係を理解して喋った方がいいという判断までもできるようになっている。
「わたしを使う気ならジュルターは果ての岬に行くよ。
アウリウと二人きりで頑張ってね」
「う……わ、分かった、もう言わないよ……」
脅しも使い、サフィをあっさり説き伏せてしまったイェシル。
戦力が減る上に吸血鬼と二人きりになる事態は避けたいだろうし、
自意識があって喋れる植物を勝手に持ち去って使うのは、
悪手以外の何物でもない。
わずかな会話でサフィの軽々しい行動を牽制して潰したのだ。
誰の影響かと言われたら二人しか思い浮かばず、その一人に抗議の視線を送る。
全く同じ視線を送ってきていたアウリウと見つめ合い、同時に苦笑した。
「変な事ばかり覚えさせちゃったねぇ」
「ろくでなしに真っ当な教育をしろと言う方が無理だな」
小さな声で笑い合うジュルターたちを、
サフィは呆れたような、困惑したような顔で口を閉じもせずに見つめていた。
災いの花に何をしているんだこいつらは、とでも言いたいのだろうか。
こうなってしまったのだから仕方がない。
イェシルという幼子に、ろくでなしの傭兵二人が接してきた結果なのだから。
旅の途中で立ち寄ったように装い、村に入ってみる。
最初に感じた事は、人の気配が薄い。
そろそろ夕食の準備を始める時間帯のはずだが、人通りはまばら。
わずかに見かける人は生気というものが感じられず、
虚ろな目をしてジュルターを気にもせず歩いている。
堂々と家を覗いてみても反応さえしない。まるで目に映っていないように。
そして、大人の男を見かけない。幼子はいるようだが、大人は女しかいない。
サフィの父親のように、妻に愛想を尽かして出て行ったのか、あるいは。
「すまない、旅人を泊めてくれる宿のような場所はないか?」
通りがかった女性に話しかけてみたが、
こちらを一瞥さえせずに歩き去っていく。
すれ違う際に確認したが、首筋に傷跡のような物があった。
何度も二本の何かを突き刺され、消えぬ痕になってしまったものが。
「……アウリウの言った通りか」
吸血の快楽で心を壊されてしまった者たち。
ジュルターはアウリウが意図的に快楽を与える吸血をするのを見た事はあるが、
彼女は明確な敵に対する報復行為にのみ快楽吸血を使っていた。
この村に巣食う吸血鬼は違う。直感でそう感じた。
あまり村を歩き回ると怪しまれるかもしれないので、手早く目的の人物を探す。
アウリウが指定したのは、ある程度ちゃんと会話ができる年齢の男の子だった。
子供自体あまり見かけなかったが、五軒目の家に一人いた。
何かに怯えるように時々周りを見渡し、疲れた暗い顔で安堵する。
その繰り返し。
真っ当な精神状態には見えないが、情報は欲しい。背に腹は代えられない。
窓から声を掛けてみる。
「君、すまないが村に宿のような場所はないか?
外の人は話さえ聞いてくれないんだが、何か知っているかい?」
声を掛けた時にはびくっと驚いたようだが、
男の子は安心した表情でジュルターを見てくる。
「村長さんの家に泊めていた事もあったけど、
もう無理だから早く村を出た方がいいよ。
みんなおかしくなっちゃったんだ……」
男の子はまともな人と話すのが久しぶりなのか、
聞いてもいない事まで話してくれた。
件の吸血鬼は郊外の一軒家に住み、そこに村人を呼び血を吸っている。
男の子の父親は半年ほど前から行方が知れず、
母親と二人で暮らしているという。
その母親は一年ほど前から様子がおかしく、
情緒不安定でいつも暗い顔をしている。
些細な事で怒り狂い手を上げてくるので恐ろしいと。
今この村にいるのは、男の子の母親のような様子がおかしい女だけ。
男の子から現在の村の詳しい情報を色々と聞いた。
郊外の一軒家に、可能な限り近づいてみる必要がありそうだ。
「ありがとう。こうなったら野宿覚悟で村を出る事にするよ」
「ね、ねえ、おじさん。ぼく、どうしたらいいと思う?
お父さんは帰って来ないし、お母さんはあんな風だし……」
男の子の問いに何と答えればいいか思い悩む。
恐らく彼の父親は生きてはいないだろう。
妻の不貞について直談判をしに行ったのか、
間男を叩きのめしに行ったのかは分からないが、
吸血鬼が彼の父親を生かしておく理由がない。
そうなれば、男の子は吸血鬼の奴隷しかいない村で暮らす事になる。
こんな村で過ごし続けたら、どんな強靭な精神の持ち主でも壊れる。
それ以上に、ジュルターたちが吸血鬼を滅ぼしてしまえばどうなるか。
かといって軽々しく村を出ろとは言えない。
生活の基盤を失った普通の子供が生きていけるほど、旅は甘くない。
現状に甘んじて村と共に壊れるか、一か八かに賭けて村を出るか。
ジュルターが言ってやれるのは、曖昧な言葉しかなかった。
「君次第だ。この村はもう元に戻ると思えない。村を捨てる選択もあるだろう。
だが、旅人から言わせてもらえば旅は厳しく命の危険も隣り合わせだ。
君のような子供に言うのも酷だが、選ぶのは君だ。俺にはそれしか言えない」
「……さよなら、おじさん」
わずかな落胆を感じさせながら、男の子は力なく手を振ってくれた。
ジュルターに期待していたのだろう。ここから連れ出してくれる事を。
薄情だとは思うが、一介の傭兵が見ず知らずの子供の面倒など見れない。
自分とわずかな大事なものだけで精一杯なのだ、責任を負う気もない。
家に背を向けて立ち去る。振り向く事もしなかった。
郊外に出てしばらく進むと、教えてもらった一軒家が見えてくる。
村から一本道であり、周囲はまばらに木々が生えている程度。
疲れた様子を装い、木の陰に座って周辺の様子を詳しく観察する。
視界を遮っての移動は不可能に近い。
かなり遠くからでも丸見えになる見晴らしの良さで、
奇襲をするとなると困難を極める。
相手は吸血鬼だ。昼だろうが夜だろうが視覚に変化がない。
ジュルターとサフィが視覚を制限されてしまい、
吸血鬼が十全に動ける夜には絶対に仕掛けてはいけない。
寝込みを襲って何もできない間に仕留めるのが理想だが、
吸血鬼はいつ寝るのか。
アウリウは夜に寝るのだが、特殊な例だと思う。
そして、襲撃の際に人質となり得る村人がいない時間帯が最良。
吸血の快楽に身も心も浸した女たちは人質どころか、
吸血鬼の命令で襲い掛かってくるかもしれない。
サフィの目の前で村人たちを殺す事になってしまう。
サフィの母親がいた場合が最悪。彼女に母殺しをさせる事になりかねない。
時間帯に関してはサフィに聞けば分かるかもしれない。
あの男の子にもう一度会いに行き、情報を得てもいい。
あまり長い時間ここにいては怪しまれる。
一軒家を一瞥してから首を振り、村の方へ疲れた足取りを装い歩いていく。
もし見られていた時のため、
胡散臭がって立ち寄るのを止めた旅人の演技をした。
そこそこの情報は得られたはずだ。アウリウたちの元に戻る事にする。
***
尾行されていないか気を付けながら回り道をしたので、
アウリウたちの待つ場所に戻ってきたのは日が暮れてからだった。
ジュルターが得てきた情報を話し、共有する。
「ご苦労様。吸血鬼は普通お昼に寝る。
あたしは人間の生活に合わせて夜に寝てるだけなんだよ」
「おかしくなった後のお母さんが出て行くのはいつも夜だった。
昼間にあいつの所へ行く人はいなかったと思う。
私が連れて行かれた時も夜遅くだったよ」
アウリウとサフィの話を総合すると、やはり襲撃は昼間。
朝では村人が残っている可能性があるので、昼まで待って仕掛ける。
こちらの存在を気付かれずに、これ以上の情報収集は困難だろう。
そうなると後に残るのは、二人の不和。
アウリウとサフィはやはりジュルターを挟むように座っており、
お互いに話しかけない。
自分から話しかけると余計に感情を悪化させかねないから
黙っているアウリウはいい。
サフィは吸血鬼への憎しみで意志を支えている状態。
同族であるアウリウと仲良くすれば、憎しみが揺らいでしまう。
村の吸血鬼にだけ憎しみを向けるようにできないか考えているが、
妙案が浮かばない。
ジュルターが喋らず考えている間、無言の時間が続く。
しばらくの沈黙の後、アウリウがサフィに見えないよう袖を引いてきた。
顔を動かさず横目で視線を送ると、真剣な顔で一度だけ頷いてくる。
賭けに出るらしい。
それに乗り、イェシルの籠を担いで立ち上がる。
そして焚火の反対側に座った。二人を遮る物が何もなくなる。
慌てて移動しようとするサフィを、アウリウは呼び止めた。
「ちょっと待って。あたしの話を聞いてほしいんだ。
吸血鬼のあたしがあなたに協力して、吸血鬼を滅ぼす理由を」
サフィは立ち上がろうか悩むような動きをした後、意を決して再度座り直す。
アウリウは安堵した様子を見せ、話し始める。
「あたしは純血の吸血鬼でね、人間で言うならそれなりのお嬢様だったの。
両親以外の吸血鬼も近くに住んでいて、小さな集落の中で暮らしていた」
吸血鬼という種族に疑問もなく過ごしていたある日、
父親が人間の少女を連れてきた。
少女は身寄りのない孤児で、アウリウの遊び相手として連れてきたのだという。
暖かい体温、うっすらと日に焼けた肌、赤くない目。
何もかもが新鮮で、アウリウは少女と仲良くなろうと色々とやってみたという。
一緒に遊んでみたり、料理を作ってみたり、贈り物を渡してみたり。
吸血鬼が集団で暮らす中に突如放り込まれ怯えていた少女は
アウリウの様子に打ち解け、二人は仲の良い友人になった。
アウリウと少女が共に十四歳になった頃、少女に変化が訪れた。
話しかけても上の空、好物を食べても美味しそうに食べない。
そして何より、アウリウをそっちのけで送られる、父親への熱い視線。
これが書で読んだ事しかない恋というものなのかと、その時は思ったらしい。
しかし父には母がいるので実らぬ恋。
確実に敗れる恋に泣くであろう友人をどう慰めればいいか悩むばかり。
そんな事を考えながら過ごす日々が、終わる時がやってきた。
少女と共に両親の部屋に呼ばれ、部屋に入った瞬間。
少女は今まで聞いた事もないような媚びた声を出しながら、
父に抱き着いたのだ。
そういう関係だったのかと詰め寄るアウリウに、父は笑って言った。
こいつは吸血の快楽に取りつかれた奴隷だ、と。
異性の吸血鬼による吸血には激しい快感が伴う。それを教えられたのがこの時。
父が友人の首筋に牙を突き立て、快感に身を震わせる少女を見た時。
それまでアウリウは飼育されている動物の血しか飲んだ事がなく、
人間の血を吸う所を見たのは初めてだったという。
あまりにも長すぎたわずかな時間の後、口元の血を拭いながら父は言った。
お前もようやく人間の血の味を知る時が来た、この人間の血を吸い尽くせと。
何と怒鳴ったのかは覚えていない。しかし拒否した事だけは覚えている。
大切な友人を食料のように扱い、それどころか殺せなど。
父は笑顔のまま言う。最初からそのために連れてきた人間だと。
吸血鬼である事を自覚させるための儀式であり、その贄でしかないと。
このままでは殺されてしまうと少女の元に駆け寄り、
手を引いて逃げ出そうとした。
しかし少女は動かず、
うっとりした虚ろな目でアウリウにしなだれかかって言った。
早く血を吸って、もっと気持ちよくして、と。
必死に説得するアウリウに、少女は哀れみさえ向けてきたという。
この快楽を味わえない吸血鬼に生まれて可哀相。
そう言われた時、悲しみと恐怖で一人逃げ出した。
その日のうちに、少女は血を吸い尽くされて死んだ。
新しいのを連れてくると笑う両親、集落の吸血鬼ども。
絶対にああはならぬと誓って、今まで生きてきた。
「それから、連中の目を盗んで集落から逃げ出して旅人になったって訳」
疲れているのは長く話したからではないだろう。
思い出したくもない事を、引きずり出して話したからだ。
「親とか、連れ戻しに来なかったの?」
「集落に油撒いて丸焼きにしたから、追っては来なかったかな。
吸血鬼が不死でも、一旦灰になっちゃえば百年は再生できないしね」
さらっととんでもない事を口にするアウリウに驚いてしまう。
いくら不死とはいえ、自分の両親や故郷を焼き尽くしたなどと。
彼女にとっては、忌まわしい吸血鬼どもが住む魔窟でしかなかったのか。
「その割には、人間の血を吸う事に抵抗がないんだな」
「ジュルターも敵を殺す事に躊躇いなんかしないでしょ?
あれから六十年も経てば、あたしだって酸いも甘いもそれなりに噛み分けるよ」
「六十年?」
「言ってなかったっけ? あたし、今年で七十九歳」
時々年上ぶる事があるのでジュルターより実年齢は上だと思っていたが、
予想以上の数字が出てきて驚く。
少女のような容姿と言動を五年ほど見てきたので、
年齢と結びつかず頭が混乱する。
種族として時の流れ方が違うという事をはっきりと感じた。
「そういう訳で、分かってくれたかな?
あたしも吸血鬼が大嫌いなの。だからあなたと一緒に村の吸血鬼を討つ。
全部を信じる必要はないけど、戦いになったら連携くらいは取りたいかなって」
微笑むアウリウに、躊躇いながらも頷きを返すサフィ。
知らないという事は恐怖や疑心を生む。だからアウリウは過去を話したのだ。
自分の根幹にあるもの、協力する理由。信用に値するものを提示するために。
その気持ちはどうやら伝わったようだ。
アウリウはほっと安堵の息を吐き、ジュルターを細目で睨んで言ってくる。
「先に言っておくけど、お婆ちゃん扱いしたら泣くからね」
「ただでさえ少ない俺の威厳が消えてしまう、いつも通りの扱いでいくさ」
怒る、ではなく泣くあたりがアウリウらしい。
不死者の年齢がどれだけ多かろうが大差はない。大切なのはその在り様だ。
***
夜が明けるのを待ち、日が昇り切ってから村に入ろうと思ったが、生憎の曇り。
吸血鬼と戦うというのに今にも雨が降り出しそうな黒雲で、
太陽の光が見えない。
悲しそうに空を見上げるサフィの前で、
アウリウは頭巾を外し長い髪を外に出す。
「吸血鬼は日光に弱いけど、浴びたからって即死する訳じゃないよ。
肌が酷い火傷みたいになるっていうのも長時間浴びた場合だしね。
晴れでも曇りでもいいんだよ、相手が寝てる時間帯の方が重要だから」
「でも、まるで行く末の暗示みたいで……」
少女の言葉を笑うような事はしない。
戦に関わる者ならば、誰でも験担ぎの一つや二つするものだ。
黒雲が行く末を示すというのなら、明るい未来でないのは確かだろう。
消沈するサフィに対し、アウリウは胸を張って言う。
「あたしがジュルターと初めて会って、砦を守った時もこんな天気だったよ。
こっちの防衛戦力はあたしたち含めて三人、敵はたくさん。
でもあたしたちは砦を守り抜いた。だから今回も上手くいくよ」
困惑するサフィに対し、話に同意する意味を込めて頷く。
冗談か与太話にしか思えないだろうが事実だ。
何重もの奇跡を綱渡りして得た勝利。その時と同じ天気。
ジュルターとアウリウにとって、黒雲は奇跡の勝利をもたらす吉兆だ。
「確認しておくぞ。村の外周を身を隠しながら進んで一軒家に向かう。
一軒家が見えたら素早く接近して、家に押し入って寝込みを襲う」
我ながら押し込み強盗のような物言いだと思うが、
その通りなのでどうしようもない。
金品ではなく住人の命だけが目的なのだから暗殺とでも言うべきか。
「終わったらすぐに村から出るよ。
夜になって吸血鬼が滅んだ事が知れたら、村は滅茶苦茶になるだろうしね」
「外周付近に昨日話した男の子の家がある。
確認として話を聞きに行って、時間帯が最良と判断したら仕掛けるぞ」
作戦の説明を聞き、息を飲んで頷くサフィ。
短剣の柄を握る手は力の込め過ぎで青白くなっており、極度の緊張状態にある。
その手をそっと解いた。
「緊張するなというのが無理なのは分かっているが、今は心を休めていていい。
気を張るのは慣れている俺たちの役目だ、信用してくれ」
「……うん」
サフィはぎこちなくではあるが微笑む。
緊張を集中に変化させられれば一端の武芸者なのだが、
半年前までただの村娘だった少女に求めるのは酷だろう。
だからこれでいい。少女だけでは無謀だからこそ、ジュルターたちがいる。
「おじさん、まだ村を出ていなかったの?」
家の外で空を見上げ、
何かに悩んでいた男の子はジュルターを見つけてそう言った。
怯えが幾分か消えており、利発そうな雰囲気を纏う男の子。
彼本来の性格はきっとこちらだ。
「やる事ができてしまってな。お母さんは家に?」
「うん、家で寝てるよ。音を立てて起こすと殴られるから、外に出てたんだ」
彼は母親がおかしくなってからずっと、一人で耐えてきたのだろう。
同情はするが、今必要な情報は母親が逢瀬を重ねる相手の事。
「郊外に変な一軒家があったんだが、あそこには今誰か住んでいるのか?」
「絶対に近づいちゃだめだよ、あそこには吸血鬼がいるんだ。
昼間の寝ている時に立ち寄って起こしたりしたら、どんな目に合うか。
お母さんたちも絶対に昼には立ち寄らないんだ」
やはり時間は昼が最良。このまま仕掛ける。
後ろに向かって手招きをして、アウリウとサフィを呼ぶ。
二人はすぐにこちらに来た。
「ねえ、私の事覚えてる? 大きな木が二本ある家に住んでたんだけど」
「半年前くらいにいなくなった? 生きてたんだね、よかった……」
アウリウと共に数歩後ろに下がる。
自分たちはサフィと深いかかわりがない事を示すように。
「必要ないのにここに立ち寄ったね?」
「吸血鬼を滅ぼしたら、この村でまともな人間は生きていけない。
あの子には情報を話してもらった恩があるからな」
「サフィちゃんという前例、知人が村の外にいるという安心感。
酷な話だけど、決断ができれば生きていけるかもしれないね」
お膳立てはしたが、
身寄りのない子供が村の外で生きていくには自分自身の意志が必要になる。
サフィには吸血鬼への憎しみが意志としてあった。
彼が、この先に生の寄る辺とする意志を自分自身の力で見出せるか。
幼い子には酷な話だが、この世界ではありふれた話の一つだ。
ジュルターたちが話している間に二人の話も終わり、サフィがこちらに来る。
男の子はじっとジュルターたちを見ているが、動く気配はない。
しかし、その目にはしっかりとした意志を感じた。
男の子に軽く手を振り、一軒家に向けて歩き出す。
「あの子に話したよ、今から吸血鬼を討つって」
「あの子は何と?」
「吸血鬼を滅ぼしたら、私と同じように村を出るって言ってた」
緩慢な苦痛による破滅より、どれだけ辛くとも賭けに出て生を掴む方を選んだ。
その選択の是非は分からないが、嬉しくは思う。
後は吸血鬼を討つだけだ。それが村に何をもたらすとしても。
***
「日当たりの良さそうな一軒家だね、吸血鬼の住処には勿体ないよ」
一軒家を見てのアウリウの感想に同意する。
東にある大きめの窓を開ければ、朝日が家の中を明るく照らすだろう。
吸血鬼にとっては忌々しい光のはずだが。
「相手が吸血鬼でなければ、家に火を放つんだがな」
「手持ちの油じゃ周囲を覆うのは無理かな、燃やす物もあんまりないし」
人間が一人で寝ているのなら、
家の周りに油でもまいて火を付ければ奇襲するまでもない。
吸血鬼が相手となるとそうもいかない。
多少の火勢では強行突破される危険性があり、
こちらは奇襲の機会を失ってしまう。
危険は承知で家に踏み込むしかない。
頻繁に人の出入りがある田舎の家なので、大掛かりな罠はないはずだ。
強力な魔道具がある可能性も考えたが、
危険性ばかりを気にしていたら踏み込めない。
先の見通せない暗闇を突っ切るしかない。結局の所そんな事ばかり。
「さて、ここからどうしようか? 全速力で突っ込んでいく?」
「普通に歩いて向かう。見られていても構わない」
見られていた場合、走って向かえば非常事態だと伝えているようなもの。
普通に歩いていけば、客人か道に迷った旅人かと誤認してくれるかもしれない。
案外、堂々としている方が気付かれない事も多い。
何より現在位置から一軒家はかなり遠く、
走って無駄に体力を消耗したくはない。
相手は黒炎を操る吸血鬼。
対抗手段のないジュルターは服に触れられた時点で死が見える。
顔を覚えられているかもしれないサフィを後ろに隠し、
真っ直ぐに家へと向かう。
「サフィちゃん、白炎は切り札だから、ここぞの時まで温存しなきゃだめだよ」
「できるだけやってみる」
アウリウも黒炎を切り札としているので忠告しておいたのだろう。
黒炎と同じように、白炎も血を消費して発動するらしい。
人間であるサフィは血を自分で作れるが、血を吸う事はできない。
白炎を使う事は出血と同義。使い過ぎれば体に不調をきたし、最悪死に至る。
怒りのままに乱発しないようにという注意か。
不自然にならないように周囲を警戒しながら進み、家の前まで来た。
周辺には何もなく、ただの見晴らしのいい場所。罠の心配はないだろう。
どうやって家に踏み込むか、わずかな時間を使って考える。
可能な限り音は出さず、しかし自然に。これが最善とはいえずとも最良だろう。
隣のアウリウに目線を送り、扉の取っ手を回してもらう。
鍵も罠も掛けられていなかった扉は、あっさりと開いた。
「間取りは」
「大丈夫、覚えてる」
サフィが手で進行方向を示してくれるので、その通りに家の中を進む。
調度品の類がほとんど見当たらない。生活感が皆無。
「ここが寝室……ううん、奴の餌場」
音を出さないように扉を開けると、
大きな部屋の中心にある簡素な寝具が目に入った。
暗い部屋の寝具では男が寝ている。奴が吸血鬼だろう。
部屋の中には調度品が雑多に置かれており、
この部屋しか使っていないような印象を受けた。
男は完全に無防備であり、武器も近くにはない。絶好の機会。
しかし、この部屋に何か違和感を覚える。
一旦待つようにとサフィに伸ばした手が空を切った。
ジュルターをすり抜け、低い姿勢で寝具の男に突っ込むサフィ。
制止の声を出すのを躊躇ってしまったわずかな時間。
男の手が動き、サフィの足元に突如として黒炎が発生した。
「あ……っ!?」
全く予想していなかった足の痛みに転倒してしまうサフィ。
男は着ていた薄い毛布をサフィに巻き付け、引き倒す。
距離が離れていた上に一瞬の出来事で、対応しようがなかった。
「熱烈な夜這いは好まないんだがね」
男がゆっくりと起き上がる。
黒炎が灯した蝋燭の明かりで男の姿がはっきりと見える。
同じ男から見ても嫉妬や羨望さえ湧かぬ美貌。青白い肌、赤い瞳。
吸血鬼。これで目にするのは二人目だ。
「分かった! 調度品、適当に置いてるわけじゃない!
そいつの手を見て、鋼糸が部屋中に張り巡らされてる!」
ジュルターと同じように違和感を覚えていたのか、
アウリウが部屋の謎を看破する。
目を凝らしてみれば、明かりに照らされ光を反射する糸がちらりと見えた。
槍を構えて部屋に入る。アウリウも細剣を抜いた。
「俺たちに気付いていたのか」
「いいや? 家畜へのお仕置き用に設置してあったのさ。
どうしても今すぐ僕に抱かれたいと入り込んでくる馬鹿がいるんでね」
吸血鬼の言う家畜とは村人たちの事だろう。
自分たちに関係のない罠に突っ込んでしまったという事か。
サフィは身じろぎをしているようだが、大きな動きはできていない。
吸血鬼は毛布を一瞬で黒炎に包む事ができる。
白炎で相殺しても、被る毛布が火に包まれる事には変わりない。
自分が今どちらを向いているのかも分からないので、迂闊に動けないのだろう。
その冷静さは部屋に入る前にこそ発揮してほしかったが、それは酷か。
吸血鬼への憎しみを煽り、無理矢理に立たせたのはジュルターだ。
憎しみの炎は体と心を動かす原動力となるが、その炎は制御するのが困難。
時に理性や状況を無視して体を動かしてしまう。自らが犯した失態。
頭を軽く振って自責の感情を追い出し、努めて冷静に敵を見据える。
状況は非常に悪い。吸血鬼はいつでもサフィを殺せる。
部屋には鋼糸が張り巡らされ、足場が悪く黒炎による奇襲もあり得る。
吸血鬼に有効打を与えるような飛び道具もない。このままでは手詰まりだ。
どうするかを考えていると、吸血鬼が手をこちらに掲げ、
知らない言葉で歌いだす。
次の瞬間、横からアウリウに突き飛ばされ、左腕を鋭い刃物がかすめた。
そのまま立っていたら胴を貫かれていた。
「魔術か!?」
「風の矢。吸血鬼の古語で詠唱してた」
部屋から一時出ようとしたが、吸血鬼は毛布を持つ手を軽く上げる。
もし出れば即座に焼くという脅しに、足を止めるしかなくなった。
目に見えない飛び道具まで。状況は更に悪化した。
家に火をつけず、中に踏み込んだのだけは正解だった。
こちらが吸血鬼を見失った状態で、
開けた屋外で狙撃されていれば確実に死人が出ていただろう。
続いた失策による不利を挽回する事はできそうもないが。
「やはりそうだったか、麗しの君。ようやく来てくれた我が伴侶」
突然芝居がかった口調で喋り出す吸血鬼。
誰に話しかけているかなど、考えるまでもない。
「初対面の相手に伴侶認定されても困るかな、はっきり言うと気持ち悪い」
「つれない事を言わないでくれ、君のために作り上げた王国なのに」
「……悪趣味な餌場の主が結婚相手だなんて、百回死んでもお断りだよ」
嫌悪をむき出しにして吐き捨てるアウリウ。
女吸血鬼を引き寄せるために村を餌場と化したのか、
たまたま作った餌場に女吸血鬼が来ただけなのかは分からない。
ただ、この村の現状が"王国"と称されるのは分かる気がした。
王に異を唱える男たちはおらず、
女たちは王より賜る快楽だけを求めて日々を過ごす。
そうやって最低でも半年間、この村は人間が生活を維持できている。
吸血鬼を王とした王国と言ってもいいかもしれない。最低最悪の国だが。
「確かに、今ここには女しかいないが、君がいてくれれば男も快楽の虜にできる。
我が王国は完全なものとなるのだよ」
「滅んでから土の中で、一人だけでやっててくれない?」
アウリウが素っ気ない返答をしている間に、状況を打破する方法を探す。
サフィが人質に取られている状況で、部屋には黒炎が伝わる鋼糸の罠。
接近する事自体が困難を極める。
しかも吸血鬼には見えない矢を放つ魔術という飛び道具があり、
こちらに投げる物が数個しかない以上、遠距離戦では勝ち筋が全くない。
部屋は広めだが、風の矢を一度躱す事ができれば辛うじて組み付ける距離。
敵の気を逸らす方法はあるが、一度きりの奇策で二度は使えない。
どうするかを悩んでいると、
アウリウがジュルターにしなだれかかり、背に手を回してくる。
「あたしにはこの人がいるもの」
「その奴隷も王国に加えればいい、歓迎するぞ」
嫉妬心を煽る挑発は効果がなかったようだ。
挑発はおまけで、本命は印を結ぶように背を動く彼女の指。
事前に決めておいたいくつかの作戦の内、どれを使うかを伝えてくる。
伝えられた作戦は決めていた中で最悪に近いもので、
一歩間違えば死が見え、確実に無傷ではいられない荒業。
「この人はそういうのじゃないから。ねっ、愛しのあなた」
「恥ずかしいからそれは止めてくれないか、他の呼び方は?」
「他にどう呼べっていうの、これしかないでしょ」
惚気ているような会話の中で意思を確認する。
確かにアウリウの言う通り、勝ち筋を通せるとしたらこれしかない。
最も死線を潜る事になる彼女がそれしかないというのなら。
「人前では程々にしてくれよ」
「それは聞けないかな、可愛いわがままなんだからいいじゃない。
……もうその機会もなくなっちゃうんだから」
表情には出さなかったが、アウリウの返答に覚悟を決める。
機会は一度。それにジュルターも命を懸けると。
アウリウがジュルターから離れ、前に立つ。
そして、細剣を目の前に投げ捨てた。
「勝ち筋が全く見えないから降参するよ。
あたしがあんたの物になるから、この人とその子だけは助けてくれない?」
「見逃す理由がないが」
「彼が背負ってるの、もうすぐ咲きそうな災いの花だよ。
果ての岬まで運ばなくてもいいの?」
吸血鬼の返答が遅れる。アウリウの言う事が本当かどうか考えているのか。
背負った籠を床に置き、イェシルの蕾を軽くつつく。
「そろそろ咲きそうだけど我慢してる。
岬まで行かなくてもいいなら、ここで咲いてもいいかな」
意図を理解していたイェシルが、きっちりと煽る。
村娘のサフィですら知っていた災いの花を、
この地で数年暮らした奴が知らないはずがない。
花が咲けば、自らの王国が消滅しかねないという事も含めて。
吸血鬼は忌々しげにイェシルを睨み、少しの間悩んでから言った。
「いいだろう、その男だけは見逃そう。ただし必ず災いの花を岬まで運べ。
この娘は駄目だ。我が顔に傷を付けた白き炎の子、必ず血を啜ると決めている」
「流石にそれは通してくれないか、それでいいよ」
ここで抗弁しても意味がないので、アウリウは交渉を打ち切る。
吸血鬼は手招きをしてアウリウを呼ぶ。
籠を背負おうと手を出した時、吸血鬼はそれを止めて言った。
「待て。逃がすとは言ったがまだ動くな。
伴侶との誓いを見届けてから無様に逃げるといい」
何を言われるかと一瞬身構えたが、あまりの悪趣味さに呻き声が漏れた。
わざわざアウリウが奴の物になる所を、ジュルターに見せつけようとするとは。
「悪趣味が過ぎて泣けてくるんだけど。
女が自分から抱かれに来るくらい、もう少し恰好付けられないの?」
「分不相応な恋人ごっこの終わりには相応しいだろう。
そもそも、人間と吸血鬼が本気で結ばれると思っていた訳でもあるまいに」
子供をたしなめる親のような口調。
吸血鬼にとってはそれが当然の事なのだろう。恐らく人間にとっても。
命の時間が違い過ぎる異種族が共に暮らす事はできない。それは一つの真理だ。
アウリウは悲しげに首を振ると眼鏡を外し、そっとジュルターの懐に入れた。
「あたしだと思って持っていて。今まで楽しかったよ」
そう言って見せた儚い笑顔に、激しい不安を感じた。
ほぼ事前の作戦通りに進んでいる。この言葉もその一つに過ぎないはずなのに。
まるで、本当に今生の別れでもしているような。
引き止めたいが、そんな事をすれば本当に勝ち筋が消えてしまう。
葛藤が表情に出ていたのか、
吸血鬼は下劣極まりない満面の笑みを浮かべている。
アウリウが吸血鬼の元に歩み寄る。鋼糸の罠が動く気配は当然ない。
アウリウが近づくと、吸血鬼は小柄な彼女を強引に抱きとめ、
ジュルターに対して横を向く。
誓いの口付けをわざわざ見せるようにしている。陰湿さに反吐が出そうだ。
ジュルターの心情はともかく、位置自体は最良といえる。
二人の状況がよく見える位置を選んでくれたのだから。
吸血鬼がアウリウに口付けようとした瞬間、
アウリウは吸血鬼の首筋に噛みついた。
そして全力で血を吸いあげる。
驚いた吸血鬼がアウリウを引きはがそうとするが、
しっかりと食らいついた牙は抜けない。
血を吸う音が乾いた啜り音に変わった時、
ようやく吸血鬼はアウリウを突き飛ばした。
「もう炎は使えない!」
アウリウが苦しそうに叫んだ、待ちに待った言葉と同時に床を蹴る。
吸血鬼の戦闘能力は黒炎に依存している場合が多い。だからそれを封じた。
黒炎を使用するための血がなければ、奴は強みを一気に失う。
そのための策だった。
吸血鬼は突っ込むジュルターに目をやり、サフィを包んでいる毛布を引く。
咄嗟の判断でまず人質という卑劣さが仇となり、炎は出ずに貴重な時間を使う。
毛布を捨て、次に行ったのは詠唱の開始。魔術を使うつもりだ。
槍を離し、手に持っていた物を投げつける。
小さな球は床で跳ね、光と音を発する。同時に叫んだ。
「目を閉じろっ!」
ジュルターの警告に驚き、咄嗟に顔を背けてしまう吸血鬼。
玩具のはったりで得たわずかな時間。それだけあれば十分な距離だ。
全速力を維持したまま低い姿勢を保ち、吸血鬼の腰を抱え込むように突撃する。
不自然な体勢でジュルターの重量と威力に耐えられるはずもなく、
吸血鬼の頭を床に叩きつけてやった。
血を失っているので再生もできない。衝撃で動けないうちに終わらせる。
「サフィ、杭を!」
立ち上がって吸血鬼の体を蹴り、背を向かせる。
小鉈を一薙ぎして両膝下の腱を斬り、再度蹴りを入れて仰向けにする。
吸血鬼の完全な滅ぼし方はアウリウから聞いている。
膝下の腱を切った状態で、心臓に木の杭を打ち込む事。
毛布を振り払ったサフィは、しっかりと杭を手に持っている。
怒りで顔を歪ませるサフィに頷き、準備が整っている事を伝える。
サフィは吸血鬼の側に立ち、
何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉を出す事はなかった。
何も言えなかったのか、何も言う事がなかったのかは分からない。
杭を白い炎が包む。少女の激怒を表すかのように。
サフィは言葉を発する事なく、両手で持った杭を吸血鬼の胸に打ち付けた。
腐肉を焼いたような臭いが立ち込め、燃える杭が心臓を貫く。
炎が消えても吸血鬼の体は灰になったりせず、一切動く事なくそこにある。
後は埋葬してしまえば、次の日には完全に消滅するという。
吸血鬼に止めを刺した事を確認して、すぐにアウリウを抱きかかえる。
アウリウの体にはまったく力が入っておらず、
虚ろな目で苦痛に顔を歪めていた。
吸血鬼にとって死血は劇毒。同族の血も死血と同じく毒となる。
黒炎と再生を封じるために同族の血を吸うこの作戦は、荒業もいい所だ。
このままではアウリウは死を迎え、百年後の蘇生を待つ身となってしまう。
黄色の外套を脱ぎ捨て、アウリウの頭がジュルターの首筋に当たるように抱く。
それを見たサフィは辛そうな顔で目を背ける。
事前に通達しておいた作戦の通りなのだが、少女には受け入れがたい事だから。
人間の血を吸わせることで、毒を再生力で無理矢理耐え凌ぐ。
どの位必要かは分からないが、少なくとも時間稼ぎはできる。
一軒家から村に戻り、一人か二人を連れてくるくらいには。
「アウリウ、聞こえているな?
早く俺の血を吸うんだ」
アウリウがゆっくりと頭を動かす。
首に突き立てられる牙の痛みと快楽に耐えようと身を強張らせたが、
彼女は首筋にではなく、ジュルターの頬に唇をそっと触れさせた。
「……ごめん、作戦は嘘ついた。最初からあなたの血を吸うつもりはなかったの。
不死者なんだから一回くらい死んでも問題ないよ」
「死なれては困る」
「いや、だから死なないんだって……」
「俺は百年も生きていられない」
吸血鬼の復活には最低でも百年を必要とする。
つまり、今生の別れになる。それは嫌だと思った。
「一度なら耐える事もできると言ったのはアウリウだ。
時間がない、早く吸ってくれ。耐えてみせる」
「絶対にいや」
静かに首を振るアウリウ。
こうなれば腕を口に押し込んででもと考えた時、
横からサフィが腕を出してきた。
一度大きく息を吸い、決心を固めて言ってくる。
「私の血を吸って。ジュルターさんはその間に村の人を連れてきて。
白炎を使えなかったから、血は十分にある」
「馬鹿な事言わないでよ……」
「確か言ったよね、"異性の"吸血鬼に血を吸われると激しい快楽を感じるって。
だからあいつはお父さんたち男を排除するように仕向けたんでしょ?
私なら女同士だから耐えられる」
なおも力なく首を振るアウリウの口元に、自身の腕を押し当てるサフィ。
「責任を取らせて。私が貴方たちを巻き込んだ。
最初に勘違いで貴女を殺そうとした。
私が突っ込んだ所為でこの作戦を使わざるをえなかった。
だから、お願い」
優しい笑顔で頷くサフィ。
アウリウはサフィの腕にそっと手を置くと、小さく頷いてジュルターに言った。
「……なるべく急いで、血が足りなくなるから」
「分かった!」
アウリウをサフィに預け、全力で床を蹴る。
扉の取っ手を回す時間さえ惜しい、閉めていなくて正解だった。
急げ。だが焦るな。体力の配分を常に意識して走れ。
思考だけは冷静なまま、ただひたすらに走り続けた。
***
村に辿り着いてすぐ、
その辺りを歩いていた村人の女に声を掛け、一軒家に急いで戻る。
説得に時間が掛かるようなら殴り倒して背負っていくつもりだったが、
吸血鬼が呼んでいると一言告げただけで喜んでついてきた。
楽でよかったが、村の行く末を考えると何とも言えない気分になった。
村までの道は息が上がるほどの速度で走ったが、
一軒家に戻る時は村人が一緒なので息を整える余裕さえあった。
急ぐと言ったのに遅い歩みの女。
その背を蹴り飛ばしたい衝動を何とか抑え、手を引いて可能な限り急いだ。
一軒家の前で、女に目隠しをする。
吸血鬼がそうしろと言ったと嘘をつけば、あっさりと信じた。
吸血鬼の奴隷にとって主の命令は絶対。
その命令を誰が発したかなど疑問に思う思考力はもうないのだから。
手早く中に入り、アウリウとサフィのいる部屋に直行する。
二人がどうなっているか不安で仕方なかったが、きっと無事だと信じて。
祈りながら部屋に入ると、
扉の側に置いていたイェシルがジュルターを見てきた。
安堵の笑顔。何とか間に合ったらしい。
腕を押さえて青白い顔で座っているサフィ。
そして、サフィの近くで横になっているアウリウ。
部屋に入ってきたジュルターに気が付くと、
わずかに手を上げて生きている事を伝えてきた。
女をアウリウの側に連れて行き、座らせる。
アウリウの体を起こし、女に抱きかかえさせるような姿勢をとらせる。
快楽への期待でずっと薄笑いを浮かべていた女の口元が、違和感で閉じられる。
当然だろう。この場で自分を抱くのは男の吸血鬼のはずで、
今抱きしめているのは小柄な女なのだから。
アウリウが女の首筋に牙を突き立て、血を吸う。
女は快感を感じてはいるようだが、全く物足りない様子で戸惑っている。
三呼吸ほどの時間で吸血は終わり、
アウリウは女から離れてよろよろと立ち上がった。
「後始末お願い」
至近距離で聞こえた鈴が鳴るような声に女が戸惑う間もなく、
後ろから近づき首を絞めて落とした。
女を床に寝かせる。一気に血を失い、意識も失わせたが死ぬほどではない。
「大丈夫なんだな?」
「うん。苦しいのは残ってるけど、もう死ぬ事はないから安心して」
いつもの笑顔に胸を撫で下ろしたかったが、聞く事がもう一つある。
「サフィは?」
「……私は平気。快感って言ってもそれほどじゃなかった。
血を失って気持ち悪い方が強くて、二度とはやりたくないって思うよ」
吸血鬼の奴隷たちのような淀んだ目ではない、しっかりとした意思を持つ目。
二人とも無事だった。
ずっと抱えていた不安が、大きな息と共に外に出て行った。
「サフィちゃん、この人知り合いとかじゃないよね?」
「顔は知ってるくらいかな……」
連れてきた女がサフィの母親であったら最悪だったが、
その可能性もなかったので心から安堵した。
そんな事を気にする余裕もなく、
目に付いた村人を一呼吸でも早く連れていく事だけを考えていた。
アウリウに近づくと、彼女は両腕を大きく広げて抱きつく構えをとる。
この状況でそういう事をするのは気恥ずかしく、
預かっていた眼鏡を差し出した。
「預かり物は返すぞ」
「さっきは抱きしめてくれたじゃない」
「必要がないのに、人前であんな事できる訳ないだろう」
眼鏡をかけてやる。見慣れたいつもの姿。
何とか全員無事に、村を餌場にしていた吸血鬼を討つ事ができた。
吸血鬼の死体を、胸に刺さった杭を落とさないように抱える。
イェシルの籠はアウリウが背負い、一軒家を後にする。
「私はあの子を迎えに行くから、決めておいた場所で合流しよう」
「かなり血を失ったはずだが、一人で大丈夫か?」
「そいつを一人で運ぶ方が怖いから」
そう言って村へ走って行くサフィ。
杭が心臓に突き刺さっているので間違いなく死んでいるのだが、
吸血鬼の不死性というものは、詳しく知らない者には恐怖の対象なのだろう。
これでも起き上がってくると思わせるくらいには。
「後はこいつを適当な所に埋めればいいんだな」
「埋葬しなきゃいけないって知られてなくて、復活しちゃう吸血鬼って多いんだ。
吸血鬼たちが秘匿してるんだろうね」
アウリウは吸血鬼を滅ぼす方法を秘匿するどころか、聞かれれば詳しく答える。
ジュルターが詳細に知っていたのも、酒の肴に聞かされていたからだ。
滅ぼしてほしいのだろう。一人でも多く。
しばらく村から離れるように歩き、
目印になりそうな物が何もない場所を選び、槍で穴を掘る。
低級の魔道具で頑丈さだけが取り柄なので、こういう作業にも使える。
こんな奴のために労力を費やして深い穴を掘りたくもなかったので、
最低限体が埋まる程度の穴を掘り、そこに放り込んで埋めた。
胸に刺さっていた杭が墓標のように土からわずかに出ている。
至近距離で注視しなければ気が付かないような墓標。
明日までは発見される事もないはずだ。
イェシルの籠を預かり、合流地点に急ぐ。
村から可能な限り早く離れたい。
吸血鬼がいなくなった事が知られれば、この村は戦場の方がましな有様になる。
血眼になって吸血鬼を探す奴隷たち。三日見つからなければどうなるか。
責任の擦り付け合い、そして暴力、狂乱。
一瞬の快楽だけを求めて生きる奴隷。自制など期待するだけ無駄だ。
かと言って病み上がりのような状態のアウリウに無理をさせる訳にもいかず、
合流地点に辿り着いた時には随分辺りが暗くなっていた。
わずかに身を隠せるような大木の陰で座っていたサフィと少年に声を掛けると、
二人とも安心したようで微笑んだ。
「おじさん、ありがとう。サフィお姉ちゃんに会わせてくれて。
僕も自分で選んだよ」
「君の選択に幸運がある事を祈るよ」
少年と握手を交わす。手はしっかりと握られ、少年の意志をはっきり感じた。
確実に大丈夫だなどとは言えるはずがないが、そう思わせてくれる顔だ。
「ジュルターさん、アウリウさん……ありがとう。
私一人だったら、間違いなく吸血鬼に負けてた」
一瞬イェシルの名を言いそうになって、口籠りながら礼を言うサフィ。
何も知らない少年の前で言う事ではないので、心の中で安堵の息を吐いた。
「そうだ、これ渡しておくね」
アウリウは荷物から袋を取り出し、サフィに手渡す。
ずっしりと入った金属が細かな音を立てる。
中身を確認したサフィは、驚いてアウリウと袋の中身を二度見した。
中は見ずとも分かる。ジュルターも同じ物を前金として貰ったからだ。
「これ、お金、こんなに!?
私が迷惑かけたのに、こんなの受け取れないよ!」
「命の恩人へのお礼なんだから、受け取って欲しいな。
その子の面倒も見るつもりなんでしょ?」
「戦い方を教えてくれた師匠がいるから、そこに行こうと思ってて。
だからお金なんて……」
「あって困る物じゃないから受け取って。
そのお師匠様、子供二人も面倒見られるお金持ってる人なの?」
半ば強引に袋を押し付けるアウリウ。
サフィの話す師匠とやらが善人ならそれでいいが、
彼女の白炎に目を付けていたりすれば話は変わってくる。
普通の少年は要らないと追い出される可能性もあるのだ。
金があれば、多少なりとも選択肢が増える。
長年の旅で金の重要性を分かっているから、強引にでも渡したのだ。
「大丈夫、どうせ泡みたいなお金だし。遠慮なく使っちゃって」
「……ありがとう」
袋を抱きかかえるようにして、サフィは深々と頭を下げた。
少年も同じように頭を下げる。
アウリウはそんな二人を優しい目で見ていた。
「おじさんたちはどの辺りまで行くの? もしよかったら……」
「俺たちは西へ行く。君たちとはここでお別れだ」
「西? 西にはもう、果ての岬くらいしか……」
「そこが目的地だ」
体をひねり、背のイェシルを軽く見せる。
聡い少年はすぐに察したようで、少し怯えながらも小さく頷いた。
「君たちには名残惜しいかもしれないが、すぐにここを離れよう。
完全に暗くなる前に、少しでも村から離れるんだ」
「分かってる。行くよ」
「うん」
サフィと少年は手を繋ぐ。
その目にはわずかな恐怖と、しっかりとした決意がある。
ジュルターたちにできる事はもうない。
後は二人が幸福に生きられるようにと祈るだけ。
「本当にありがとう!」
「こっちこそありがとう、二人とも元気でね!」
手を振り合いながら、真逆の方向へと歩き出す。
振り向く事はしなかった。サフィたちも同じようにしただろう。
振り向けば未練が残る。未練を残しているように期待させてしまうから。
村から十分に離れ、辺りが暗くなってきた時、
サフィにイェシルが何も聞かなかった事に思い至った。
***
身を隠せるような場所がほとんどない草原での野宿。
薪に使えるような物もなく、
ランタンの小さな光だけがジュルターたちを照らす。
アウリウを休ませようと声を掛けようとしたが、
わずかに早くイェシルが口を開く。
「どうして?」
今回はアウリウに聞きたい事があるらしい。黙って続きを待つ。
「どうして死ぬかもしれないのに、ジュルターの血は吸わなかったの?」
「前から言ってるじゃない、敵か介錯でしか吸わないって。
それに気に入ってるから半死人みたいにしたくないとも説明したし……」
「そういう理屈を聞きたいんじゃない、って事だ」
アウリウの返答を遮り、イェシルが言いたかったであろう意図を明確にする。
ジュルター自身の言葉でもある。彼女がそうした理由の本質が聞きたいと。
アウリウは俯いて黙ってしまう。歩く音だけが分厚い曇天の下で響く。
何も言わず、ただ彼女が話し出すのを待つ。
ころころと表情を変えて悩んでいたアウリウは、
吹っ切れた顔で自身の髪をくしゃくしゃにしてから話し始めた。
「……大事な人には、生きる事を余す所なく楽しんでほしいから」
ジュルターを見ながらの言葉は、
ジュルターを通して他の誰かも見ている気がした。
恐らくは、アウリウの初めての友達。
「吸血の快楽に一回なら耐えられるかもしれないって言ったよね。
一回でもやったら終わりなんだよ。
吸血以外の快楽が全部半分になっちゃうから。
何をしても半分しか楽しくない。何を食べても半分しか美味しく感じない。
二回で更に半分、三回で更にもう半分。
三回で終わりっていう意味、分かった?」
「それって、死ぬまでずっと?」
「そう、ずっと。一応耐えられる人もいるんだよ。
死ぬまで一生耐えなきゃいけないだけで」
恐ろしい事実を淡々と語られ、身震いがした。
耐えるのは一時であり、気を強く持てば大丈夫だと楽観的に思っていた。
一生、何をやっても半分しか楽しさを感じない。
耐えられる者はそうそういないだろう。
「そういう目で見られるのが嫌だから、あんまり言いたくなかったのにな」
悲しそうな微笑み。
それを向けられた瞬間、自分の頬を全力で叩いた。
「突然なに!? 毒虫でもいた!?」
「いや、自分に腹が立って殴りたくなっただけだ。
俺だけ無傷だったからな、丁度いい」
「そんな事しなくても、言ってくれれば引っ叩いてあげたのに」
「どうせ加減するだろう」
「あらら、ばれたか」
アウリウの顔から悲しみが消え、苦笑に変わる。
苦笑とはいえ笑顔だ。そちらの方が彼女には似合っている。
自分に怒りを覚えたのは本当だ。
長い付き合いの友人が一番嫌う、怯えを向けてしまうなど。
吸血鬼だという事は五年も前から知っていただろうに、今更そんな事で。
アウリウは目の前で手を一度叩き、軽く息を吐く。
仕切り直しにするようだ。話に集中する。
「好きな人には笑顔でいて欲しいって言うじゃない。それと同じなんだと思う。
だからあたしはジュルターを気に入ってる。
あたしが吸血鬼だって知ってて一緒にいるのに、
お構いなしに人生を楽しむあなたが」
「そういう奴はいなかったのか?」
「あたしが吸血鬼だって知ったら、みんな変わっちゃうんだ」
好奇や敵意、恐怖を向けられる事は当たり前。
歓喜や懇願を向けられた時は泣きそうになったという。
「自分も不死になりたいからどうすればなれるのか、とか聞いてきた人とかね。
そういう種族として生まれただけなんだから、知ってるわけないじゃない」
好意を持った相手にそんな事を聞かれた彼女の悲しみは如何ほどなのか。
察する事しかできないが、心の傷になっているのは間違いない。
「そういえば、あなたはそういうの一切なかったよね。どうして?」
最初は警戒していたのだが、共闘した時にそれも消えた。
なぜなのかを考えてみたが、理由はすぐ一つだけに絞られた。
言葉にすると蹴られそうだなと思いつつ、正直に答える事にする。
「興味がなかったからだ」
「……もしかして、友達だと思ってたのあたしだけ?」
「最初はそうだった。一期一会の同僚でしかなかったからな」
アウリウはしゅんとしてしまうが、ここで嘘はつきたくない。
彼女が吸血鬼かどうかなど特に興味もなかった。
敵として対峙した時のため、吸血鬼を滅ぼす方法を調べたくらいか。
「何度か共に行動する内に、興味がないからどうでもいいに変わった」
「そろそろ泣いていいかな?」
「吸血鬼だという事なんてどうでもいい、大切な友人であるだけだとな」
本当にどうでもよくなったのだ。
同じ傭兵の身で、生まれが貴族だろうが貧民だろうが何の関係もない。
価値観がほぼ同じであるなら、種族の違いも同じ事だと気が付いた。
「だから今も、アウリウが吸血鬼だという事自体にはあまり興味がない。
信頼して背を預けられる戦友、それ以外はどうでもいいからな」
ジュルターの返答にアウリウは笑顔を見せたが、
疑問でもあったのか笑顔が複雑に強張ってしまう。
何やらそのまま葛藤していたが、気にしないで話を続けるようだ。
「……そう思ってくれる人に一生続く拷問なんて、したい訳ないじゃない。
そんな事する位なら死んだ方がましだよ」
実際に死を選ぼうとした姿を先ほど見ている。
ジュルターの血を吸わなければならないのなら、
あの時のように躊躇いなく自らの命を絶つのだろう。
アウリウにとって人間の血を吸う事は、死よりも辛い生涯続く拷問を与える事。
どうしようもない奴の血は吸い、死んだ方がましな苦痛を与える。
大切に思う者の血は何があろうと吸わない。それが理由だと。
「だからあなたは精一杯生きる事を楽しんで。
もしあたしが死んでも、
変な吸血鬼と一緒にいたって事だけ思い出の片隅に仕舞っておいて」
「仕舞うのは無理だな。隅に置いておいても大きすぎて常に目に入る」
家族の思い出は折れた木と共に仕舞われているが、
この思い出は仕舞える気がしない。
何故かは分からないが、確信のようなものがあった。
アウリウだけではなく、イェシルも含めて。
「どうせ目に入るのなら、見ていて嬉しいものがいい。
俺が生きている間は死なせない」
「珍しく熱烈じゃない。まあ、できるだけ頑張ってみるよ。
そっちも全身全霊を懸けて生きてよ、
あたしのど真ん中に居座ってくれてるんだから」
笑顔のアウリウに苦笑を返すしかなかった。
全身全霊を懸けて生きるのは、ジュルターには難しいからだ。
それには確たる目的が、理由が要る。
全てを懸けても為したいと思うだけの何かが。
武の高み。正直な所、槍を振る以外の能がなかったから求めているに過ぎない。
とりあえず立てた目的に向かい日々を過ごす。
楽しんでいるように見えるのはその所為かもしれない。
ならば、全身全霊で生きるとはどうすればいいのだろうか。分からない。
そんな事を考えていると、アウリウに頬をつつかれる。
「思い通りに生を全うしてくれればそれでいいよ。
くそったれの傭兵稼業、ろくでなしの旅人暮らし、
末は斬死か野垂れ死にってね。
短い命で悩んでるの勿体ないよ。あたしは長すぎるから悩みも尽きないけど」
時の流れが違う異種族かもしれないが、今この時は同じ時間を歩んでいる。
きっとそれだけでいい。どうせ別れは必ず訪れるのだ。
その時までに何をしてきたかこそが重要なのだろう。
死ぬ時に精一杯生きたと胸を張れれば、それで。
それがあまりにも難しいからこそ困っているのだが。
背負っているイェシルと目が合うと、蕾の少女は微笑みを返してきた。
岬で殺すために運んでいる災いの花。
先ほどの話で決めた。
イェシルが伝説の通り災いをもたらす花を咲かせるのなら葬ろう。
しかしそうではないのなら。
何かの理由や原因があって災いをもたらし、止める事ができるのなら。
この槍は花を殺すのではなく、災いを止めて花を生かすために振るう。
「イェシル、満足した?」
「二人ともはっきり言わないのはどうして?」
「言わぬが花って言葉もあるの」
「わたし花だけど、言わないよりちゃんと言った方がいいと思う」
「あたし吸血鬼だから花じゃないもん」
話しながらじゃれ合う二人を見ながら、そう決意した。