1 勝手に期待するな
未だ忘れたことはない。
熱湯を注がれ爛れた肌。
槍で何度も小突かれダラダラと流れる血。
痛くなかったわけがなかった。
怖くなかったわけがなかった。
けれども彼女は微笑んで、そして逝った。
僕を残して。
「デウスがもし本当にいるなら何故あの時」
僕は呟く。
視線を上げる。
有明の海が陽の光を反射し青く輝いていた。
潮風に乗って白い海鳥が飛んでいる。
「あの子を助けてくれなかったのだろうか」
何度となく繰り返した疑問は。
心の底に黒く黒くわだかまっている。
この疑問に答えてくれるはずの者は……何一つ教えてくれはしなかった。
あの日から今日まで。
おそらく今日以降もずっと。
仕方がないことだ。
デウスは――神はきっといないのだから。
† † †
寛永十四(西暦1637)年。
徳川幕府が日本を支配していた時代だ。
神君家康から征夷大将軍の座も移り、今は三代目家光がその座に居る。
その政権は盤石であり日本全土を統率していた。
だがその陰で苦しむ者がいたのも事実である。
九州は島原及び天草に住まう農民達だ。
「飢饉ていっても年貢はまったく軽くならねえ」
「お上は俺らのことなんか知ったことじゃねえんだ」
彼らは疲れた顔で項垂れる。
万が一にも聞かれないよう声を潜めて。
飢饉はここ数年続いており、土地は荒れ果てている。
九州の多くの土地は米作には向いていない。
豆や甘藷―さつまいも―を植えてどうにか不足分を補っているのだ。
そこに飢饉が襲ってきてはたまったものではなかった。
農民達の多くが疲れ果てているのも無理はなかった。
「けど四郎様がいらっしゃる」
一人の農民が呟いた。
束の間その場の空気が緩む。
表情が少し明るくなっていた。
「そうじゃな、四郎様がおられる」
「天国より遣わされたあの方が我らを導いてくださるに違いない」
「四郎様こそが我らの希望じゃ」
ひび割れた唇から四郎という名が漏れていく。
その名を口にする時だけ農民達の顔に光が射した。
四郎――天草四郎時貞というのが正式な名前だ。
ここ天草では彼の名を知らぬ者はいないといってよい。
「四郎様についていけば間違いはなかろう」
締めくくるように一人が言う。
他の者は頷いて同意した。
その時である。
「あっ、あれに見えるは四郎様ではあるまいか!?」
誰かの声が高く上がった。
視線がすっと移動する。
他の者も釣られて同じ方を見た。
畑から離れた沖の近くだ。
小高い丘の上、誰かがその背を松の木にもたれかけさせていた。
男、いや少年といった方が的確だろう。
黒い小袖に緞子の袴を着用している。
襟回りを飾るのは大きな襞のついたマントである。
南蛮の服装であり、またそれが似合う容貌をしていた。
年若いその顔は端正であり、肌が抜けるように白い。
少年――天草四郎時貞は海を見ていた。
その目はどこか遠くを見ているようだった。
孤高でありながらどこか茫洋とした様子である。
気がついた農民達も声をかけることはしない。
彼らに気がついていないのか、四郎はただじっと海を眺めている。
その左手がすっと上がり、首元で何かを掴んだ。
カチャ、と金属音が僅かに響く。
四郎の指が弄ぶのは十字架であった。
鎖で首から下げた十字架がカチャリと軋む。
その音に乗せるように四郎は口を開いた。
「今こそ立ち上がる時か」
少年の喉から響く声は細く、けれども強かった。
どろりとした感情が込められた声である。
一陣の潮風が舞い、四郎の前髪が揺れた。
神童と謳われる少年はただ一人、有明の海に強い視線を注いでいる。
日没間際まで四郎はそこにいた。
端正な顔は強張っている。
何か思い詰めたような表情のまま家に戻った。
その帰り路でさえ四郎には期待の視線が降り注いだ。
"勝手だ"
皆が自分に期待しているのは分かる。
自分達の苦境をどうにかしてくれるのは四郎しかいないと思っている。
そうせざるを得ない事情は分かる。
飢饉にもかかわらず重税が押し付けられている中、誰かにすがるしかないのだ。
だが――頼られる立場の自分はどうなのだ。
"誰も僕のことなど、僕の心の内など知りもしないくせに"
同情しつつ腹を立てていた。
それが天草四郎時貞の偽り無い本音だった。
内心のもやもやを抱えたまま家に着く。
皆の視線が無くなりほっとした。
屋内に目を転じる。
埃っぽい土間がある。
その奥には目の荒い筵が敷かれた板の間があった。
部屋の隅は暗く、そこには古びた仏壇が据えてある。
いや、正確には仏壇ではない。
四郎は口の端を皮肉っぽく上げた。
"仏像に似せた聖母マリア像か。誰が思いついたか知らないがよく出来ている"
ここ天草でもキリシタン弾圧が激しくなっている。
それを避けるための苦肉の策だ。
こうでもしなければすぐにひっ捕らえられてしまう。
だが自分は敬虔なキリシタンかと自問すれば……けしてそうではない。
"詮無いことだ"
自嘲の笑みを四郎は浮かべた。
その笑みの意味を知る者はいない。