2、
仕度を整え、王太子が待つという学園のソサエティークラブの一室へ向かう。
ソサエティークラブと言うのは、要するに高位の貴族のメンバーで結成されたサークルのことで、初期のメンバーはもう卒業し、いないけれど脈々と学園に受け継がれている。。
家の推薦や、また既存のメンバーの承認がなければメンバーにはなることは出来ない。
限られた一部の人間だけが入られる活動クラブ。年会費もそれなりにかかる。
実際に年会費として金額を納める訳ではなく、名目は学園への寄付金として。
学園寮から、ソサエティークラブは別の建物になるので、歩いて向かう。
前世のキオクについて少し思い出していた。
”ユリ”が知る、小説の中に出てくるパトリシア・ブラックは悪役令嬢と呼ばれる役回りだ。
王太子殿下であるラリー・アトルガンの婚約者で、ヒロインの男爵令嬢に対して、辛辣な態度をとる。
はあ、とため息が漏れる。
原作では、悪役令嬢である私との婚約は破棄され、王太子と男爵令嬢が結ばれる。
パトリシア自身は、家から追放されるが、ブラック家にはお咎めはない。
原作の中では。
それは、王家ですら踏み込めない闇があるからと、原作ではそうにおわせ終わっていた。
ユリの視点からみれば、侯爵家の権力を笠に着ていた、パトリシアがその後ろ盾を失い、ざまあみろと。
だが、パトリシアとして生きている今、私自身はこの世界の中で原作と同じストーリーを辿ったとしても、特別に何も不幸にはならないと思う。
正直、この先の未来に、王太子と婚約破棄になる事を知って、ああ、そうなんだ。と言うのが感想である。家を追放となったとしても、どうにかして生きて行く術はあるだろう。
本音を言うと、前世の私と今世の私を通しても、ラリー殿下はあまり好きじゃない。
人として、王太子殿下という地位を全うしようと努力されている姿は尊敬している。
しかし、特別な感情は何一つ持ち合わせていない。
だから、婚約破棄されようと、恋人が出来ようと。そうなっても何も感じないだろうと思う。
確かにラリー・アトルガンが金髪碧眼のまさに王子と言う容姿で、黙っていても人目を引く。だが、内面は俺様で強引でちょっと子供っぽくて。
それが良いという人もいるのだろうけど、全くタイプではない。
特に、過去世の私……は、
「あ」
わかりやすく、声が裏返り、痣のあたりにピリッとした痛みを感じた。
自分の失態を取り繕う様に、視線を彷徨わせ、ふうと息を吐く。
鏡はないが今どんな顔をしていただろうか。
廊下に誰もいなかったことを心から感謝する。
――ユリはどうして、オルティスが好きだったのだろう。
そう思って、首を傾げる。
パトリシアとして、何度かオルティスには会ったことがもちろんあるし、話をしたこともあるけれど――
オルティス・レイトン
実家は公爵家の次男。
頭脳明晰。剣の腕の筋も良いとの事で、一時期、騎士団からのスカウトもあったそうだが、ラリーの側近としておさまっている。
黒髪、黒目のすらっとした体躯。
一見、不愛想に見えるが、自分の懐に入れた人間には、どこまでも優しい人だと聞いたことがある。
ラリー殿下を通して当たり障りのない話題しか、したことがないので、深くはわからないけれど。
思いにふけっていると、正面からぱたぱたと走って来る一人の令嬢。
「パトリシア、お加減はもう大丈夫なの?」
肩で息をしながら、レイチェル私を見る。
手には、籐のバスケット。
小柄で、時折ほうけたようなあどけない表情を見せる彼女は同い年なのに、一緒にいると年下に見られる時がある。
それを彼女は良しとしないので、そんな時は静かに苛立ち、優しく辛辣な言葉を吐くと言う芸当をやってのける。
彼女はぼうっとしている様に見えて、非常に賢く頭も回るのだ。
「ええ、心配かけてごめんなさい」
「それならいいけれど……びっくりしたわ。だって、急に、倒れたって聞いて……今、貴女のお部屋に伺おうかと」
そう言うなり、バスケットの中身をクッキーだと説明し、後で届けさせると付け足す。
レイチェルの藍色の髪がさらりと揺れ、大きな息を吐いた。
いつもはあどけない紺色の瞳も、今が不満を持った様になにか言いたげだった。
「ありがとう。心配してくれるのは貴女だけだわ」
「ふふ」
レイチェルは私の言葉に満足そうに微笑む。
レイチェルと私は、幼い頃から交友があり、今では気取らない話が出来る唯一の友人である。
普段は、ブラック家の令嬢として家柄に合った態度をとるのだけれど、彼女の前ではくだけた口調で話が出来る。緊張の糸が途切れない学園の中で唯一、肩の力が抜ける相手だ。
「……彼女の、男爵令嬢の事件で何か進展はあった?」
アリス・ブレーク――スカイブルーの瞳に、柔らかな金髪。儚げな微笑みは妖精の様だと一部の男子から言われ、ついたあだ名は妖精姫。
「いいえ……」
――こうなる前の彼女とはよく、ヒロインのいじめに関して、情報を共有するためよく教室で話をしていた。
「また、アリス・ブレーク男爵令嬢がらみ?」
「そう。また、教科書だか何だかがなくなったのだって」
「私じゃないわよ? 昨日はお母様の体調が悪くなったと聞いて家に帰ったのだから」
私の母は、体が弱く一年のほとんどをベッドの上で過ごしている様な人だった。
「もちろん。それは王太子本人もご存知よ。だから、貴女が来ても大人しくしているじゃない」
ふふんと笑った、レイチェルは自身の持ち合わせる雰囲気とは相いれない様な妖艶な笑みを浮かべる。
王太子と仲の良いアリスは、他のクラスメイトからは目の上のたんこぶの様な存在である。一部の男子からは神聖視されている様な節があるが、表向きにそうしている人は誰もいない。
「そうね、今日は何も言われなかった」
いつもなら、教室に入って来る度に王太子は私に向かって、『アリスの机に落書きをしたのはお前か』『アリスの教科書を切り刻んだのはお前か』と、毎日毎日言ってくる。
「ねえ、気を付けた方がいいわよ。貴女の存在があるからって調子に乗っている人が少なからずいるってことだからね」
「私を隠れ蓑にして、ブレークさんに嫌がらせをしている人がいるってこと?」
レイチェルはこくりと頷いた。
「なんでまた?」
「パトリシア・ブラックが影の魔王だと、そう思わせておけば、自分に被害はないでしょう?」
「そこじゃなくって……わざわざなんで、嫌がらせをする必要があるのかよ。なぜそんなに他人に関わりたいのかしら。私にはわからないわ。陰でこそこそ言いたいなら言わせておけばいい。でも文句があるなら、面と向かって行って欲しいわね。もし、面と向かって私の悪口を言ってくる人がいたなら、私だって誠心誠意を持って対応するわ」
「そんな勇者はいないと思うけれど……」
レイチェルは呆れた表情を浮かべた。
「ともかく、私は王太子様が誰と仲良くされていようが私には関係ない。だから、ブレークさんに対して、嫌がらせをしようと言う気持ちもないわ。でも私を巻き込むのは辞めて欲しいわね」
「やっと、犯人捜しをする気になりました?」
レイチェルは口角を上げる。
「いいえ。全く」
「つまんないの」
軽口を叩いていると、先生が入って来たので話はお開きとなる。
そんな会話を楽しんでいたのだが、今この状況下ではそんなことも言っていられない。
――今となってはそんな風に教室で話をしていた頃が懐かしい。
「今はソサエティークラブに向かう所?」
「ええ、殿下が私を呼んでいるとメイドのモワノから聞いて」
「王太子が貴女を疑っていると、私は聞いたわ」
レイチェルはすっと目を細め、その表情から笑みが消えた。
オルティス様もラリー殿下と同じ様に私の影の魔王の様に思っているのだろうか。
「推し……か」
「ん?」
レイチェルがわからないという表情を見せたので、あわあわと否定した。
「殿下が私を疑っているって私がアリスさんを手にかけたって話だけど、あり得ないわ」
確かに前世の記憶が戻って来たことも相まって混乱している部分があるが、私は人殺しなんてしていない。
「知ってるわ。それに、信じてる。でも……」
レイチェルは服の裾をぎゅっと握りしめている。
「ともかく行ってくるわ」