1-2 探偵助手への第一歩
伯爵は切り出した。「これは当家の存続に関わる問題だ」と。
「伯爵様、そんなにご心配なさらずとも」と、ケイトが合いの手を入れた。
「当家の存続に関わる問題なのだ」と、ファルム伯爵は繰り返した。
「わかります! お兄様の事務所にいらっしゃる方で、まず一番におっしゃるのがそれなんです!」
「私の問題を、他の家のそれと一緒にしないでもらいたい」
「失礼しました。続けてください」
「私は、この問題を解決しない限り、落ち着いて眠ることもできないのだ」
「眠れないんですか?」
「そうなのだ。ここしばらく、恐ろしい夢を見る。それを解決してもらわねば、気になってしかたがない」
ファルム伯爵は腕を組んでうつむき加減で話す。ソフィが紅茶のおかわりを勧めたが断った。そしてさらに続ける。
「その夢というのが奇妙なものでな……毎晩、決まった時刻になると、窓の外からノックの音がするのだ」
と、窓辺に歩いていき、窓を開いた。すると風が吹いた。
「最初は風だと思った」
伯爵は、紅茶のカップを手に取った。
「だが、そうではないようだと気づいた」
ファルム伯爵はまた窓を開いた。そしてまた風が吹いた。ソフィが窓の鍵をかけた。伯爵は窓の外を見て言った。
「この部屋は街中にすぎる。少し空気が悪いな」
「最近になって、石炭を使った蒸気式の馬車──自動車と言いますが、そういったものが走っていますからね」
「これだから都会は好きになれん」
「それで……、伯爵様の部屋の窓がノックされたんですね」
「そうだ。最初は気のせいだと思ったのだが、毎日続くとなると気になって眠れないのだ。なぜノックなどするのか、そして誰がやっているのか」
「あら、それなら窓から外を覗いてみればいいじゃないですか」
ケイトが言った。すると伯爵は鼻で笑って答えた。
「それができないから困っているのだ」
窓の外から窓を叩くには、相当に身長が高くなければ難しいだろうというくらいの高さだった。伯爵の屋敷は三階建てで、彼の部屋は最上階の南東向きにある。三階の窓を、普通の人間がノックできるはずもないし、周囲は園丁で、隣の建物から飛び移るといったことも不可能とのことだった。
「お屋敷の図面を拝見できますか?」
「いいだろう。これだ」
伯爵はコグジェムを起動し、その場にいた全員に見えるように図面を空中に展開した。ケイトはそのうちの三階の間取り図を手元に移動させ、細部まで確認した。南東の部屋も隣接部屋にも、テラスなどはなく、窓をノックするには壁に掴まるといったことをしないとならない。また隣接する部屋との間におかしな隙間などもなく、他の場所で発せられた音が窓から聞こえるような伝わり方をしている風でもなかった。
「伯爵様、窓の下は?」
「もちろん確認した。隙間などない」
ファルム伯爵の部屋の真下は、ちょうど裏路地になっていた。窓を開けて顔を出しても、窓が開いていることがばれてしまうような位置関係だ。
「それじゃあ……」
とケイトが言ったところで、応接スペースの入り口に人影が立った。そこにいたのはマキシムだった。彼は手に紙袋を持って入ってきた。
「遅くなったね」と、いつもの穏やかな口調で言った。
「お兄様!」
ケイトがそう言うと、伯爵は少し驚いたようだった。
「おお、貴殿がマキシム殿か」
「いかにも。私が探偵のマキシムです」
マキシムは伯爵の向かいの椅子に腰かけた。
「ちょうどよかったわ! お兄様、この話、どう思う?」とケイトが言った。
「そうだね……窓の下に隙間がないなら、外ではないね」
マキシムの言葉に伯爵は反応した。
「やはり……そうかね」
「ええ、私も中だと思います」とケイトも言う。
「そうだろう。そうだろう」
「しかし、中だとするならば、窓の下に人が入れるスペースはないわけですが……」とマキシムが言った。
伯爵は神妙な顔になり、口ごもった。
「……実はな、ここのところ悪夢を見るようになったのだよ」
「ほう? どのような?」
「黒い髪の少女が私を見て笑うのだ」
「笑ってる……ですか」
「うむ、私を見て笑っているのだ。悪夢だろう?」
「ええ、まあそうですね。失礼ながら、その少女はどんな容姿ですか?」
「そうだな、背丈は子供くらいで……そう、ちょうどそこの彼女くらいの」
と伯爵はケイトを指して言った。すると、ケイトが立ち上がる。
「わ、私じゃないですよ! だって私、黒髪じゃないです!」
「うむ? まあ、そうだ。髪は茶色だな」
「では違うでしょう」とマキシムが笑いながら言った。すると伯爵は、少し顔色を青くして言った。
「いや、実はな……笑った顔は見えんのだ」
今度は伯爵の話した内容に、全員が驚きの表情を浮かべた。
「どういうことですか?」とマキシムが聞く。
「そのままの意味だ。顔は見えんのだ」
「見えてないんですか? それなのに、笑った顔がわかる?」
ケイトが首をかしげながら言う。
「うむ、不思議なことに、いつも笑う瞬間に顔だけが消えるように見なくなるのだ」
「うーん、謎ですね」とマキシムが言った。
「そうなのだ! それが気になって眠れんのだよ! 窓のノックに、笑う少女の夢。私の眠りは妨害されて、昼間の判断力も思考力も落ちていく。私がこんなことでは、家の運営などできたものではない。一族の危機だ」
伯爵は頭を抱えた。その様子をみて、ケイトも思わず言った。
「悪夢にうなされるなんて、なんだか可哀想ですね」
すると、伯爵はがばっと顔を上げた。
「そうだろう! 可哀想だろう!」
そして、こう続けた。
「だから私は困っているのだ! このままでは当家の存続に関わる問題だと言っているではないか!」
マキシムはそれを聞いて、神妙な顔をした。そして言う。
「わかりました、それではその問題を解決しましょう」と彼は立ち上がった。
応接スペースの出入口まで行き、振り向いてこう言った。
「ケイト、その図面をいいかな」
「あ、はい」
ケイトとマキシムはコグジェムを同期させて、図面の画像を転送した。
同時にマキシムの手元にあった図面もケイトの空間に転送されてきて、ふたつの図面が重なっていく。
「伯爵殿、あなたは本当によく調べておられますね。屋敷の三階の間取り図です」
伯爵は身を乗り出して図面を見た。そして驚く。
「なんと、それはまだ見せていないぞ?」
マキシムはニヤリと笑った。
「ええ、そのようですね。私が持っているものと、伯爵から見せて頂いた図面は、少しだけ違います」
それを聞いた伯爵は、言葉をつまらせた。
「どういうことだ? マキシム殿、貴殿は一体何をした?」
マキシムはニコリと笑って言った。
「伯爵殿、これはちょっとした奇術のようなものですよ」
──五分後。事務所の中。
応接スペースのテーブルの上に、紅茶が三つと、クッキーが並んでいた。それは、ケイトの好きな店のものだった。
マキシムとファルム伯爵は向かい合って座り、同じテーブルを囲んでいる。ケイトはソフィの隣に座っていた。そのソフィのコグジェムに、映像が届いていた。
「これは、伯爵殿の部屋から見た光景です」
マキシムが言った。ソフィは秘書たる能力を発揮して、コグジェム経由で全員に高精細な映像を中継するハブになっているのだ。そして中継元の映像は、これまた特異なコグジェムの能力を持つマキシムによる視覚の遠方への跳躍である。
屋敷の壁は薄い灰色に塗られている。三階建ての建物で、さらに三階ともなれば、かなり遠くまで見通せる高さになる。そして、そこには人が一人立っていた。窓の外から覗き込むように体をかがめていた。その人物は黒い髪で、ヤモリのように壁に貼り付いているのだった。
「あれは、当家のメイドだ」
とファルム伯爵は言った。「はい、その通りです。伯爵家のメイドですね」
メイドは壁に貼り付いたまま、体の向きを変えた。そして、庭側に顔を向けた。メイドは唇を動かして何かを言ったようだったが、声は聞こえない。伯爵は困惑した顔で言う。
「なんだ? 彼女は何を言いたいのだ?」
マキシムはコグジェムに働きかける。すると映像がズームアウトしていき、メイドを含めた屋敷の全体像が見えるようになった。
全景をみて、一同は納得し、伯爵はさらに困惑した顔になった。
屋敷の実像は、伯爵が提示した図面と異なっていたのだ。その証拠が、壁に貼り付くメイドであった。メイドがいる空間は、伯爵の図面には載っていない。しかし、マキシムが用意した図面にはちょうど凹んだ空間が存在するのだ。
「さて、伯爵殿。あなたのおっしゃる悪夢とは、このメイドが笑いかけているという光景ではありませんか?」
マキシムが言った。伯爵は眉をひそめて答える。
「うむ、確かに黒髪ではあるが、似ていると言えばそのようにも思えるが、このメイド本人あればもっと早くに気づくはずだ」
「その答えをいまからご覧に入れましょう」
とマキシムが言う。
「何をするのだね」
「伯爵の家にお邪魔します。ケイト、ソフィくん、準備をしたまえ。いいですね、伯爵?」
「うむ、構わないが」
こうして一行は、郊外にある伯爵の家まで蒸気自動車を借り切って移動したのだった。