2-1 新たな命の目覚め
……目覚めよ、リリア。リリア・サバイバー。
少女を呼ぶ声がする。低く、しわがれた声だ。
救われたのだろうか。少女はぼんやりした頭で考える。考えられる。思考がある。意識がある。自分は存在している。
つまり、自分は、まだ生きている。
「少女よ、自分の名前を言えるか?」
「名前……」
なんであっただろう。花の名前だったような、違ったような。
「君は、今から、リリア・サバイバーという名前を持つ存在だ。自己を固定したまえ」
「リリア・サバイバー」
そうつぶやいた瞬間、ケイト・アルジャーノの知覚が爆発した。自分は、ケイト・アルジャーノ。いや、ケイト・アルジャーノは殺された。
「そうだ。ケイト・アルジャーノは殺された。君は、リリア・サバイバーを名乗るのだ。起きなさい、リリア」
リリアが横たわっていたのは、木製の簡素なベッドだった。
ここはどこなのか? 自分がなぜここにいるのか? 様々な疑問が浮かんだが、それらは全て後回しにしたほうがいいと本能的に悟った。
まず、起き上がらなければ。
リリアは体を起こし、周囲を見回した。どうも部屋というわけではなく、どこか廊下のようなところらしい。床には赤い絨毯が敷かれている。
「目が覚めたかね」
背後からの声に振り返ると、そこには一人の老人がいた。年の頃は六十歳ほどだろうか。背筋を伸ばして立っている姿は堂々としており、その威厳はただの老いぼれとは思えないほどだった。
「私は、君を救い出した。そして、君が目覚めたということは、君の運命は決まったということだ。私と共に来てもらいたい」
「……あなたは?」
「ふうむ。まだ記憶が混濁しているかね。一応自己紹介はしたつもりだが、そういうなら改めて名乗ろう。私はエドリック・ワールドアイ博士。昨夜死にかけた君を回収し、なんとか修復に成功させた功労者だ。命の恩人だと思ってくれて構わんよ。感謝されたいとまでは思わんがね」
「……感謝します」
「気にすることではない。私のほうにも理由はあるし、それは追って説明しよう」
「はい」
「よろしい。では、私の後についてきたまえ」
老人はそういうと、踵を返して歩き始めた。リリアは慌ててその後を追った。
ベッドから降りるとき、バランスを崩しそうになった。足が届かない。違う、足が短い。こうして見ると、手も短い。立って歩けば、視点が低い。そういえば、胸も……。
この体は明らかに、昨日の体とは別ものだ。それも博士に聞けば分かることなのだろうか。
長い廊下だった。両側の壁は分厚い石壁に覆われており、窓もない。明かりは壁に掛けられたオイルランプだけで薄暗い。天井からは蜘蛛の巣がぶら下がり、床には埃が大量に積もっている。
こんなところで生活できるのだろうか、と思ったが、すぐにそんな心配は無用だと思い直す。なにしろ自分は死にかけていて、この老人が命の恩人なのだ。つまり、老人はリリアを匿うためにこんな場所にいるのだ。
老人は突き当たりにあるドアの前で立ち止まった。そして、壁のレバーを下げると、ガチャンという金属的な音とともに、ドアが開いた。
扉の向こうには広い部屋があった。奥には暖炉があり、その前には安楽椅子が置かれている。部屋の隅には本棚があって、分厚い本がずらりと並んでいる。どれもこれも古びてボロボロだ。壁紙も色あせているし、家具にも埃が積もっているのが分かるほど汚れているものが多い。
しかし、部屋の中央に置かれているソファーだけは、妙に真新しい。つい最近新調したばかりなのだろうか。
老人はソファーに向かって歩きながら、振り返って言った。
「ここは私の書斎だ」
そう言って博士が示したのは、壁際にある小さな机だった。机の上には大量の書類と本が置かれており、部屋の中央には大きなガラス戸のついた棚が置かれている。ガラスの中にはラベルが貼られた瓶が大量に並んでいるのが見えた。博士の私物だろうか? それとも実験器具だろうか? しかしリリアには分からないことだったし、それを尋ねる前に博士はソファーに座り、自分の対面にある安楽椅子を手で示した。
「座りなさい」
リリアは言われるままにソファーに座った。博士も腰を下ろし、足を組んで前かがみになった姿勢で話し始めた。
「さて、どこから話したものか……」
博士は顎に手を当てて考え込むような仕草を見せたが、すぐに思いついたようにポンと手を打った。
「改めて名乗ろう。私はエドリック・ワールドアイ博士だ。そして、君の新しい名前はリリア・サバイバー、いいね?」
リリアが頷くと、博士も満足そうに頷き返した。
「よろしい。では、君がどうしてここにいて、私がなぜ君を救ったのかを説明しよう」
博士はそう言うと、指を組んで前かがみになった姿勢で話し始めた。
「君は今の自分の身体を鏡で見たかね?」
「いえ。違和感はありますが」
「まずはそこの姿見で自分の姿を見てくるといい」
リリアは言われるがままに、クローゼットに埋め込まれた姿見の鏡の前にたった。そこに現れたのは、18歳の自分とは似ても似つかない、白い服を着た細身の少女……おそらく10歳くらいの、であった。
「リリア・サバイバーは11歳の少女という設定とさせてもらった」
「どういうことです?」
リリアは困惑しながら博士に尋ねた。しかし、博士は取り合わず、説明を続けた。
「君の肉体はリリア・サバイバーという11歳の少女だ。今朝目が覚めたときから、君はこの体で生きていくことなったのだ」
「……冗談でしょう?」
「私はこんな質の悪い冗談を言わないよ。加えて言おう、その肉体は人間の肉体ではない」
「では何なのです?」
「人形だよ。表面には薄い皮膜をつけて柔らかい素材にしてあるがね。自分の腕を握ってみるといい。骨じゃないだろう? 人形の身体が分かるはずだ」
「人形なのに、どうして私の意識が存在しているのですか?」
「コグジェムだよ。瀕死の君からコグジェムを取り出して、この人形に移植したのだ」
「それが……今の私?」
「さよう。人形であるリリア・サバイバーとして、君は生きていくのだ。君が生きたいと望んだからな」
「そんな……。でも、どうやって生きていけば?」
「君には、コグジェムがある」
博士はそういうと、棚のガラス戸を開けて中から何かを取り出した。それはリリアの手のひらほどの大きさの小さな瓶で、中には明るい色をした灰が入っていた。
「これが君の遺灰……君の身体だったものだ」
博士の言葉に、リリアは思わず自分の胸に手を当てた。しかしそこにあるはずの心臓は鼓動していらず、皮膚の感触だけが手に残るだけだった。
「……嘘です」
思わず口から出たのは否定の言葉だったが、同時にどこかで納得している自分がいることにリリアは気づいた。
「まだ実感がないかね? しかし、君は一度死んでいるのだ。そして、生まれ変わった。何のためにだ?」
「生きたいから……生きて、私とお兄様を殺した犯人に復讐したいから」
「そうだ、それでいい。ところで君の兄君についても聞きたいかね?」
リリアは頷いた。