『分不相応の恋』
『分不相応の恋』
昨日と同じような一日。
朝起きて、仕事に行って、決まった時間に昼食を食べて、午後、少し眠くなって、仕事が終わって、帰りにコンビニに寄って、家に帰ったらずっとスマホをいじってる。
昨日の昨日も同じような一日だった。
何も変わらない。
恐らく変わってない。
思いつく限り、変わってない。
だけど
あの頃の自分は思い出せない。
微かに覚えてはいるけど
はっきりとは思い出せない。
昨日と同じような毎日を過ごしていても
変わる。
人は変わる。
悲しいかな、変わってしまう。
人はないものねだりで
変わらない毎日をつまらないと嘆きながら、大切なものだけは変わらないでと願う。
人は変わる。
少しずつ、少しずつ、気づかないように、気づかれないように形を変え、やがて、全く違う物になってしまうかもしれない。
見上げた空が
気づかなくても
昨日とはきっと違うように。
今日、真っ青だった空が
いつかどんよりとした灰色の空に変わるように。
男は地面を蹴った。何をやっても上手くいかない毎日を過ごしていた。
男は仕事の帰り道だった。今日も仕事は上手くいかなかった。男の仕事はリフォーム会社の営業だった。何百件っていう、もちろん、知らない家の玄関のチャイムを押しては、断られたり、断られるのには慣れてるので、まだいいが、分かり易く居留守を使われたり、いきなり、訳もなく怒鳴られたり、今日も散々な一日だった。
男はくたくただった。体というより、心がくたくただった。
男は財布の中を見た。明日の昼はカップラーメンでいい。
今日は無性に会いたい。
男は一軒の店の扉を開けた。その店はどこにでもあるようなスナックだった。
男はカウンターのいつもの席に座った。
「井津さん、いらっしゃいませ」
男は十七年前の井津博だった。
井津の隣に女が座った。この店のホステスだった。源氏名は舞だった。
井津が無性に会いたい人はこの舞だった。
「覚えてくれてたんだ? ……名前!?」
「この前、あんなに盛り上がったのに、忘れる訳、ないじゃないですか?」
「嬉しいね」
「良かった……今日、来てくれて」
「うん?」
「いいんです、いいんです。ほら、井津さん、飲んで」
「ああ」と井津がグラスの中のビールを飲み干す。
その一週間後、井津はウキウキしていた。知らず知らず、鼻歌を口ずさんでいた。足取りも軽やかだった。
昨日、今日と連続で契約が取れた。断られても、チラシと名刺を置いてきて、営業はせず、近くに寄ったからと挨拶だけして、それを何ヶ月も続けて、じゃあ、見積もりだけでもと提出して、粘り強く人柄と熱意を伝えて、そういった客から昨日、今日と連続で契約が取れた。
井津はそれを真っ先に報告したい人がいた。
それはスナックのホステスの舞だった。
「……辞めた?」
スナックのママが、
「一週間前」
「一週間前? 自分がちょうど来た日じゃ?」
「そうね、そう、そう……あの日がラスト」
「……」
「そもそも無理があったからね。あの子は水商売向きじゃない」
「……」
井津は肩を落として、店を出ようとした。
一杯だけでも飲んでいけばと店のママに言われたので、そうしてみたが、凄く居心地が悪かった。大好きなカラオケも歌う気になれなかった。
井津は三十分も経たずに店を出た。
【人間って単純な生き物だ
凄いね、頑張ったねって
言って欲しいから
頑張れる】
井津は今日も見知らぬ家の玄関のチャイムを押した。
『どうせ居留守されるだろう』と思うと、不思議な位、その通り、居留守をされた。
「……井津さん!?」
それは聞き覚えのある声だった。
「こんにちは」
井津の前に舞が立っていた。
「……こんにちは」と井津が額の汗を拭った。
「はい」と舞がカバンの中から、ハンカチを取り出し、井津に渡した。
「今日も暑いですね」と舞が眩しそうに空を見上げた。
井津と舞は公園のベンチで話をした。
舞の本名は相良美晴といった。
心陽の母親だった。
二人は色んな話をした。
美晴は生活の為に水商売を始めたが、やっぱり性に合わず、一ヶ月もしないうちに辞めた事。
今は駅前の喫茶店で週五日働いている事。
昔、女優を目指していた事。
井津は最近はさっぱりだったが、この前、連続して、契約が取れた事を漸く美晴に伝えられた。
「凄い」
「……」
「頑張りましたね」
「……」
「努力してましたもんね」
「……」
それから、井津は足繁く、美晴が働く駅前の喫茶店に通った。
本当は毎日でも通いたかったが、それでは美晴にうざがられると思って、週四日通う事にした。残りの日は店の外から、美晴に気づかれないように見ていたりもした。
『ここのコーヒーが美味しくて』と井津はいつも言った。
正直、コーヒーの味なんて分からなかった。昔のCMみたいに言うと、決して違いの分かる男ではなかった。
ずっと眺めていたい人だった。
こんな綺麗な人がいるのかと正直思った。
それでいて、気立てがいい。
そばにいるだけで、そして、
『こんにちは』
『今日も暑いですね』
『仕事大変ですね』
『もう秋ですね』
『今日は紅茶にしてみます』
『だいぶ寒くなってきましたね』
『風邪引いてませんか?』
『昨日は凄い雪でしたね』
『桜の花ってなんだかいい』
『今日は夏日になるみたい』
こんな何気ない、取り留めもない会話が出来るだけで幸せだった。
そのうち、美晴がシングルマザーで、五歳になる女の子がいる事が分かった。
井津はより一層、美晴が愛おしくなった。
この人を幸せにしてあげたいと思った。
それが出来るなら、自分は寝ずに働く事も苦じゃないと思った。
でも、そう思う度、思えば思う程、自分には分不相応だと思った。
こんな綺麗な人が、自分を好きになる事はないと思った。
美晴は自分を好きになる事は……ない。
でも、自分は胸が張り裂けそうな位、大好きだ。
最近は寝ても覚めても美晴の事ばかり考えていた。
最近は何気ない、取り留めもない会話でさえも、ドキドキして上手く話せなかった。
井津は思い切って、美晴に告白した。
井津はもう少し、気の利いたプロポーズは出来なかったのかと直ぐに後悔した。でも、自分の思いは、自分伝えたい思いは伝えられたと思った。
美晴は少し考えさせて欲しいと言った。
井津は額の汗を拭った。
【額に汗して働いた事がありますか?
どんな仕事だって、
もちろん、大変だけど
額に汗して働いた事がありますか?】
その翌日、美晴は五歳になる娘の心陽を井津に会わせた。
「こんにちは」
「……」
「心陽、挨拶は?」
「……」
「心陽」
「いいの、いいの……井津博と申します。心陽ちゃん、宜しくね」
「……」
「ごめんなさい。人見知りする子で」
「目の辺りなんか、お母さんにそっくりだ」
「……」
それから、三日後、美晴は井津のプロポーズを受け入れた。
二人は結婚する事になった。
心陽 五歳。
相良美晴 二十八歳。
井津博 三十歳であった。
井津は美晴と結婚して、朝も昼も夜も、文字通り、寝ずに働いた。
井津は美晴を、そして、一人娘の心陽を絶対に幸せにしたかった。幸せにしなくちゃいけないと思った。
だから、井津はがむしゃらに、額に汗しながら、歯を食いしばって働いた。
それが故にほとんど家にいなかった井津に対して、心陽はほとんど懐かなかった。
父親がいたら、父親が出来たら、ああしたい、こうしようって事を心陽なりに夢見る事はあったが、どれ一つ、叶う事はなかった。
井津は井津なりに家族の為に身を粉にして、毎日、仕事を頑張る事が、自分に与えられた最大の使命だと思っていた。
やがて、心陽は井津を時折、妬むようにさえなっていた。ただただ、大好きな母親を井津に奪われた気になっていた。
井津も心陽への接し方に困っていた。男の子なら、一緒にキャッチボールしたり、相撲を取ったりして、スキンシップを取る事を容易に想像出来たが、女の子となるとその自信はまるでなかった。井津もいつの間にか、心陽に対し、まるで腫れ物に触るような感じで、接してしまっていた。
二人の、そして、心陽の思いは縮まるどころか、益々、離れていってしまうのだった。
それでも、二人にはそれぞれがかけがえのないと思える存在の美晴がいた。
二人にとって、美晴がいるからこそ、何とか問題もなく、大きな音も立てず、毎日を過ごす事が出来ていたが、井津と結婚して、二年の月日が流れようかというある日、美晴が病にかかっている事が分かった。
美晴の病名は乳がんだった。
井津には直ぐに病名が知らされた。
心陽には病名が告げられなかった。
井津は今まででも、常人を遥かに凌ぐ働きっぷりであったが、今まで以上に働いた。ろくな休みも取らず、ほとんど毎日、働いた。
正直、美晴のそばにいてやりたかった。
美晴のそばにいたくて、いたくて仕方がなかった。
でも、金が必要だった。
美晴の闘病の為には、生活をしていくには金が必要だった。
だけど、それが心陽には伝わらなかった。
母親が入院してるのに、ほとんどお見舞いにも来ない、井津が許せなかった。
心陽は今までも井津が苦手ではあったが、嫌いと思うようになっていた。
ある日の美晴が入院する病室で、美晴がベッドの上で上半身を起こしていた。
傍らに井津がいて、
「はい」と美晴にアルバムを渡す。
「アルバム!?」
「ああ」
美晴がアルバムを捲っていく。
「よく撮れてる」
「被写体が良いからね」
「私?」
「自惚れて……美晴だけじゃなく」
アルバムの写真の中には心陽の写真のあり、
「……笑ってる」
「……」
「……心陽が笑ってる」
「……」
「……ごめんね」
「……」
「我がままに育てちゃったかな」
「いや……悪いのは俺の方だ」
「元気になったら……」
「……また三人で旅行にでも行くか?」
「うん」
「海外もいいな」
「うん」
「アメリカ、オーストラリア……」
「あなた」
「うん?」
「……ちょっと横になっていい?」
「疲れたな!? 気づかなくて悪い」
「ごめんね」
美晴が横になるのを井津が手伝う。
「ごめんね」
「……」
「迷惑ばっか、かけてさ」
「迷惑なんかじゃねえ」
「アルバムさ……置いてって……後で見たい」
「ああ」
「ごめんね」と美晴が目を閉じる。
それから、乳がん発症後、二年も経たず、美晴は亡くなった。享年三十二歳の若さだった。
心陽は美晴亡き後、井津の籍を抜け、母方の祖母に引き取られた。
井津はアルバムを捲った。
アルバムの中には三人の、心陽と美晴と自分、家族三人の笑顔の写真がそこにあった。