『役は人を選ぶ』
『役は人を選ぶ』
人は知らなくてもいい事まで知りたがる。
知らずにはいられない。
それがパンドラの箱だって、分かっていても、平気で開ける。
開けてから後悔する。
でも、それが真実とは限らない。
目にしたもの
耳にしたものが
真実とは限らない。
真実とは限らないのに
人は誰かに話したがる。
大抵が一つ二つの装飾をつけて
受け売りの知識を交えて
人は誰かに聞いて欲しいと話したがる。
人は知らなくてもいい事まで知りたがる。
知らずにはいられない。
今日は演劇集団・ガラクタガラパゴスの女神が女神に返る朝の公演初日だった。
劇場の入り口などで入場を待つ人々。どの顔も期待に満ち溢れていた。
舞台には幕が下りていて、心陽が来る。
「開演前のこんな時間に何の用ですか?」
奈緒がいて、
「漸く全ての謎が解けた」
「……謎って?」
「知名度も、ましてや実力もないのに、あなたがこんな大きな舞台でヒロインをはれる事」
「……」
「あなたは主宰に対して……女を使った」
「……私は星野さんとは寝てない」
「星野さんとは?」
「揚げ足を取らないで」
「まあ、細かい事はいいわ。時には女を使って、役や仕事を取る事を私は否定しない」
「……」
「稽古があって、役作りがあって、ジムに通ったり、自分磨きもしなくちゃいけなくて、お金はやっぱり必要だし、でも、なかなかバイトなんかしている暇もなくて、ガラガラは人気があるから、そんな心配はいらないけど、大抵の舞台役者は公演の度に割り当てられた膨大な数のチケットを売らなくちゃ破産しちゃうし」
「……」
「きっとあなたも同じよね!?」
「……」
「それは……あくまでも女優として生きていく為の、のし上がっていく為の手段の一つでしかなくて」
「……」
「時には女を使ったところで、自らが汚れた事や、心が魂が汚れた事には決してならない」
「……」
「知ってる」
「……」
「あなたは主宰とは寝ていない」
「……」
「それはよく分かってる」
「……」
「あなたは異性としての女ではなく……」
「……」
「家族として……娘として……」
「……」
「女を使った」
「娘? ……誰が?」
奈緒が心陽とは違う別の方向を見て、
「……」
心陽もその方を見て、
「……」
星野が立っていて、
「……」
奈緒が星野に頭を下げ、その場を後にする。
星野が心陽に近づいてきて、
「……どういう事なんです?」と心陽が後退りをする。
「聞くんだ。落ち着いて聞くんだ」
「私は……」
「……」
「あなたの……娘なんですか?」
「……」と星野が小さく頷いた。
「……だから……そういう事か……」
「違う」
心陽が興奮したように、
「私はこんな分不相応な大役を……さも、自分の実力だと勘違いして」
「違う」と星野が心陽の両腕を抑える。
観客席では多くの観客が入場してくる。
客席にはBGMが流れていて。
舞台の上では幕が下ろされていて、心陽が星野に向かい、
「私には出来ない」
「聞くんだ」
「最初から私には無理だったんです」
「聞くんだ」
「嫌です。離して」
只ならぬ雰囲気を感じた関係者の一人が来て、
「主宰、どうかしましたか?」
「何でもない。誰も通すな。下がってていい」
「はい」と関係者が下がって、
「……君の職業は何だ?」
「……」
「カフェの店員さんか?」
「……」
「君は女優じゃないのか?」
「……」
「女優じゃないのか?」
「……」
「どんな時でも、いかなる場合の時でも、女優なら与えられた役を演じきらなければいけないんだ」
「……」
「時には、悲しくても笑う、泣きたくなくても泣く、それが自分の意に反したとしても、女優なら与えられたその役を最後まで全うしなければならない」
「……」
「君であって君じゃない。女優は自分であって、自分じゃない」
「……」
「女神が女神に返る朝……この作品は私が二十年近く前に書いたものだ」
「……」
「一人の女性をイメージして」
「……」
「……相良美晴」
「……」
「君の母親だ」
「……」
「私は美晴を心から愛していた」
「……」
「愛していたからこそ、出来た作品だった」
「……」
「美晴に演じて欲しいから」
「……」
「右往左往して、七転八倒しながら必死になって書いたんだ」
「……」
「女神が女神に返る朝……」
「……」
「確かに現時点での女優としての実力は君より品川奈緒の方が上だ」
「……」
「演劇をかじった事のある人ならば……いや、演劇を知らないずぶの素人でも、そう答えるに違いない」
「それなら……」
「でも、一つだけ確信をもって言える事は……」
「……」
「女神が女神に返る朝のヒロインのマリアを品川奈緒が演じる事は出来ない」
「どうしてですか?」
「役は人を選ぶんだ。どんな名だたる名女優だったとしても、マリアを演じきる事は出来ない」
「……」
「相良美晴」
「……」
「その美晴が亡くなってしまった今はもう君にしか演じられないんだ」
「……」
「さすがに冷静に演出出来る自信がないし……ある事情もあってね。演出は佐久間に任せた」
「……」
「私の魂は……そして、お母さんの魂は君に預けたから」
「……」
「……出来るね?」
「……」
「やれるね?」
「……はい」
「やるんだ」
「はい」
「良い返事だ」
「あまり時間がない。急いで支度を……」
「はい」と心陽が走っていく。
「(微笑み)」と星野が心陽の後ろ姿を見つめて。
が、星野が急に自分の胸を押さえ、苦しみ出し、その場に倒れる。
関係者が駆けつけ、
「救急車、救急車を……」とパニックになる。
観客席の一番後ろの席に一人の初老の男が座った。
男は椅子に置いてあった簡易的なパンフレットに目をやった。
その表紙には心陽の写真があった。
「……」
その時、
「先生、お久しぶりです」
その初老の男に向かって、パッと見、三十代から四十代位の女が声をかけた。
「おう」と初老のその男がその女に軽く手を挙げて応えたのであった。
星野は救急車で欧仁大学付属病院に運ばれていた。
ICUの中から医師の中富雄介が出てきて、表で待機していた和地に向かい、
「星野さんは末期の肝臓ガンに侵されてます」
「ガン……」
「本人の希望により、本人にだけ、三ヶ月程前に余命宣告も致しました。精一杯、全力を尽くしますが、ご覚悟もされておいて下さい」と中富が頭を下げ、部屋の中へと入っていく。