10 過去編 お別れは突然だった
恐ろしい報せというものは突然やってくる。
その日参加したコンフラリアでのことだった。
あるキリシタンの口から直近の弾圧の話が出た。
「島原で大規模な弾圧があった」
それだけなら目新しい情報ではない。
島原は長崎から遠くない。
自然とキリシタンも多く、弾圧もそこそこに厳しい。
だから四郎も身を引き締めはしたが、特段驚きはしなかった。
捕まった信者の名が読まれていく。
じっと耳を傾けていた時である。
「……ユスティナ……」
何だろう?
今何と言ったのだろう?
ユスティナ……りんの洗礼名。
まさかと思った。
聞き間違いと思いたかった。
同名の別人かもしれない。
けれども今日のコンフラリアにりんの姿はない。
ああ、ならばそういうことなのか。
「四郎」
甚兵衛にたしなめられた。
いつの間にか立ち上がっていたらしい。
両手が汗で濡れている。
「今、りんの名前が呼ばれた」と答えるのが精一杯だった。
甚兵衛は数秒だけ固まっていた。
すぐに思い出したらしく「ああ、お前がよく話している子か」と言った。
低い声であった。
「島原に住んでおったからな。これまでは上手く逃れていたが」
「そんな。どうにかならないの」
「運が良ければ尋問されるだけかもしれん。棄教すれば解放されて元の生活に戻れるだろう。だが運が悪ければ」
甚兵衛はその先は口にしなかった。
四郎を気遣ったのか、不吉だと思ったのか。
いずれにしても先行きは暗かった。
四郎にはりんが棄教するとは思えなかった。
となると。
「助けなきゃ。りんが、ユスティナが死んでしまう」
「四郎」
「駄目だよ、このままじゃ。りんだけじゃない。捕まったキリシタン皆が殺されちゃう。こんなところで集まっててもどうにも……」
「四郎!」
甚兵衛の叱責がその場に響く。
コンフラリアの最中である。
信者達の会話が止んだ。
皆の視線が四郎に向いた。
同情、悲痛、たしなめ、諦観。
そうした感情が含まれた視線であった。
「我らはゼズスの教えに従うキリシタンであるぞ。例え殉教となってもデウスの下へ召されるのみ。狼狽えてはならん」
「そんな」
四郎は視線をさまよわせた。
けれど誰も目を合わせてくれない。
どうすることも出来なかった。
「すぐに処刑となるわけではない」と誰かが言った。
けれどもそんな慰めが何の役に立つというのか。
視界が歪む。
目の前が真っ暗になっていく。
その後の記憶はおぼろげだ。
気がつけばコンフラリアは終わっていた。
周りには誰もいない。
いたたまれなかったのか、甚兵衛も姿を消している。
ぺたんと板の間に座ったまま、四郎は呆然としていた。
「助けなきゃ……」
虚ろな声が僅かに漏れた。
「りんに会わなきゃ……」
四郎はよろよろと立ち上がった。
まだ細い少年の体は小刻みに震えている。
† † †
夜明けと同時に四郎は島原へと向かった。
なけなしの銭を払い船賃とした。
子供一人でも怪しまれなかったのは幸運だった。
行ったからどうにかなるというものではない。
りんを助ける方法などさっぱり思いつかない。
だけど行かなければならない。
衝動が四郎の体を突き動かしていた。
船は無事に島原に着岸した。
見上げれば雲仙岳が見える。
山頂から細く灰色の煙を吐き出していた。
「あそこに温泉地獄谷ってのがあってな。そこでキリシタンの処刑を行うんだとよ」と船頭が教えてくれた。
四郎の返事を期待してのものではない。
単なるお節介か世間話のつもりなのだろう。
「坊主、もし行くなら気をつけろよ。下手したらお前も一緒にとっ捕まるぞ」
「はい」
短く答え歩き出す。
背後は振り返らなかった。
いつが処刑日なのかさえ分からない。
だが早く行かないと。
りんの顔が脳裏に浮かぶ。
会いたかった。
もう一度会いたかった。
いや、駄目だ。
会うだけでは。
捕まっているなら助けないと。
でもどうやって?
"ともかく今は急がないと"
具体的な助ける方法はまったく思いつかないまま。
四郎はひたすらに山道を急いだ。
ところどころ急になっている。
灰を被った箇所は滑りやすいため避けて登る。
自分と同じように登っている者もいた。
ぼそぼそとした話し声が嫌でも聞こえてくる。
「えらいたくさん捕まったらしい」
「女子供も多いらしいのう」
「酷いことじゃ、本当に。税は重い上にキリシタンというだけでひっ捕らえられる」
「どうにかならんのかのう」
耳から情報が入る度に心が重くなっていく。
この山道が通じているのは地獄なのかもしれない。
恐怖が足を絡め取る。
立ち止まりかけた。
だが四郎は歩みを止めなかった。
意志の力でねじ伏せ進む。
疲労が積み重なり体を蝕んだ。
竹筒から水を飲み、喉を潤す。
「くそぅ」と四郎は呻いた。
唇を手で拭った。
嫌だ。
りんにこのまま会えないのは嫌だ。
助ける手立てなどないかもしれない。
けど、けれども僕は。
一歩、また一歩。
雲仙岳を攀じるように登っていく。
道が平坦になった時、四郎の前の風景が開けた。
ゆらりと湯気が漂い硫黄の独特の臭気が運ばれてくる。
大小さまざまな岩が積み重なっていた。
山頂近くの広場のような場所だった。
草木は低木しか生えていない。
荒涼としか言いようがなかった。
その枯れた風景の中心に……人がいた。
十字架にかけられている者もいた。
四郎の心臓が脈打った。
「あそこか!」
小さく叫んだ。
けれども四郎はそれ以上前に進めなかった。
島原を預かる松倉家の兵が処刑場を仕切っていたためである。
四郎の他にも何人かがここまでやってきている。
だが処刑場の頑丈な柵と番兵の槍が行く手を阻んでいた。
「邪魔をするな。ここから先へ無理に踏み込めば命は無い」
番兵達が槍を振り上げ脅してきた。
この場のキリシタン全員を捕らえようという訳ではないのだろう。
けれども近寄ることは限りなく難しい。
"間に合わなかったのか"
たまらず四郎は柵を握った。
隙間から中を覗く。
りんの姿を探す。
うずくまる人々へ目を走らせる。
いた。
あの赤い着物を着ている。
鞭で打たれたのだろうか。
着物の背は裂け、酷い傷が覗いていた。
脇腹も無事ではない。
槍で突かれた跡があった。
死なない程度に小突かれたのだろう。
たらたらと血が流れている。
"ああ……"
声を振り絞ろうとした。
枯れた喉からは悲鳴しか漏れなかった。
柵の隙間から手を伸ばした。
駄目だ。
まるで届かない。
思考が矢継ぎ早に重なる。
感情が錯綜した。
くそ、届きさえすれば僕が治せるのに。
治療の力が使えるのに、
こんな遠くじゃ。
りん、僕だ。
四郎だ。
君に会いにきたんだよ。
気がついてくれよ。
いつものように笑ってよ。
長崎に行くんだろう?
話してくれたじゃないか。
"頼むよ……"
祈った。
念じた。
ゼズスでもデウスでもいい。
誰でもいい。
りんを助けてあげてほしい。
りんが何をしたんだ。
彼女は信心深いキリシタンだ。
僕と話す時、本当に嬉しそうにキリスト教のことを話してくれたんだ。
だから彼女を助けてあげて。
僕からりんを奪わないで。
四郎の目から涙が溢れた。
その時、りんが動いた。
地に伏せられていた顔がゆっくりと上がる。
半分閉じた瞼を必死で開け、四郎の方へと左手を伸ばした。
その小さな唇が言葉を紡ぐ。
聞こえるはずもない距離。
けれど四郎は確かに聞いた。
「来てくれたんだ、四郎」というりんの呟きを。
「りん!」
たまらず叫んだ。
途端に番兵に肩を押された。
吹き飛び、起き上がり、しゃにむに柵にしがみつく。
「やめえ、坊主! お前まで捕まるぞ!」と周囲のキリシタンが四郎を抑え込む。
「放して! 放して! りんが、りんがあそこに!」
「無理じゃ、坊主。もうあの場にいる者達は殉教を決めとる。楽園に旅立つんじゃ。儂らは見送ることしか出来ん」
「いやだいやだいやだ、りんがこのままじゃ死んじゃう……!」
全力を振り絞る。
これでもかと力を込める。
だが所詮は非力な少年の身体である。
何人かの大人が抑えつければ動くことなどかなわない。
「許せ、坊主。我慢するんじゃ」と言われ同時に腕を掴まれる。
これが四郎を庇うための行為なのは分かる。
無理に歯向かえば番兵に捕まる。
その危険から回避させるためのものだとは分かる。
だが、それでも。
四郎は叫んだ。
「放して、お願いだ、放してください。友達なんだ、僕の大切な!」
涙が溢れる。
非力な自分を呪った。
たかだか数十歩の距離なのに届かない。
届きさえすれば彼女の手を取れるのに。
治してあげられるのに。
"ゼズスよ、お願いです"
祈った。
彼女を助けてくれと祈った。
彼女は敬虔な信徒だ。
何故助けてくれないんですか?
信徒が死に瀕しているなら何故救ってあげられないんですか?
"デウスよ、お願いです"
願った。
両の手が砕けんばかりにきつく握り締めて。
彼女と約束した。
長崎を見てみようって約束した。
大切な約束を笑顔で交わしてくれた。
なのに何故こんな形で奪うのですか?
彼女は、りんは何も悪いことをしていないのに!
「りん……!」
右腕を柵の中にねじ込ませた。
届かぬ指先を彷徨わせた。
ガリガリと地面を引っ掻くのが精一杯。
けれどこれが今の四郎に出来る精一杯であった。
「四郎」
風に乗ってりんのか細い声が聞こえた。
涙で霞んだ目がりんの姿を捉えた。
傷だらけで痛々しくて、けれども彼女は確かに笑っていた。
「……ありがとう」
ことんと。
言葉が途切れ。
目から光が消えた。
かくんと。
顔が地に落ち。
黒髪が地面に流れた。
左手首のロザリオがチリと小さく鳴った。
そしてそれきり。
りんは動かなくなった。
「っ、うわあああああぁあああぁー!」
獣のような咆哮が四郎の喉からほとばしった。
その瞬間周囲の世界から色彩が消えた。




