後編
エドガー・グラントは、とても恵まれた環境で育ったにも関わらず、なぜか心に空虚な気持ちを抱えた青年だった。
彼はグラント伯爵家の長男で、恋愛結婚だった両親から惜しみなく愛情を注がれて育った。グラント家は古くからある家柄であるのみならず、領地が広大で、貴族の中でも特に資産家と言われている。
学業は優秀で、馬術や剣技にも長け、人当たりがよいので周囲からの評判も高い。
容姿にも恵まれていて、そのおかげで子どもの頃は大人たちからちやほやされたし、社交界に出る年齢になってからは、女性から秋波を送られるのが日常茶飯事だ。だが、どれほど美しい女性たちから色目を使われようと、エドガーの心が動くことはなかった。
女性だけでなく、彼はどんなものにも感動するということがなかった。
それがとても贅沢な悩みであることは、自分でもわかっていた。
だから、誰にも相談したことはない。
それで何か困ることがあるわけでもない、とも思っていたからだ。無感動な人間であろうと、生きていくのに支障はない。誰にも心惹かれなかったとしても、いつか迎えるであろう伴侶を大切にすることはできるはずだ。それに気持ちがこもっていないだけで。
無感動に淡々と生きてきた彼は、ある日、死の淵に立たされた。
父伯爵の代理として訪問した外国からの帰りに、嵐により船が座礁し、難破してしまったのだ。たったひとり救助用の小舟で流され、やがて水も食料も尽き果てて、死を覚悟した。そんなときでも淡々と状況を受け入れる自分に、彼は呆れた。
しかしエドガーは九死に一生を得た。小舟は奇跡的に小さな島の近くに流れ着き、沖合で漁をしていた漁船に救助されたのだ。
その島で、彼は村長の家に保護された。
島から本土へは、一週間に一便の連絡船が出ている。村長はその船に手紙を託して、彼の両親に連絡してくれた。そして家から迎えがくるまでの間、宿を提供した。何しろこんなへんぴな島には、宿屋なんてものは存在しない。誰かの家に世話になる以外、よそ者が宿をとる方法はないのだ。
三週間にわたる漂流で、エドガーはすっかり痩せさらばえていた。
女性たちを魅了した容姿も、今は見る影もない。
ひげは伸び放題で、頬はこけ、目は落ちくぼみ、髪は潮風と太陽の光にさらされてパサパサになり、十分に水を飲めない日が続いたおかげで声はしわがれてしまった。嵐の中で小舟を出すときに打ち付けたのか、足もくじいている。その上、島に保護された後には風邪まで引く始末だ。
それでも、あまりじっとしてばかりでは身体がなまりそうだと考え、島の中を少し歩き回ってみた。足を痛めているので、村長の父親から杖を借りた。
小さな島の村には、坂が多かった。あちらにもこちらにも段差がある。
弱った身体は普段と勝手が違い、ちょっとよそ見をしたら段差につまずいて転んでしまった。手をつこうとして、杖を手放してしまう。杖は、カラカラと音を立てて坂を転がり落ちて行った。
その杖を、通りすがりの黒い服の少女が拾い、エドガーに声をかけた。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。助かりました」
少女の言葉を聞いて、彼はいぶかしく思った。「おじいさん」と呼ばれたことについて、ではない。そこは自分でも納得した。ひげは漂流中に伸び放題だったときのまま剃っていないし、実際、老人と変わらないほど弱っているのだから。
彼がいぶかしく思ったのは、彼女の話し方だった。なまりのないきれいな発音は、上流階級の娘としか思えない。この子は島民なのだろうか。
そして杖を受け取りながら少女を見上げ、言葉を失った。
彼女はとても美しかった。
ただ美しいだけの女性なら、今まで何人も目にしてきた。だが目の前の少女は、彼が息をするのを忘れてしまうくらいに、光り輝いて特別に見えたのだ。
日の光に透けて見えるほど淡い金髪に、晴れ渡る春の空のように澄んだ青い目。
生まれて初めて「色」というものを見たかのように、鮮烈に胸に焼き付いた。こんな経験は、エドガーにとっては初めてのことだ。
「手をお貸ししましょう。ゆっくり立ち上がってくださいね」
差し出された少女の手をとると、意外な力強さで支えられた。彼女は彼の逗留先が村長宅だと聞いて、そこまで付き添ってくれた。なぜここまで親切なのだろうかと不思議に思ったが、そう言えば最初に「おじいさん」と話しかけられている。老人だと思ったからなのだろう。
ガリガリに痩せ細り、杖に頼って片足を引きずりながら歩くような老人にこそ親切にするような、心優しい人なのだろう。
エドガーはその日、村長に少女のことを尋ねてみた。
「ああ。アナですな」
「いい子ですね」
「うーん。べっぴんですけど、魔女に育てられたせいで、ちょいとここがねえ」
村長は気の毒そうに眉尻を下げ、「ここ」と言いながらこめかみを人差し指でトントンと突いてみせた。さっぱり意味がわからず、エドガーは眉をひそめて首をかしげる。
すると村長は、アナの生い立ちを説明した。
「親なし子なんですがね、魔女と呼ばれる頭のおかしな婆さんに育てられたんですよ。だから気取った話し方をしたり、おかしな話を信じ込んじまっていたりするんでさ」
エドガーは、あれは「気取った話し方」などではなく「上品な話し方」だと思ったが、村長の前では口に出さなかった。代わりに「おかしな話」とは何なのかを聞き出した。
その「おかしな話」はひとつではなく、たくさんあった。
親が身分ある人物だとか、ルドルフという名前のクマのぬいぐるみが幸運を運んでくるとか、名前も知らないが婚約者がいるとか、その婚約者がいつか金色の帆を張った船で迎えにくるとか、その婚約者は彼女の「本当の名前」を知っているのだとか。
「子どもならともかく、あの歳でそんな話をまだ本気で信じてるってのがなあ。まともじゃないですよね。悪い子じゃあないんですが、ちょっとね、頭がおかしいんです」
そこまで詳しく知っているなら、彼女の「本当の名前」も知っているかと思って尋ねてみたが、それは誰も知らないようだった。アナが愛称になる名前なら、すぐにいくつも思い浮かぶ。アナスタシア、ブリアナ、ジョージアナ、ダイアナ、アナベル。でも何となく、そのいずれでもないような気がした。
エドガーは村長に礼を言い、アナの家を教えてもらって訪ねてみた。親切にしてもらったことの礼を改めて言おうと思ったのだ。
だが家の扉を叩こうとしたとき、窓越しにクマのぬいぐるみが目に入り、ふと気が変わる。
彼は村長宅に戻り、与えられている部屋でアナへの手紙を書いた。彼女の婚約者になりすまして。本当に彼女が心から信じているのなら、実在するかどうかあやしいその婚約者に自分が成り代わってもかまわないような気がしたのだ。
それから手紙の配達役を探した。最終的にエドガーが配達役に選んだのは、牛乳配達の少年だった。
「この手紙を、アナ嬢の家にあるクマのぬいぐるみに渡してくれないかな」
「こんなの、本人に直接渡すほうが早くねえ?」
「いや、必ずぬいぐるみに渡してほしい。そういう約束になっているんだ」
エドガーは少年に、窓の隙間から手を入れてぬいぐるみに渡すよう指定した。それも、渡すところをアナに見られないようにと念を押した。
アナの家の、通りに面した窓は、回転窓になっている。ぬいぐるみのルドルフはいつも、その窓の前に置かれた棚の上に鎮座していた。換気のためか、この回転窓は開け放してあることが多いようだ。ただし隙間は狭く、大人の手では指先しか入らない。だが、子どもなら腕まで差し込める。
牛乳配達の少年は、すぐに要領を飲み込んだ。
報酬は、手紙を運ぶたびに渡すことにした。小遣いほしさに、仕事の合間にちょくちょく手紙の有無の確認をしているらしく、配達は非常に迅速だ。しかも決して姿を見られることのないよう、抜かりがない。ルドルフに手紙を渡しているところをアナに見られたが最後、エドガーから郵便配達の依頼が打ち切られると、よく承知しているからだ。
こうしてエドガーは、首尾よくアナと手紙のやり取りをするようになった。
アナの書く文字は丁寧で、お手本の文字のようにきれいに整っている。そして書く文字と同じくらいに、選ぶ言葉もきれいだった。
決して恵まれた境遇ではないのに、不満や愚痴は一切こぼすことがない。困窮しているとまでは言えずとも暮らしぶりに余裕はなく、唯一の保護者を失い、島民たちから馬鹿にされているにもかかわらず、自分を哀れむ様子も全くない。
読んで心が洗われるような文章に、エドガーはアナからの手紙を待ちわびるようになった。
だがその文通も、やがて終わるときが来る。
両親から寄越された迎えがやって来たのだ。だから彼は、自分の身分を示す指輪を手紙に入れて、「必ず迎えに来るから、待っていてほしい」と書いた。
両親のもとに戻ったエドガーは、両親に「体力が戻ったらアナを迎えに行く」と宣言した。最初はアナのことを「へんぴな小島に住む、身分も教養もない田舎娘」と思って眉をひそめていた両親も、息子が初めて見せる熱を帯びた決意の前に、やがて折れた。
両親を説き伏せたエドガーは、体力の回復に努めるとともに、精力的に調べ物をした。ぬいぐるみのルドルフについて調べたのだ。
エドガーは初めてルドルフを目にしたとき、耳に取り付けられたボタンに気づいた。何という偶然か、それは彼が幼い頃に持っていたぬいぐるみに付いていたのと同じボタンだったのだ。名の知れた工房を示す刻印が施されたそのボタンは、小さなタグを止めている。そのタグには、ぬいぐるみの型番と、通し番号が印字されていた。
エドガーはルドルフの型番と通し番号を記憶し、紙に控えておいた。
そしてその番号を、ぬいぐるみの工房に問い合わせたのだった。
工房からの回答は、驚くべきものだった。そのぬいぐるみは、十七年ほど前にこの国の国王から、海の向こうのとある国に生まれた王女の誕生祝いに贈られたものだと言うのだ。その王女の母は、この国の王の妹だった。
だがぬいぐるみが贈られてじきに、その国で王位争いが起きて王女の両親は暗殺されてしまう。生まれて間もない王女は行方知れずとなり、その後も見つかることがなかった。だから生存は絶望的だと思われていた。
その王女の名は、アナトーリアという。
アナがその王女だとするなら、彼女を育てた女性が両親のことを教えられないと言ったのは、無理もないこととわかる。他国まで逃れて来たものの、暗殺を恐れてひっそりと暮らしていたのだろう。
アナに宛てた手紙に「僕のお姫さま」と書きはしたが、まさか本物のお姫さまだったとは。
エドガーの両親は、彼の調査結果に驚きはしたが、同時に歓迎もした。
息子が自分の「お姫さま」を迎えに行くのに、金色の帆を張った船でなくてはならない、などとおかしなことを言い出しても、微笑ましく思って手配してやったくらいだ。
すべての準備を整えて、エドガーはアナを迎えに行った。
老人と見間違われるほど弱っていた男の姿は、そこにはない。体力とともに、体型はもとに戻っていた。海で遭難する前の、女性を魅了する容貌もすっかり取り戻している。彼はひげを剃り、髪を整え、お姫さまの横に立つのにふさわしい衣服に身を包んでいた。
島に船を着けると、通りという通りに島民が出て、あんぐりと口を開けて金色の帆を張った船を見ている。その様子が面白くて、彼は吹き出さないようこらえなくてはならなかった。
エドガーは島民たちに話しかけることなく、まっすぐアナの家に向かって歩いていく。
彼女は今、どこにいるだろう。
路上にたむろする人々は、声をかけずとも彼が歩くのに合わせて道を譲った。
やがて人垣が割れた先に、買い物かごを腕に下げた金髪の少女の姿が見えた。アナだ。彼女は飾り気のない黒い服をまとっていても、初めて会った日のように光り輝いて見えた。自然に彼の口もとに微笑みが浮かぶ。
エドガーは声もなく立ち尽くしているアナの前まで歩み寄ってから一礼し、大事なお姫さまを迎えるための正しい言葉を口にした。
「アナトーリア、僕のお姫さま。約束どおり、迎えにきたよ」
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