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女神が女神に返る朝  作者: そらあお
12/31

『分不相応の恋』

『分不相応の恋』





 昨日と同じような一日。


 朝起きて、仕事に行って、決まった時間に昼食を食べて、午後、少し眠くなって、仕事が終わって、帰りにコンビニに寄って、家に帰ったらずっとスマホをいじってる。



 昨日の昨日も同じような一日だった。


 何も変わらない。


 恐らく変わってない。


 思いつく限り、変わってない。



 だけど


 あの頃の自分は思い出せない。


 微かに覚えてはいるけど


 はっきりとは思い出せない。


 


 昨日と同じような毎日を過ごしていても


 変わる。



 人は変わる。


 悲しいかな、変わってしまう。


 


 人はないものねだりで


 変わらない毎日をつまらないと嘆きながら、大切なものだけは変わらないでと願う。



 人は変わる。


 少しずつ、少しずつ、気づかないように、気づかれないように形を変え、やがて、全く違う物になってしまうかもしれない。


 


 見上げた空が


 気づかなくても


 昨日とはきっと違うように。



 今日、真っ青だった空が


 いつかどんよりとした灰色の空に変わるように。





 男は地面を蹴った。何をやっても上手くいかない毎日を過ごしていた。


 男は仕事の帰り道だった。今日も仕事は上手くいかなかった。男の仕事はリフォーム会社の営業だった。何百件っていう、もちろん、知らない家の玄関のチャイムを押しては、断られたり、断られるのには慣れてるので、まだいいが、分かり易く居留守を使われたり、いきなり、訳もなく怒鳴られたり、今日も散々な一日だった。


 男はくたくただった。体というより、心がくたくただった。


 男は財布の中を見た。明日の昼はカップラーメンでいい。


 今日は無性に会いたい。


 男は一軒の店の扉を開けた。その店はどこにでもあるようなスナックだった。



 男はカウンターのいつもの席に座った。


「井津さん、いらっしゃいませ」


 男は十七年前の井津博だった。


 井津の隣に女が座った。この店のホステスだった。源氏名はマイだった。


 井津が無性に会いたい人はこの舞だった。

「覚えてくれてたんだ? ……名前!?」

「この前、あんなに盛り上がったのに、忘れる訳、ないじゃないですか?」

「嬉しいね」

「良かった……今日、来てくれて」

「うん?」

「いいんです、いいんです。ほら、井津さん、飲んで」

「ああ」と井津がグラスの中のビールを飲み干す。




 その一週間後、井津はウキウキしていた。知らず知らず、鼻歌を口ずさんでいた。足取りも軽やかだった。


 昨日、今日と連続で契約が取れた。断られても、チラシと名刺を置いてきて、営業はせず、近くに寄ったからと挨拶だけして、それを何ヶ月も続けて、じゃあ、見積もりだけでもと提出して、粘り強く人柄と熱意を伝えて、そういった客から昨日、今日と連続で契約が取れた。


 井津はそれを真っ先に報告したい人がいた。


 それはスナックのホステスの舞だった。


「……辞めた?」


 スナックのママが、

「一週間前」

「一週間前? 自分がちょうど来た日じゃ?」

「そうね、そう、そう……あの日がラスト」

「……」

「そもそも無理があったからね。あの子は水商売向きじゃない」

「……」


 井津は肩を落として、店を出ようとした。


 一杯だけでも飲んでいけばと店のママに言われたので、そうしてみたが、凄く居心地が悪かった。大好きなカラオケも歌う気になれなかった。


 井津は三十分も経たずに店を出た。



 【人間って単純な生き物だ


 凄いね、頑張ったねって


 言って欲しいから


 頑張れる】





 井津は今日も見知らぬ家の玄関のチャイムを押した。


 『どうせ居留守されるだろう』と思うと、不思議な位、その通り、居留守をされた。


「……井津さん!?」


 それは聞き覚えのある声だった。


「こんにちは」

 井津の前に舞が立っていた。


「……こんにちは」と井津が額の汗を拭った。


「はい」と舞がカバンの中から、ハンカチを取り出し、井津に渡した。


「今日も暑いですね」と舞が眩しそうに空を見上げた。




 井津と舞は公園のベンチで話をした。


 舞の本名は相良美晴といった。

 心陽の母親だった。


 二人は色んな話をした。


 美晴は生活の為に水商売を始めたが、やっぱり性に合わず、一ヶ月もしないうちに辞めた事。


 今は駅前の喫茶店で週五日働いている事。


 昔、女優を目指していた事。


 井津は最近はさっぱりだったが、この前、連続して、契約が取れた事を漸く美晴に伝えられた。


「凄い」

「……」

「頑張りましたね」

「……」

「努力してましたもんね」

「……」




 それから、井津は足繁く、美晴が働く駅前の喫茶店に通った。


 本当は毎日でも通いたかったが、それでは美晴にうざがられると思って、週四日通う事にした。残りの日は店の外から、美晴に気づかれないように見ていたりもした。


『ここのコーヒーが美味しくて』と井津はいつも言った。


 正直、コーヒーの味なんて分からなかった。昔のCMみたいに言うと、決して違いの分かる男ではなかった。


 ずっと眺めていたい人だった。


 こんな綺麗な人がいるのかと正直思った。 

 それでいて、気立てがいい。


 そばにいるだけで、そして、


 『こんにちは』

 『今日も暑いですね』

 『仕事大変ですね』

 『もう秋ですね』

 『今日は紅茶にしてみます』

 『だいぶ寒くなってきましたね』

 『風邪引いてませんか?』

 『昨日は凄い雪でしたね』

 『桜の花ってなんだかいい』

 『今日は夏日になるみたい』


 こんな何気ない、取り留めもない会話が出来るだけで幸せだった。



 そのうち、美晴がシングルマザーで、五歳になる女の子がいる事が分かった。


 井津はより一層、美晴が愛おしくなった。


 この人を幸せにしてあげたいと思った。


 それが出来るなら、自分は寝ずに働く事も苦じゃないと思った。


 でも、そう思う度、思えば思う程、自分には分不相応だと思った。


 こんな綺麗な人が、自分を好きになる事はないと思った。



 美晴は自分を好きになる事は……ない。


 でも、自分は胸が張り裂けそうな位、大好きだ。


 最近は寝ても覚めても美晴の事ばかり考えていた。


 最近は何気ない、取り留めもない会話でさえも、ドキドキして上手く話せなかった。



 井津は思い切って、美晴に告白した。


 井津はもう少し、気の利いたプロポーズは出来なかったのかと直ぐに後悔した。でも、自分の思いは、自分伝えたい思いは伝えられたと思った。


 美晴は少し考えさせて欲しいと言った。


 井津は額の汗を拭った。

 


 【額に汗して働いた事がありますか?


 どんな仕事だって、


 もちろん、大変だけど



 額に汗して働いた事がありますか?】


 


 その翌日、美晴は五歳になる娘の心陽を井津に会わせた。


「こんにちは」

「……」

「心陽、挨拶は?」

「……」

「心陽」

「いいの、いいの……井津博と申します。心陽ちゃん、宜しくね」

「……」

「ごめんなさい。人見知りする子で」

「目の辺りなんか、お母さんにそっくりだ」

「……」



 それから、三日後、美晴は井津のプロポーズを受け入れた。


 二人は結婚する事になった。


 心陽 五歳。

 相良美晴 二十八歳。

 井津博 三十歳であった。



 井津は美晴と結婚して、朝も昼も夜も、文字通り、寝ずに働いた。


 井津は美晴を、そして、一人娘の心陽を絶対に幸せにしたかった。幸せにしなくちゃいけないと思った。


 だから、井津はがむしゃらに、額に汗しながら、歯を食いしばって働いた。


 それが故にほとんど家にいなかった井津に対して、心陽はほとんど懐かなかった。



 父親がいたら、父親が出来たら、ああしたい、こうしようって事を心陽なりに夢見る事はあったが、どれ一つ、叶う事はなかった。 


 井津は井津なりに家族の為に身を粉にして、毎日、仕事を頑張る事が、自分に与えられた最大の使命だと思っていた。


 やがて、心陽は井津を時折、妬むようにさえなっていた。ただただ、大好きな母親を井津に奪われた気になっていた。


 井津も心陽への接し方に困っていた。男の子なら、一緒にキャッチボールしたり、相撲を取ったりして、スキンシップを取る事を容易に想像出来たが、女の子となるとその自信はまるでなかった。井津もいつの間にか、心陽に対し、まるで腫れ物に触るような感じで、接してしまっていた。


 二人の、そして、心陽の思いは縮まるどころか、益々、離れていってしまうのだった。


 それでも、二人にはそれぞれがかけがえのないと思える存在の美晴がいた。


 二人にとって、美晴がいるからこそ、何とか問題もなく、大きな音も立てず、毎日を過ごす事が出来ていたが、井津と結婚して、二年の月日が流れようかというある日、美晴が病にかかっている事が分かった。


 美晴の病名は乳がんだった。


 井津には直ぐに病名が知らされた。


 心陽には病名が告げられなかった。



 井津は今まででも、常人を遥かに凌ぐ働きっぷりであったが、今まで以上に働いた。ろくな休みも取らず、ほとんど毎日、働いた。


 正直、美晴のそばにいてやりたかった。  

 美晴のそばにいたくて、いたくて仕方がなかった。


 でも、金が必要だった。


 美晴の闘病の為には、生活をしていくには金が必要だった。


 だけど、それが心陽には伝わらなかった。


 母親が入院してるのに、ほとんどお見舞いにも来ない、井津が許せなかった。


 心陽は今までも井津が苦手ではあったが、嫌いと思うようになっていた。



 


 ある日の美晴が入院する病室で、美晴がベッドの上で上半身を起こしていた。


 傍らに井津がいて、

「はい」と美晴にアルバムを渡す。

「アルバム!?」

「ああ」


 美晴がアルバムを捲っていく。

「よく撮れてる」

「被写体が良いからね」

「私?」

「自惚れて……美晴だけじゃなく」


 アルバムの写真の中には心陽の写真のあり、


「……笑ってる」

「……」

「……心陽が笑ってる」

「……」

「……ごめんね」

「……」

「我がままに育てちゃったかな」

「いや……悪いのは俺の方だ」

「元気になったら……」

「……また三人で旅行にでも行くか?」

「うん」

「海外もいいな」

「うん」

「アメリカ、オーストラリア……」

「あなた」

「うん?」

「……ちょっと横になっていい?」

「疲れたな!? 気づかなくて悪い」

「ごめんね」


 美晴が横になるのを井津が手伝う。


「ごめんね」

「……」

「迷惑ばっか、かけてさ」

「迷惑なんかじゃねえ」

「アルバムさ……置いてって……後で見たい」

「ああ」

「ごめんね」と美晴が目を閉じる。




 それから、乳がん発症後、二年も経たず、美晴は亡くなった。享年三十二歳の若さだった。




 心陽は美晴亡き後、井津の籍を抜け、母方の祖母に引き取られた。



 井津はアルバムを捲った。



 アルバムの中には三人の、心陽と美晴と自分、家族三人の笑顔の写真がそこにあった。



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