八折
日本で言うところの卯月。
花宴の朝は花見日和の快晴であった。
シオンの手をかり丁寧に着飾った後、さてどうやってこの壺から出るのかと目を光らせた。検討違いに厠の扉とにらめっこしていると、御帳台の方から声がした。
「折姫、こちらへ」
未だ耳にこそばゆいその名を呼ばれ、心臓を跳ね上げながらパタパタと向かう。姿はみえない。
御帳台の中かしらと几帳を潜ると、今度は背後で「姫さま、いってらっしゃいませ」と聞こえた。
振り返ることができない。
目の前で、ミカドが流れる景色を眺めながら、吹き込む風を愉しんでいた。白い狩衣姿のミカドは夜の妖艶な雰囲気とは違い、一層怜悧な青年にみえる。
折姫へ向けた顔は一瞬、瞠目したように見えたが、次にはあどけなく微笑んだ。
「驚かないのですね」
「驚いて、声が出ませんでした」
几帳を潜ると、そこは御帳台ではなく牛車のなかだった。ミカドが眺めていたのは紛れもなく外の景色。折姫の心を読んだのか、手招きして小窓の前を譲った。空いた隙間に腰を入れる。肩の重なる距離だった。
牛車は御所の外塀に沿って走っており、草ひとつない平坦な道は閑散としている。それでも庭以外の景観は久しぶりのことで、折姫は新鮮な外気を思いきり吸い込んだ。
「あまり風に当たると、御髪が乱れますよ」
右耳に差していた花簪にミカドの手が触れ、そちらへ顔を向ける。簪に手を添えられたまま、暫しふたりは見つめ合った。もちろん折姫のほうが長く持たず、視線を足もとへ落とす。身も心も強ばり、舎人の腑抜けた顔に助けを求めるがいない。
「あの、シオンは」
「ふたりきりは心許ないですか」
「いえ、決してそのようなことは」
「ご安心を。貴女はこの私が必ず、無事に送り届けますよ」
「その……私のようなものが、陰陽師様直々にお護りいただいて宜しいのでしょうか」
「いいんですよ。貴女はご自分を過小評価し過ぎるところがいけない」
「そうでしょうか」
「そうですよ。今日私がこの牛車を選んだのも、誰よりも先に貴女の晴れ姿を観たかったから」
「わ、私の?」
「はい、期待以上でした。あなたはとても美しい」
折姫は蝋人形のように固まった。
今日、一目お会いできればそれでいいと、何度も心で唱えていたのに。
今は互いの着物が重なる位置で見つめ合い、疑いようのない甘い言葉を囁かれている。もちろんそれは淑女へ対する挨拶のようなものだが、それでも折姫は涙を堪えるほどに嬉しかった。
扇子に隠れた折姫をどう受け取ったのか、簪から手を離すとミカドはまた外の景色を眺め始めた。
会話はないが、嫌な沈黙ではない。
鼓動の浮き沈みが穏やかになる頃、折姫はいち早く伝えたかった言葉を思い出した。
「ミカド様、申し訳ありません。折っていただいた御守りを壊してしまいました」
「壊したのは、あなたではないだろう」
語りかければ、簪へ手を添える。その度にミカドの長細い指が頬に当たり、折姫は肩を竦ませた。ミカドの目は鋭い。
「怒っていますか」
「怒っていますよ。無節操な男にね」
「もう、……折っては、くださいませんか」
「また持ちたいと? 怖い思いをしただろうに」
「怖くなど、ありません」
「それならば、いくらでも折ろう。その代わり──、分かっているね?」
そう言って、二枚の折り紙を取り出した。
ミカドが御守りを折り始める一方で、折姫は考えあぐねた。懐に入れるならば平べったいほうがいいが、動いている様が滑稽だ。
「鶴は簡単すぎるし、……うーん」
「次は乗り物がいいな。御所のなかを走り回れる、小回りのきくような」
都合の良い注文であったが、折姫はひらめいた。持ち運びよく、格好もつく乗り物を思い付いたのだ。
「じゃーん!」
「危ないっ」
折り終わったと同時に牛車が止まった反動で、大きく揺れた。バランスを崩した折姫はミカドの胸に自ら飛び込んでいた。
支えるためだろう、強く抱き寄せられた折姫は、袿の厚い衣の上からでも、大きな手の熱を感じた。
それからミカドの狩衣から微かに薫る、桜の香──。
「着いてしまいましたね。これを」
ミカドは折った折り紙を折姫の懐に己れの手で直接差し込んだ。肩を抱いたまま優しく起こし、折姫の手のなかのものをさらっていく。
「この先は私にも役が有りますので、同行出来ません。折姫はシオンに従うように」
「──はい」
折姫の胸は、もうどうしようもなく、愛しいと、震えていた。
花宴は御所の正殿である紫陽花殿で開かれていた。既に殿内には人が溢れており、左近の桜を囲い花見酒が始まっている。ミカドに続き恐る恐る牛車を降りると、彼の姿は既になく、手を差し伸べてきたのはシオンだった。
「姫さまー! せまい御所をどう寄り道していたのですか!」
「はあ、はあ」
「はぁ?」
「鼻血でるかと思いました」
「いやぁ、でなくてよかったです」
意気揚々と教えられた通りに正階段を上っていく。すると軒下を埋める公達の視線が、すべて折姫へ注がれた。間が悪かっただろうかと、几帳のある内部へと急ぐと、敷居を跨いだ途端、辺りが騒然とし足が止まった。
「あの唐衣裳は、女御では。桜模様──、まさか桜の壺」
「新参者が遅れてくるとは、なんと図々しい」
「忌々しい、鬼門の住人」
「ものの怪と暮らしているらしいですわよ」
「では鬼の娘か」
「主上も寄り付かない譯だ」
ヒソヒソとたなびく会話は嫌でも折姫の耳に入る。宮中の女は冷たく野次も多いとは聞いていたが、足を止めれば鴨がかかったように折姫を虐げた。ミカドと甘いひと時を過ごした折姫には、屁でもなかったが、後ろに従うシオンは焦燥とする。
女御の席はこの几帳のなか。
横に広がる隔たりのない座敷と決まっているのだが、折姫の落ち着ける座が、ひとつもない。実際空けられていたのだが、その座には空いたつまみの皿や瓶子で埋まっていた。どこぞやの女房の悪戯だ。
晒し者となった折姫が痛ましく、困り果てたシオンが退座を進めようとした矢先──。
「お待ちしておりましたぞ」
折姫の手を引いたのは、カヲルだった。
女御の座敷より階段上は、几帳で隔てた皇族たちの御座。カヲルはそれより高見へと誘い、ついには主上の高御座下の帳台まで、のぼりつめた。
周りから悲鳴に似た批難の声が飛び交うが、カヲルは気にする素振りを見せない。
「困った姫君に救いの手を差し伸べて何が悪い。さぁ、どうぞ」
帳台のなかには女房がふたり、端に控えていたが、カヲルは彼女らばかりでなく、シオンまで追い払い、折姫をなかへ入れた。
「カヲル様、あなたは一体──」
女房たちは、「主人」と言っていた。つまり、この帳台はカヲルの御座ということだ。
今日のカヲルは桜の映える濃緑の小袖袴に髪と同じ金色の扇子を携えている。美しいが礼服には程遠い。位が高い公達ほど身軽なのだと、いつしかシオンが言っていたのを折姫は思い出した。
「女は美しいものに妬くものだ。気にするな」
「ありがたいのですが、わたくしのような者が、このような高座には居られません」
「堅いなぁ、お前」
カヲルは横柄に胡座をかくと、人が変わったように口調が砕けた。
「今さらかしこまるな。文の調子でいい」
「ですが」
「宴の席だぞ、つまらんことを言うな。助けてやったんだ対価に付き合えよ。酒だ、さ、け!」
「はぁ──」
カヲルに手紙を返したあと、ふたりは毎日のように手紙を交わすようになっていた。その一週間はふざけた文面に笑わされ、さあどう冷たく返そうかと、暇を潰した。
今では、シオン以外に心を許せる友ができたようで嬉しい。特に宴という目新しい席では、彼に救われホッとしていた。
自ら瓶子を取り、カヲルの盃を酒で満たしていく。
「それで、薫の君は一体何者なのですか。手紙では吟遊詩人だなんて、適当なことをおっしゃっていましたけど」
「カヲルでいい。お前も位を気にするか」
「こんな高座に連れてこられたら嫌でも気にします」
「そうだな、お前と一夜過ごしても許される身分……とでも言っておくか」
「へぇ。ところで、いただいてもいいですか」
気のない返事をして目の前の干し杏子を摘まんだ。腹が空いていた。カヲルには助けられたが、折姫は正直、そばに主上が居るのかと思うと、気が気でない。
その様子にカヲルはムッと苦り切った顔をした。
高座へ連れてこられた女は、身を強張らせるか、優越感に浸るかのどちらかだ。折姫はどちらでもない。柔らかな物腰で酌をするじゃないかと思えば、先につまみを食べる。なにより己れに関心がない。女に色目を使われないのも、誘いに乗ってこない女も初めてだ。
「お前、俺といて、こう、胸が高鳴らないのか」
「はあ」
「御所一の色男が、抱いてやってもいいと言っているんだぞ」
「御所一? それって、ご自分でおっしゃること?」
つい、手紙のように切り返してしまった。
折姫は思う。
たしかにカヲルは美しいが、折姫にとって、従姉妹の千速がやり込んでいた乙女ゲームに出てくるキャラクターにそっくりで、現実味に欠ける。北欧の面構えに袴は違和感しかないし、親友の推しキャラになんの感情も沸かなかった。
唖然としつつも、見惚れているのはカヲルの方だった。杏子をかじるちいさな唇は、口付けを求めるようにふっくらと艶めいている。
「俺にも食わせろ」
「失礼を。カヲルも食べたかったのですね」
差し出された杏子ではなく、唇に食むそれを奪ってやろうと顔を近付けた。
折姫は冷ややかに言う。
「脳みそを飛び散らせるのはご勘弁くださいね。この衣裳、主上の賜り物ですので」
カヲルは襟もとから覗く御守りをみつけると、膝ごと退いた。
「お前、俺の命より着物の心配した?」
「当然です。私、根に持つほうですので」
「あったまきた! 上等だ、呪い返ししてやる!」
無理やり顎を引き寄せるが、
「ちゅーだね、姉上」
「うん、ちゅーしようとしてるね」
いつの間にやら可愛らしい女御子がふたり、ちょこんと正座していた。
「ひ、姫ぎみ! こ、これはだな、あれだ、親切心で口についた杏子をとってやろうと──」
「なんて可愛いらしいの!」
折姫はカヲルを突き飛ばした。単純に腹立たしかった。
「はじめまして、私は桜の壺の女御、折姫と申します。おふたりのお名前は? おいくつかしら」
「アスナ、四さい」
「コトハ、しゃんしゃい」
貺都へ来て初めて子どもに出会った折姫は、手を叩いて喜んだ。それも花の精のように愛らしい姉妹。花見の特等席をふたりへ譲り、いっしょに肩を並べた。
「干し杏子はお好き?」
「しゅきっ」
「こら、コトハ!」
皿に手をのばすコトハを姉のアスナが阻む。
「果物をもらいにきたのではありませんっ」
「──、あ!」
唐突にアスナが折姫の御髪から花簪を奪い、うしろ手に隠した。子どものいたずらにしては、少々姫君の顔色が悪い。
「くれてやれ。この子達は白百合殿の中宮の御子だ。下手に関わらぬ方がよいぞ」
押しやられていたカヲルはそう言うが、折姫は退けない。中宮の御子というのなら、この子達は主上の御子でもあるのだ。折姫は、部屋を出ようと後ずさるアスナの御髪から、素早く簪を引き抜いた。
「あっ! ひどい……っ、返して……! それは父上から頂いた大切な簪なのよ!」
「あなたが私から奪った簪もまた、主上からいただいたものですが?」
折姫の冷厳な物言いに、アスナはしゅんと気落ちした。宮中にはへつらう女房と乳母しかおらず、厳しい顔をされたのは初めてのことだった。
「アスナ様は、私に簪を取られてどんな気持ちになりました?」
「……悲しくなった」
本心を口に出すと、ポロポロと涙が溢れ出た。それでも折姫はうろたえず、アスナの目を見据え、言った。
「私も、同じ気持ちになりました」
アスナは手の中にある簪をジッと見下ろした。
折姫はその簪を颯と奪い返すと、何を思ったかアスナの髪へさした。次にはアスナの簪を自分の髪へさし、にっこりと、砕けた笑みを浮かべる。
「お姉ちゃんと遊んでくれたら、返してあげる。おいで?」
見渡しのよい明るい物見へふたりを誘うと、懐紙袋から白い折り紙を取り出した。これも主上に頂いた物だ。直ぐに遊べるものがいいだろうと、コマを折る。
吹き込んできた桜のはなびらを挟み、畳でクルクルと回した。
「わぁあ! すごーい!」
直ぐに欲しがったコトハへそれをやり、続けて二、三折っていく。酒が乗っていた盆を返し土俵にすると、コマをのせて再度、アスナとカヲルを呼んだ。
「え、俺も?」
「いいから。落ちたら負けですからね?」
最初は物怖じしていたアスナも、大人と対等に競い合えるその遊びに夢中になり、涙が渇れ、笑みがこぼれた。空いた干し杏子の皿を埋めに女房が走ると、瞬く間に殿内に話が広まり、御子たちがその帳台を目指す。子どもが子どもを呼び、折り紙も果物も売り切れる。
紫陽花殿の篝火に炎が点るころには、カヲルの高座は床が軋むほど子ども達で溢れ返った。