6 過去編 四郎の出生
生まれた時から四郎はキリシタンだった。
父の甚兵衛は熱心なキリシタンであった。
母はマルタという洗礼名を授かっていた。
同様に六歳上の姉もレシイナという洗礼名を授かっていた。
生まれた土地は肥後の宇土である。
そこではこうしたキリシタン一家は珍しくなかった。
「おお、元気な男の子じゃ。この子にも洗礼名を授けてもらおう」
「どんな洗礼名になりますかねえ」
「それはパードレ様に決めていただこう」
甚兵衛とマルタは顔を見合わせ笑った。
マルタの腕の中で四郎が眠っている。
数日後パードレが甚兵衛の家にやってきた。
四郎の顔を覗き込む。
「賢き顔をしておる。ひとかどの人物になるぞ、甚兵衛殿」
このパードレも日本人である。
名をヨハネ村越といった。
こうした日本人のパードレも九州では多かった。
それだけキリスト教が浸透していたのである。
ヨハネ村越はラテン語で洗礼の言葉を唱える。
厳かな雰囲気の中、洗礼式はつつがなく終わった。
パードレと同じヨハネという洗礼名が四郎に与えられた。
「ヨハネはゼズスの弟子の中で最も若く忠実であった者である」
ヨハネ村越は説明し一拍置いて付け加えた。
「故に人気がある。よくある洗礼名なのじゃがよいかの」
「ははは、パードレ様から授かった名に文句などあろうはずがございません。ありがとうございます」
「ならばよかった」
ヨハネ村越も笑顔となった。
彼はその夜の内に大矢野へ去った。
キリシタン弾圧から逃れるためであった。
キリスト教は民衆に深く浸透していた。
その一方、こうした弾圧が頻繁に行われていた。
キリシタン達の信仰がひっそりと行われたのも無理のないことであった。
† † †
四郎はすくすくと育ち七歳になった。
まだ幼い子供だが学問への興味を示した。
甚兵衛は四郎を寺小屋に連れていった。
農民の子でも寺小屋で手習いをする程度なら珍しくはなかった。
「なかなか賢き子ですな」
寺小屋の講師は四郎を誉めた。
物覚えが速いのだ。
知識欲もある。
これくらいの歳の子にとって最も大事なのは色々な物に興味を示すことである。
四郎には生来の好奇心と知識への渇望があった。
「良い生徒です。理解が速い」
そう言われれば甚兵衛も悪い気はしない。
深々と頭を下げ「ありがたいことです」と礼を言った。
農民の子であり学問が身を助けるかどうかは分からない。
それでも多少は人生の幅を広げる役には立とう。
こうして四郎が寺小屋に通い続けた。
その内に四郎は論語の素読までこなせるようになっていた。
「たいしたものじゃのう」
甚兵衛は感心した。
その時ふと思いついた。
「のう、四郎」
「何?」
「お前、コンフラリアに参加してみるか。わしが連れていってやろう」
「こんふらりあ……?」
「うむ。よくコンフラリアとはの、キリシタンの集まりのことじゃ。時折キリシタン達が集会を開き、ゼズス様の教えを学ぶ」
甚兵衛は膝を着き四郎と視線を合わせた。
四郎の視線は真っ直ぐだ。
甚兵衛はその視線を受け止める。
「行ってみたい」
「そうか。なら四郎も一緒に来るといい」
甚兵衛の返事に四郎は「うん!」と笑顔で応えた。
未知の物への興味で胸が一杯になる。
「早く行きたいなあ」と早くもそわそわしていた。
「まあ待て。次のコンフラリアは月を跨がんと無いんじゃ。それまでいい子にしておれ」
「はい、分かりました」
「うむ」
甚兵衛は微笑んだ。
聡明な四郎ならコンフラリアに連れて行っても問題あるまい。
キリシタンの教えを学ぶ良い機会だろう。
コンフラリアの歴史はそれほど古くはない。
慶長十九(1614)年、天草志岐にてキリシタンが相互に連帯し信仰を守り通すために始まったものである。
信者それぞれが個人で信仰を守るのは限界がある。
そのためキリシタンの横の繋がりを強化するための集会、あるいは講という側面もある。
このコンフラリアの前身は、慶長元年にビンセンゾ兵右衛門を中心にした「サンタマリアの組」とされている。
キリシタンに対する風当たりは強い。
パードレや修士が殉教したり追放されている。
徐々に指導者が足りなくなり、教えを学ぶ機会が減っている。
コンフラリアの活動は信仰を守るための自治体でもあった。
パードレを匿い、ミサ、洗礼や告解の秘跡を授ける場として機能する。
その秋、甚兵衛は四郎と共に大矢野島へと出向いた。
刈り入れが終わり一息つける時期だった。
宇土から大矢野島までゆっくりと船を漕ぐ。
櫂を操りながら甚兵衛は四郎に話しかけていた。
「四郎が生まれてくる前、天草は日本のキリシタンの中心だったこともあるのじゃ。しかし太閤も幕府もキリスト教を禁じた」
「なんでキリスト教を禁止したの?」
「偉い人にはキリシタンが日本を支配するかも、と見えたのじゃろうな。キリスト教では万人が平等。そうするとどうなる?」
「うーん。偉い人が偉くなくなる? 支配者層が必要なくなってしまう」
「そうじゃな。偉い人にとってはキリスト教は自分の地位を脅かす敵に見えたのじゃ」
「だから弾圧するの? でも僕たちは悪いことしていないよ。ゼズスを信仰しているだけじゃない」
四郎は首を傾げた。
その幼い顔が不満げである。
甚兵衛は苦笑した。
ほろ苦い笑みであった。
「付け加えるなら、キリスト教を伝えたのは南蛮の国じゃ。キリスト教が広まれば南蛮の国に支配されるかも、と恐れたんじゃろうな。わしらがただ静かに祈りを捧げているだけでもな」
「ふーん。何だかいやな感じだね」
会話を交わす内にも船は進む。
青い穏やかな海を潮風が吹き抜けた。
次第に前方に島が見えてきた。
大矢野島である。
「あそこだ」と甚兵衛は言った。
入り江へと入り込み船を岸へと近づけた。
甚兵衛らの他にも何人かが岸辺にいた。
「皆、今夜のコンフラリアへ参加する者じゃ」
甚兵衛は四郎にそう教え、他の者に挨拶をした。
四郎も甚兵衛に倣う。
初めての経験を前に胸が高鳴っていた。
顔を上げる。
大矢野島の風景が視界に飛び込んできた。
別にそこまで特別なものはない。
だが一点だけ四郎の注意を惹いたものがあった。
赤い絣の着物を着た女の子だった。
すすきの枯れた茶色を背景にしたせいか、鮮やかに目立っている。
"僕と同じように親に連れてきてもらったのかな"
恐らく同年代だろう。
向こうも四郎に気がついたらしい。
にこりと笑い手を振ってくれた。
気がつけば反射的に手を振っていた。
何となく気恥ずかしくなった。