2-3 不穏な街角の出会い
果たして可能であった。
博士の屋敷と隣家の壁の両方に手をつっぱって力をいれれば、うまい具合に身体を支えられて、少しずつ下に降りていくことができた。
しかもこの身体、わりと身体能力が高いみたいだ。身が軽い。着地するのも、トンッと軽くできた。外に出ると、そこが街のどの辺りなのかはすぐ分かった。屋敷が丘の上に建っているため、街を一望できたからだ。
(ここは……)
リリアには見覚えがあった。この街の地理も知っているような気がする。しかし、どこで見たのかまでは思い出せなかったし、どうやって来たのかも分からなかったので、それ以上考えるのをやめた。
とりあえず街を歩き回ってみようと思い立ったのだ。服装は11歳の少女としては無難なものだ。動きやすいし、目立ちにくい。袖口や襟元を見ると新しい感じがするので、新しく誂えたものなのだろう。前の持ち主がいたかどうかなんて考えたくないし、博士が常日頃から11歳少女のための洋服一式を用意していたなんて、もっと考えたくない。屋敷の周辺は緑の多い静かなところだったが、少し歩くと商店や市場が立ち並ぶエリアに出た。リリアはキョロキョロしながら歩いたが、特に怪しい人物はいないようだった。ただ、店先に並べられた品物を見ると、洋服屋が多かったように思ったし、看板には外国語が多く書かれていることにも気づいた。
(それにしても……)
すれ違う人々がみんなこちらを振り向くような気がするのは気のせいだろうか? そして時々聞こえる囁き声は何を意味しているのだろうか? どこかで見たような顔もあるが、知っている人ではないと思う。でも向こうは自分のことを知っているのかもしれないという予感がした。
「ねえ、君」
突然声をかけられて振り向くと、そこには若い男が立っていた。髪は茶色で短めだが、どこか女性っぽい雰囲気がある。リリアはハッと思い出した。この男……いやこの女? を見たことがある気がするのだ。どこで見たのかまでは思い出せないが、前に見かけたことがあるような気がするのだ。どこかで会ったような気がしないでもないのだが……
(誰だっけ……? )
確か街中で見たことがあったはずだけども……とリリアは首を傾げた。すると相手は微笑んだように見えたので、なんだか自分が知っている人だと思われているような気がしたのだった。
しかしそのとき、リリアの腹が鳴った。そういえばお腹が空いたかもしれない。でもご飯はいらないと言ってしまったし……いやそもそも必要ないんだっけ?
「君、名前は?」
男の方から声をかけてきたが、名前を聞いているのだろうか。それともこちらのことを聞いているのだろうか? どう答えていいのか分からないので黙っていると、男は続けた。
「そうだなぁ……僕はイライアスっていうんだ」
イライアスと名乗ったその男はリリアの手を掴むと自分の方に引き寄せた。近くで見ると余計に見たことがあるような気がするのだが……でもどこで見たのか思い出せないのだ。
(あ)
ふと、リリアの脳裏に昔の記憶がよみがえってきた。たしか幼いころに両親と一緒に貴族の屋敷で会った気がするのだ。そういえばそのときもこの男は親しげに話しかけてきたような気がするが、こんな優男だっただろうか? それとも私の記憶違いなのか……でも他人の空似というにはあまりにも似ているので、そうなのだろうか……?
「あの……」
リリアは相手の手を振りほどくと、一歩後ろに下がって言った。
「先に名乗って頂いて申し訳ありませんが、いきなり名前を聞き出そうというのは失礼では?」
イライアスと名乗った男は驚いた顔をしたあと、笑ってみせた。
「ああ、ごめんね。驚かせちゃったかな」
その言い方は柔らかく、まるでリリアを口説こうとしているかのように見えた。というか、本当に単なるナンパであるらしかった。かつて自分が貴族の娘であったころ、お忍びで街に出たりしてひとりでいると、よく声をかけられたのを思い出した。もっとも常に兄のマキシムがついてきていて、すべての男性を追っ払っていたのだが。
そして、その頃の記憶と比べると目の前の男は少しも魅力を感じなかったので、お引き取り願いたかったのだが……しかしそのときふと思いついたことがあったので相手に聞いてみた。もちろん丁寧な言葉遣いのままで。
「あの……」
イライアスという男はリリアの言葉遣いが急に変わったことに驚いたようだったが、「ん?」と、やさしく聞き返した。
「ひょっとして……兄のこと、ご存知ですか?」
男がすぐに返事をしなかったため、リリアは少し不安になった。自分が兄の名前を知らないと思われたのかもしれないと思ったからだ。しかしそうではなかったらしいことはすぐ分かった。
「君のお兄さん……僕は知り合いだったかな」
「いえ、どうして声をかけてきたのか気になったで、もしかしたらと思って聞いただけです」
「友人の妹で、こんな可愛らしい子がいたら、僕はすぐに気づくし覚えているはずだと思うんだけどな」
そうか、今のリリアはかつてのケイトではない。分かるはずもなかった。しかしこれは、自分や兄を襲った人物のことを調べるには、うってつけじゃないか。
「ところで、君の名前は?」
男は再度訊ねてきた。リリアは少し考えてから答えた。
「私は……ええと、あの……」
リリアが言葉に詰まると、イライアスと名乗った男は慌てて言った。
「ああ、いいよいいよ! 無理に名前を言わなくてもいいんだ」
「リリアといいます」
「なるほど、リリア! いい名前だ。可愛らしい君にとてもよく似合う」
イライアスは可愛らしいを連呼している。考えてみれば、リリアは11歳という設定だし、この身体は11歳の少女のものだ。……この人、ちょっと危ない人かもしれない。
「あの、私は……」
リリアが言いかけたとき、男が遮った。
「リリア、ああ可愛らしいリリア! お茶でもどうだい?」
そう言って男はニコリと微笑むと、リリアの手を握ってきた。やっぱり危ない人だ。
(……しまった)
お引き取り願おうと思っていたのに、まんまと捕まってしまったようだ。これは失敗だったかもしれない……と思い始めたときだった。イライアスは何かを思い出したかのように、手を打つと言ったのだ。
「そうだ、君とのデートの前に行きたいところがあるんだ。ねえ、つきあってくれるかい?」
リリアが戸惑っていると、イライアスはお構いなしに微笑んで、再度手を握ってきた。「さあ、こっちだよ」
(どうしよう……)
リリアは手を引かれて歩いていくしかなかった。相手が万が一友人の妹だと勘違いしているのなら、面倒なことにはなりそうだが、それは分からない。とはいえ、こういった遊び人からは、街の情報を得るチャンスだし、相手の本当のところの目的も知りたいところだ。ここはひとつ我慢してついていってみてもよいだろう。なにせ一回死んでいるのだ。怖いものなんかない。
それにしても、気のせいかこの男性、懐かしい感じがする。もしかして昔、どこかで会ったことがあるのだろうか? でも思い出せなかった。街中を移動中、ずっとイライアスはリリアの手を握っていて、歩いている間もずっと離さなかったが、それを不快とも思わなかったので深く考えもしなかったのだ。もっとも男の方は「恥ずかしがっているのかな」くらいにしか思っていないのかもしれないが。やがて、イライアスは一軒の店の前で立ち止まった。そこには「ノクターン」という看板が掲げられていた。
リリアはすぐに思い出した。この店のことは知っている。
そう、この店は、まだマキシムとケイトが幼かった頃、長男に連れられてよく来ていたレストランなのだ。とても雰囲気が良くて食事もおいしかったので、今でもよく覚えている。アルジャーノ家は男子の教育には厳しいものがあり、学舎を卒業したら一度は市井に出て自分で働いてお金を稼いで生活することが命じられていた。マキシムのように探偵業を始めたのは前代未聞ではあったが。この店は、長男がアルジャーノ家を継ぐためと家業の勉強をするために屋敷に戻ったあとも、次男夫婦や姉妹たちがよく食事に行っていた。ただ最近は店の評判が広がり、新しい客が入ってくるようになったため、ほとんど行っていなかったのだ。
この男は、兄のように昔馴染みなのか、流行ってきてからの新顔か、どちらだろう? リリアは思わず足を止めてしまったが、すぐにイライアスに手を引っ張られて店内に入っていった。
店は繁盛し、混雑していた。ちょうど昼時だったので、食事を楽しむ客たちであふれている。店の中ほどまで進んだとき、店員がすぐにやってきて席に案内してくれた。
「二名様ですね」
「ああ、頼むよ」
イライアスは愛想よく答えた。そしてリリアに向き合うと、再び優しく微笑んだのだった。この男は本当に常に微笑んでいる。愛想笑いという印象を他人に与えることもなく、どこか安心させられる笑顔だ。おそらく育ちがよいのだ。貴族かもしれない。育ちがよい人間は、基本的に相手を疑うことをしないし余裕があるから、多くは人当たりがよくなるものだ。例外はもちろんいるのだが。店員が、注文をきくと店の奥へと下がっていった。それを見ながらイライアスは言った。
「実はこの店、最近流行っていてね。味もいいけど、なにしろ店員の教育がよく行き届いているんだ」
リリアはなるほどと思った。たしかに言われてみればそうかもしれない。料理の出し方も給仕の仕方もスマートだし、笑顔もよく出ていて感じが良いのだ。こういうお店で働くことができるというのは、料理人にとっても客にとっても幸せなことだろうと思うので、これは良いことだと素直に思ったのだが……一方で少し気になったのは、店員が男性ばかりであることだった。女性がいないというのは少し珍しい。もっともリリアがいつも行っている店では、「接待」などの場合にだけ女性の給仕人が控えているのだが……
そうしているうちに料理が出てきた。イライアスとリリアの前に皿が置かれていくのだが、次々と出てくるので二人は思わず笑ってしまった。まるで一度にたくさんのものを注文した客のように扱われているからだ。そんな二人を見て店員も微笑ましく思ったのか微笑みを見せたので、ますますおかしくなってしまったのだ。そして食事が始まるとその美味しさに二人とも驚いたのだった。
リリアは、知っていた。ここの料理は本当に美味しいのだ。アルジャーノ家の屋敷で出されるような高級な食材を使っているわけでもないし、調味料も特別なものではないのに、素材の美味しさが引き出されているように感じられるのだ。繁盛して味が落ちる店が意外とあるが、この店はそんなことはない。この店を選んだイライアスのセンスはなかなか良い。
加えて驚いたのが、この人形の身体は、ちゃんと食事ができるということだった。博士はどうやってこんな身体を作り上げたのだろう。
そうこうしているうちに、食事を終えてふたりは店をでた。
「ねえ、リリア? 僕達、意外と気があうみたいだし、僕の家にこないかい?」
リリアはため息をついた。結局それが目的か……。しかも、11歳の少女をターゲットにするなんて。少し懲らしめたほうがいいかもしれない。そんなことを考えながら、あやふやな返事をして気をもたせつつ、適当にあしらってから、人通りの多い道へ出た。
「ねえ、リリア?」
なおも言い寄ってくる男に愛想笑いを浮かべながら歩いていくと、不意に声をかけられた。見ると黒い外套に身を包んだ男が立っているのが見えた。男はこちらにむかって歩いてくるが、フードを目深にかぶっていて顔が見えないので男か女かも分からなかった。
「お迎えにあがりました」
そういう声が聞こえた瞬間だった。突然男の腕が伸びてくるとリリアの首に巻きついたかと思うと、そのまま体を持ち上げられて身体を宙に浮かせていたのだった。まるで物でも扱うかのように、男はリリアを軽々と持ち上げると、「リリアさま」と言った。博士の執事、アンドリューのものだった。
「おい、君。何をするんだ。彼女がいやがっているだろう」
「失礼いたします、閣下。こちらは当家のお嬢様で、主人から連れ戻すように申し使っておりますので」
「いや待ちたまえ。レディーの扱いにしては、随分じゃないかね」
「私どもにも主人からの命がありますので。おい、イヌクロ」
「バウ」
大きな黒い犬が、アンドリューの背後から現れた。それを見たイライアスは明らかにひるんでいたが、そこで引こうとはしなかった。ジャケットを脱いでそばにあったベンチの背もたれにかけ、首をごきごきとならすと、身体を斜めに両手を顔の前に、格闘技の構えをとった。何かしら、身につけているようだった。
「みなさん! この場にいる皆さんには、是非に証人になってもらいたい! 私が少女を護ろうとする紳士であるということを!」
イライアスが声をあげると、群衆の中から拍手が起こった。アンドリューはリリアを肩からおろし、イヌクロに下がっているように命令を出した。
彼はイライアスの言葉に反論するでもなく、相対するために格闘技の構えをとるでもなく、かといって武器を出すでもなく、ゆらりと立っていた。
(え? なに? けんかするの? こんなところで? )
リリアは、ふたりを止めないといけないと思いつつ、身体が動かなかった。