1、
王立学園寮の一室。
床は紅い血の海に染まる。
その中心には一人の少女が倒れていた。
長い金の髪は乱され、白いネグリジェは無惨に切り裂かれる。
「アリス?」
この国の王太子殿下であらせられる、ラリー・アトルガンがはじかれるように、金髪の少女――アリス・ブレークの元に駆け寄る。
何度も、名前を呼び身体を揺さぶるが、反応はない。
見てわからないのか。
明らかに彼女は絶命している。
「パトリシア、お前がやったのか?」
ラリー・アトルガンは振り返る。
涙ぐみながらも凄みのある声で私を見た。
「まさか。あり得ませんわ、殿下。だって、私、先ほどまで貴方と一緒に夜会に出席していたではありませんか」
ラリーは、その言葉にぐっと歯がゆい顔を見せるも、それ以上は何も言わず、視線をアリスに戻すと優しく彼女の髪の毛の手をやった。
私――パトリシア・ブラックも、かなり大混乱を起こし、がんがんと痛みが響く。痛みは次第に体の方に広がっていった。
王家主催の夜会に出席し、学園の寮に帰ってきてみると、大きな声叫び声が響いた。
聞こえた声の方に駆けてみると、アリス・ブレークの部屋の扉が大きく開かれ、そこには王太子殿下であらせられるラリーが立ちつくしており、ただ事ではない雰囲気を感じ、中を覗き込むと、先ほどの光景が目に飛び込んで来た。
次第に、事件を聞きつけた野次馬が増えると同時に、騎士達の姿。彼らはラリー直属の騎士であると言う証で、ラリーの色である、紫檀色のマントを羽織っている。
「ブラック嬢?」
――まさか。
そう思った。
振り返ると、黒髪の青年が気づかわしげに、パトリシアを見ている。
彼は、ラリーの側近である、オルティス・レイトン。
何度も、会っている。
見覚えがある彼なのに、ふわりと心が温かくなった。
でもなぜ、『まさか』と思ったのか。
そう考えた時に、見たこともない景色の記憶が滝の様に流れ込んできた。
遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。
意識は遠のいていった。
*
まどろみの中で、今生きている現実がとある小説の世界であること。
パトリシア自身がその小説に出てくるの中の悪役令嬢と言う役柄である、そんな知識が流れ込んでくる。
その小説のタイトルは『恋はシロフォンの様に』。
異世界ファンタジーが舞台。
主人公の男爵令嬢が王太子に見初められ、色々な問題を乗り越えながら手と手を取って、最終的に二人は結ばれる、シンデレラストーリ。
その主人公と言うのが、アリス・ブレークである。
だけど、待って。
主人公はさっき、誰かに殺されてしまった。じゃあ、もうこれ以上物語は進まないの?
ぐちゃぐちゃになった頭の中でカラーの絵柄がいくつも思い浮かんで消える。
そのなかで見覚えのある黒髪の男性がきらきらと輝いて見えた。
彼は王太子の側近で、パトリシアより年上。
次期宰相のポストを約束された血筋と頭脳を持ち合わせた人だ。
なぜ彼だけがきらきらして見えるのだろうと思っていると、前世ではそう言った人は”推し”と呼ぶのだということがわかった。
そういった言葉や考え方、知識がは前世で培ったもので、その前世を生きた私のものであると。
信じがたい事実でそんなことある訳がないと思いながら、でもそう説明をつけると、自身の中にストンと説明がついた。
前世のキオクのよると。
ストーリーはテンプレだ。
私、パトリシア・ブラックは王太子のフィアンセである。
小説の中で描かれるパトリシアは、見目は美しいが、表情の感情の起伏のない、人形じみた令嬢だった。
それが悪い訳ではない。
むしろ令嬢教育では、それが良しとして教えられていた。
私がパトリシアとして生きて来た記憶ももちろんあるので、それは間違いない。
しかし、王太子はそんな私ではなく、自分の意思表示をはっきりと行える男爵令嬢の娘であるアリス・ブレークに心惹かれていく。
アリス・ブレークは、【異世界転生者】と言う人物で、前世のキオクをもち、そのキオクの知識を生かしながら健気に自分の運命と向き合っていくという役柄だ。
物語の中のパトリシアは、アリスに嫌がらせを行う。
また、様々な事件も勃発し、その中でアリスと王太子は絆を深めながら、パトリシアとの婚約は破談され、ついに二人が結ばれると言うストーリーだった。
婚約破棄された、パトリシアのその後は、【ブラック家から追放となった。】
物語には一文のみ書かれていた。
【恋はシロフォンの様に】のストーリーや、ニホンと言う国で生きていた私についての事は、小説にあやかり、”前世のキオク”と自分の中で名付けた。
*
気が付いた時は、今のパトリシアが良く知るベッドの上で、前世の私は知らない場所だった。
その部屋には、甘ったるく、胸がやけつきそうな程気持ち悪い香りが漂う。
ニホンに生きていた時、私は『ユリ』と呼ばれていた。
今、パトリシアとして生きているこの小説のストーリー等は鮮明に思いだせるのだが、ユリとして生きて来た時のキオクは靄がかかったように曖昧だ。
生きて来た国――日本の文化や、オテラやジンジャと呼ばれる宗教建築の全体像などは一枚の写真の様に思いだせる。
それから、小さいころに読んでいた絵本は物語の内容などは思い出せるのに。
でもユリの人生をさほど思い出したいとも思わない。
たぶん、パトリシアの私とユリとして生きて来た私と、二つの私が”パトリシア・ブラック”の体の中に、上手く溶け込むためには、ユリとしての人生のキオクは必要が無いものなのだろうと、そう結論をつける。
鏡を見て、
「やっぱり……」
思わず声がもれる。
やっぱり私は『恋はシロフォンの様に』の世界のパトリシア・ブラックに転生したのだと、現実を知って、一気自覚した。
なぜって、今、私が見ている景色は、過去にユリが、読んでいた小説が漫画化し、そこで見ていた景色と全く同じだったから。
これが異世界転生か。
わかっていたけど、身を持って知ると非常に不思議な感じ。
溜息を吐くと、ヘーゼル色の髪の毛を手ですくった。
もう一度鏡を見ると、空色の瞳をした今の私が見返してくる。
パトリシア・ブラック――恋はシロフォンの様に。
略して”恋シロ”。の、悪役令嬢である。
因果はわからないが、ユリとして生きてきたキオクが小説の世界に引き込まれてしまった。
恐らく、ユリが知っている前世のキオク風に言うと”転生”と言うヤツなのだろう。
「パトリシア様、お加減はいかかでしょうか?」
私の顔を覗き込みながら、不安気な声をかけたのは、侍女のモワノ。
焦げ茶色の瞳には涙が浮かんでいる。
それで思い出した。
「ここは?」
「お嬢様の、寮のお部屋でございます」
「確か男爵令嬢の部屋で……私」
窓の外は明るい。もう朝だろうか。
昨夜は、夜会があって、それで寮に戻って来た時の騒ぎで、私は、……確か。
「よかった。そうです。大きなショックを受けられてお嬢様が倒れられたと聞いて、もう、本当に」
モワノはさめざめと涙を流す。
「そう。また、発作が起きたのね。今は何時?」
「十時でございます」
モワノの言葉に私はふうと溜息を吐いた。
それと同時に今生きている現実世界の情報がいっきに、頭の中に流れ込み、愕然とする。
「お嬢様、背中の痛みはどうですか?」
ルーシーは背中のあたりをゆっくりとさする。
「大丈夫。心配かけてごめんなさい。もう、これは宿命として受け取っているから」
そう、これはブラック家に生まれた者の宿命。
ブラックを名乗るものは総じて、肌が透ける様に白い。
そして、体の一部分に明らかに脱色したように白くなっている部分がある。
そして、その部分に時折焼け付く様な痛みを感じる。
未だになぜ、この様になっているかは解明されていないが、本人の感情の起伏が大きくなる時に痛みが発生する。
この国には三大公爵家があり、その内の二つの家が派閥を作っている。
保守派と改革派。
そのうちの一つであるのだが、ブラック家は中立を保っている。
それは、派閥をつくらなくても確固たる地位を築いているからだとされているが、実はそうではない。
体に感じる痛みに悶絶する。
脳裏に入り込んでくる【前世】のキオク。
ブラック家には時折”異界の力”をもった子息令嬢が生まれるだ。
その力を保護するために、公爵家の地位を賜っている。と言っても過言ではない。
その痛みは我慢できる場合もあるが、耐えられないと今回の様に失神してしまうことがある。
もちろん、ブラック家以外の者はこの事実を知らない。
他人から見たら、少し病弱な令嬢くらいに見えるくらいだ。
「それより、アリス・ブレークは?」
モワノは視線を反らし、首を横に振った。
――ヒロインが殺されたなんて前代未聞。むしろ、ヒロイン不在でこっからどうなるというの?――
「お嬢様。目覚めてすぐのところ、申し訳ないのですが、王太子様がすぐに来るようにと」
私はベッドから這い上がると、返事をした。
「王城に?」
「いえ、ソサエティークラブにいらっしゃると伺いました」
「わかった。仕度をするわ」
モワノは優秀な侍女である。
私の挙動に合わせ、すぐに仕度を始める。
ワンピースは指示しなくとも、今この場にふさわしいものをクローゼットから出し、着せるのを手伝ってくれると、髪の毛を梳かし、すっきりと見える様に結わいてくれる。
そんなモワノの趣味は絵を描く事であり、小さいころから一緒に庭で絵をかいたりしていた。
風景よりも人物を描くのが好きみたいで、素敵な人物画を描いてはよく見せてくれた。
――そういえば、ヒロインであるアリス・ブレークも【異世界転生】した人物だったのだろうか。
それよりも、
「私、オルティス様が推しみたい」
混乱した記憶の中でパトリシアがそうぼそっとつぶやくと、モワノははっとした表情をみせながらも優しく微笑んだ。
ユリのそのキオクをひも解く度に、胸がざわざわとする。
彼女として生きた記憶は思い出せなくとも、ユリが読んだ物語を通して感じた気持ちは若干の痛みを伴って染み込んでいく。