前編
アナは今日も港の片隅で、ぬいぐるみのルドルフを抱いて海を見つめる。
すっかり日は傾き、もうじき夕暮れだ。
海の向こうに夕日が落ちて、沈んでいくのを、アナはじっと見つめていた。
──今日も来なかった。
アナはずっと待ち続けている。彼女の王子さまが迎えにくるのを。
* * *
アナは、小さな島の港近くに暮らす十七歳の少女だ。
昨年までは、祖母と二人で暮らしていた。「祖母」と呼んではいるが、血はつながっていない。優しい祖母は、なぜか村人たちから「魔女」と呼ばれていた。
両親は、いない。
祖母によれば「身分ある立派な人物」とのことだ。だが、具体的にどのような身分の、何という名の人々なのかは、祖母は教えてくれなかった。
村の者たちは、アナは親のわからない捨て子だと言う。
でも、彼女は祖母を信じていた。悪意を持って聞かされる言葉と、祖母の愛情に満ちた温かい言葉のどちらを信じるべきかは、悩むまでもないことだ。
小さなクマのぬいぐるみのルドルフは、幼い頃に祖母から贈られた。
「これは、あなたに幸運を運んでくれる子ですからね。大事になさい」
「はい、おばあさま」
ルドルフは手触りのよい金色の毛並みを持ち、首に茶色のベルベットのリボンを巻いている。大事にすると祖母に約束したとおり、きれいにホコリを払って丁寧に毛並みを整えてやるのがアナの日課だ。
幼かった頃には大きく見えたルドルフも、今となっては手のひらの上に座らせることができるくらいに、かわいらしい。
祖母はアナに、読み書きと「きちんとした言葉遣い」を教えてくれた。
外で覚えた乱暴な言葉を口にすると、祖母は眉をひそめてアナを優しくたしなめたものだ。
「悪い言葉や汚い言葉を口にすると、心まで汚れてしまうものなのですよ。だから、汚い言葉を使ってはなりません」
心が汚れては困るから、アナは祖母に教わったとおりに「きちんとした言葉遣い」を崩さないよう心がけた。そのせいで、周りからは「気取っている」と笑いものにされている。そんなふうに笑われるのは決して気分のよいことではないけれど、アナは祖母の言いつけを破ろうとは思わなかった。
祖母はまた、こんなこともアナに言って聞かせた。
「あなたには、立派な婚約者がいるの。それはそれは、すてきな王子さまなのよ。いつか必ず迎えに来てくださるから、立派な淑女におなりなさい」
迎えに来るのは、どんな王子さまなのだろうか。
初めてその話を聞いたとき、アナは少しでもその婚約者のことを知りたくて、祖母に尋ねた。
「王子さまのお名前は、何とおっしゃるの?」
「それは言えません」
アナは祖母の答えに戸惑った。
なぜ名前を教えてもらえないのだろう。名前すら知らなかったら、本当に自分の婚約者なのかどうかがわからないではないか。
そう彼女が困惑していると、祖母は理由を教えてくれた。
「それが、あなたたちに与えられた試練だからよ」
どういうことかと首をかしげるアナに、祖母は優しく説明した。
アナの王子さまは、呪いで心が凍っていると言う。
その呪いを解けるのは、婚約者であるアナしかいない。
呪いを解くには、婚約者のことを何も知らないアナから、心からの愛を得る以外にないのだそうだ。婚約者のことを知るには、婚約者自身から教えてもらわねばならない。
「だから、あなたに王子さまのことを教えてあげるわけにはいかないの。ごめんなさいね」
祖母は済まなそうに微笑み、代わりに別のことを教えてくれた。
王子さま自身のことは教えられないが、彼女が婚約者のことを見分ける方法を教えてくれたのだ。彼女の婚約者は、金色の帆を張った船で迎えに来て、愛称の「アナ」ではなく彼女の本当の名前を呼ぶだろう。
だからアナは、彼女の王子さまにふさわしい淑女となるべく、きちんとした言葉遣いをしなくてはならないし、いつでも姿勢よく過ごさなくてはならないのだ。
そして心が汚れてしまわないよう、悪い言葉や汚い言葉は慎まなくてはならない。
アナは悪口も言わないように気をつけていた。
だって悪口を言おうとすると、ついうっかり悪い言葉や汚い言葉を使ってしまいかねないからだ。そんな危険を冒してまで、誰かの悪口を言うことに価値はない。
アナにこうした大事なことを教えてくれた祖母は、しかし、昨年の秋頃から寝込みがちになった。そのまま元気になることはなく、年末に眠るように亡くなった。
そうしてアナは、ひとりぼっちになってしまったのだった。
祖母は、機織りと刺繍で生計を立てていた。
アナにも教えてくれたので、仕事を継いで生きていくことができた。
そんなある日のこと。
アナが買い物から帰ってきたとき、家の中の風景にどこか違和感を覚えた。何だろうと見回して、理由がわかった。ぬいぐるみのルドルフが、両手で封筒を抱えていたのだ。
手紙だなんて、とアナはびっくりした。
この村の住民に、読み書きできる者は決して多くない。読み書きできるのは、村長一家や、商店を営んでいる一家くらいのものだ。
いったい誰からの手紙だろう。
いぶかしく思いながら封を開け、便箋を取り出して開いてみて、再び驚いた。そこには見たこともないほど美しい筆跡で文字が綴られていたのだ。
その手紙は「拝啓、僕のお姫さま」と始まっていた。
それは、アナの婚約者からの手紙だった。
やっとアナを見つけ出せたけれども、今はまだ姿を見せることができない。手紙のやり取りしかできないことを許してほしい、と書かれていた。そして返事はルドルフに渡してほしい、とあった。
不思議には思ったけれども、アナは返事を書いた。
手紙をもらってうれしかったというお礼とともに、もっと婚約者について知りたい、と書きつづった。
そして指定されたとおり、ルドルフに持たせた。
けれどもルドルフは、手紙を抱えてただ座っているだけ。当たり前だ。だってただのぬいぐるみなのだから。いくら見ていても、手紙を配達してくれる気配はない。アナが機織りをして、食事の支度をして、食事を済ませて片付けをして、すっかり日が暮れて寝る時間になっても、やっぱりルドルフは手紙を抱えたままだった。
しょんぼりした気持ちでベッドに入った翌朝、ルドルフの腕の中から手紙が消えているのを見て、アナは目を丸くした。誰かが持ち去ったとは、考えられない。だってアナは、寝る前にきちんと戸締まりしている。
びっくりはしたけれども、本当にルドルフが手紙を運んでくれたと知ってうれしくなった。
彼女の婚約者は、どんな返事をくれるだろう。
ルドルフは再び、いつの間にか婚約者からの手紙を運んできていた。どうやら彼は、アナが見ていないときにしか動かないらしい。機織りをしたり、食事の支度をしたりして、目を離した隙に、気づくとアナからの手紙が消えていたり、婚約者からの手紙を抱えていたりする。
こうしてアナと婚約者の不思議な文通が始まった。
婚約者は、呪いで心が凍っているという割には、機知に富んでいて楽しい人だった。アナがそう指摘すると、それはアナが相手のときだけだと彼は言う。いつもは無感動で面白味のない人間なのだそうだ。アナの受け取る手紙からは、とてもそうは思えない。
ルドルフは手紙の配達人としては、感心するほど働き者だった。
最初のときになかなか手紙を持って行ってくれなかったのは、アナがしょっちゅう見つめていたからのようだ。目を離してさえいれば、すぐに手紙を運んでくれる。朝出した手紙の返事を、昼前に運んで来たことさえあった。祖母はルドルフのことを「幸運を運ぶぬいぐるみ」と言っていたけれど、「手紙を運ぶぬいぐるみ」の間違いではないかしら、とアナは思った。
アナは、名も知らぬ婚約者のことを少しずつ知っていった。
裕福な家庭で、両親から愛情をたっぷり注がれて何不自由なく育ったこと。歳はアナより六つ上なこと。妹がひとりいること。恵まれた環境にもかかわらず、呪いのせいでいつも空虚な気持ちを抱えていたこと。
子どもの頃は肉が好きだったけれども、大人になるにつれ魚介類のおいしさを知ったこと。異国の文化に興味を引かれていること。季節の中では、夏の終わりが好きなこと。
婚約者から乞われるままに、アナは自分のこともたくさん書いた。
親の顔は知らないけれども、血のつながらない祖母に大事に育てられたこと。生きていく上で大切なことは、すべてその祖母から教わったこと。好きな食べ物、好きな花、好きな季節、好きな色など、尋ねられれば何でも答えた。
アナは祖母の亡くなった日からずっと、毎日黒い服を着ていた。
けれどもルドルフの運ぶ手紙のおかげで、このところ心の中は明るく彩られていた。
だが、そんな日々は唐突に終わってしまう。
婚約者からの手紙に、これが最後の手紙になると書かれていたのだ。
その手紙は「少し時間がかかるけれども、必ず船で迎えにくるから待っていてほしい」と締めくくられた上、指輪が同封されていた。白金製の指輪で、小粒のサファイアとダイヤモンドがちりばめられている。
アナの指にはゆるかったので、なくさないようルドルフに預けた。
と言っても、ただルドルフの首に巻いたリボンに通しただけだが。指輪はルドルフの胸もとで、窓から光が入るとキラキラ輝く。大事な、大事な婚約指輪だ。
その翌日から、アナは仕事が終わると港に通い始めた。
港の片隅で、ぬいぐるみのルドルフを抱いて腰を下ろし、海の向こうをじっと見つめる。
何をしているのかと尋ねられれば「婚約者が迎えにくるのを待っているの」と正直に答えた。面と向かって「ありえない」と笑いものにする者もいれば、気の毒そうな顔で言葉をにごす者もいた。そしてごくたまに「だまされているんだよ」と心配してくれる者もあった。若者ほど頭ごなしに馬鹿にしてあざ笑う傾向にあるように、アナには思われた。
どれほど馬鹿にされても、アナは相手にしない。
だって相手にして言い返したりしたら、うっかり悪い言葉や汚い言葉を口にしてしまいそうだ。だからアナは、誰に対しても「わたくしは、彼を信じているの」とだけ返し、後は何を言われようと静かに聞き流してやり過ごした。
やがて面と向かっては、誰も何も言わなくなった。
毎日、毎日、日暮れの前に、アナは港に通う。
けれども婚約者が好きだという夏の終わりが来て、秋風が吹き、アナの誕生日が過ぎてひとつ歳をとり、次第に日が短くなってきても迎えの船は来なかった。
ときおり「無駄骨、ごくろうさまなことだ」と聞こえよがしに嫌みを言う若者もいたが、相変わらずアナは聞き流す。本人はアナに聞かせようと思っているのかもしれないが、彼女にとってはカモメの鳴き声と同じくらいに、意味のない言葉だ。
そして木枯らしが吹くようになったある日、アナが日用品の買い物に出ると、商店に続く坂がなぜか人だかりでいっぱいになっていた。
不思議に思ったアナが近づいてみれば、人々はみんな海のほうに目が釘付けだ。
その視線の先を追ってみて、アナは思わず息をのんだ。
普段は漁船や連絡船などの小型の船の姿しか見られない港に、立派な帆をかけた大型船が泊まっていたのだ。しかもその帆は、日の光をあびて金色に輝いている。
港まで続く坂道を、ひとりの青年が歩いてきた。
島では見たことのない顔だ。
見るからに身分があるとわかる立派な身なりをしていて、背は高く、肩につかない程度の黒髪を無造作に後ろに流している。精悍な顔立ちは整っていて、島の娘たちがぽうっと見とれていた。
その彼は、まっすぐにアナに向かって歩いてきた。
群がって船と彼を見ていた人々は、彼の歩みに合わせて道を譲っていく。ひそひそと何か話しているが、歩いてくる青年に目を奪われているアナの耳には何も聞こえていなかった。
やがて彼は、彼女の目の前までやってきた。
そしてきれいに一礼してからアナに微笑みかけ、こう言った。
「アナトーリア、僕のお姫さま。約束どおり、迎えにきたよ」