七折
貺都は季節を重んじ、宣明暦を暦としている。
太陽と月の動きから陰陽師がその年の暦を事細かく決めているが、基本的には新月が月の始まりであり、満月は月の折り返し。
折姫が喚ばれた日から数えると今日は新月、四月の始まりだ。文机に広げていた暦の巻物をしまうと、和紙に筆を落とした。
「今宵は、新月ですね。と」
手紙を書いているのだ。
その表情は、晴れやかだった。
リンゴの事件の翌朝、帳台をおりると、桜の壺に着物と手紙が届けられていた。
カヲルだ。
もちろんそのすべてを、早々に突き返してもらった。ほかの男があつらえた衣裳など、目に入れたくもなかった。
折姫が着ている衣裳は変わらず、ミカドが調えた桜の唐衣裳だ。シオンが丁寧に洗ってくれていたため、無事に今も身にまとえている。
しかし突き返して終わり、ではなかった。
その日をかわきりに、カヲルからの手紙が毎日届けられるようになった。
日の数だけではない。朝晩、ひどい日は五通と、山積みになるほど増えていった。
捨てるほど無下にはできず、ついに折れて一通、開けてみたところ、
描かれていたのは一枚の絵であった。
美しい枝垂れ桜の下で、折姫に似た女が佇み、男を蹴っている。男はカヲルそのもので、必死に手をついて女に謝っていた。
思わず吹き出してしまう。
ではこの前はと、もう一通開けてみると、今度はひと言「お前さては文字が読めないな」と恨み言。なるほど、折姫が読み書きできないと慮っての絵であった。
折姫は挑発にのった。暇だったのだ。
時系列順に並べ、すべて読み進めた。
最初の一通は、謝罪文であった。男とは思えぬ美しい字で、真面目でひたむきに謝る姿が見えるようだった。
一通目だけだ。
二通目は詩的に、三通目は情熱的に。次第に大胆な恋文となり、読んでいる折姫が恥ずかしくなった。それも通り越すと、タメ口で日記のようなものを綴りだした。主上のビワをつまみ食いしたとか、犬に追いかけられたとか、カヲルの壮麗な出立ちに似合わぬことばかり。そして最後は恨み節。
うかつにも笑わされてしまい、自身も筆をとった次第である。
紙は貴重だというから、ダメもとでシオンに手紙を書きたいと申し出たのだが、次の日には文机ごと届けられた。
最も、カヲルへの手紙は早々に書き終えている。乱れひとつない字で、暇つぶしをありがとうと、そんな内容で。ありがとうには、手紙を書くことを気づかせてくれて、という意味もふくませた。
そう、ミカドへ書くのだ。
主上の手前もあり、逢いたいとか、寂しいとは綴れない。ただ、御守りを壊したことを謝りたい。またいっしょに折り紙が折りたいと、伝えたくて。
それでも彼を想うと字が乱れてしまい、何度も書き直しているうちに日は傾いた。最後につばさの生えたフクロウの折り紙を添え、舎人を呼ぶ。
「シオン、お使いをお願い」
「終業まで限りあり。墨のお片付けは?」
「私がやります!」
「仰せのままに」
散らかした和紙をかき集めると、右から出て行ったシオンが左から帰ってきた。
「任務完了でございます」
「早かったですね。墨のお片付けできますね」
「お約束が違いますね」
「ほんっと、汚れ仕事が苦手ですね!」
ネコたちの掃除は日課になったが、厠と湯殿の掃除はもっぱら折姫の仕事だ。理由は歴然としている。紙を依代としたネコは水仕事ができない。
「それよりほら、見てくださいよ!」
シオンの手には、金箔の乗った玉手箱や雅な反物が山のように積まれている。
「なんと主上からの賜り物ですよ。衣裳に花簪、化粧箱──どれも素晴らしい高級品ばかりです!」
着物はどれも金糸の刺繍で桜の花が描かれている。簪には見たことがない宝石が嵌め込まれ、化粧箱は貝紅だけで十種類詰め込まれている。
未だその影すら知らない主上が半月経った今、なにゆえ──。
「詔です。今月の清明に催される花宴に出仕せよと」
シオンは嬉々とし賜り物を広げると、さっそく折姫を着せ替え人形にし始めた。
ご機嫌なシオンに反し、折姫は傀儡のように動けなくなった。
清明ということは、今日から数えて七日。一週間後には、ついに主上と逢い見えることになるのだ。夢のひと時に暗幕が下されたように、折姫の目に映る庭の景観に影が差した。
運命のまま、いつかは必ずや組み敷かれ、子を成さねばならない。ミカドを想いながら他の男の子を抱くのかと思うと、白羽の矢が立ったあの日に引き戻されるように、心が冷えた。
肩に白いフクロウがとまる。
「あら、あなたは……、私が折った、折り紙?」
正面から見るとまるで本物のようになめらかに動いているが、横からみると薄っぺらい。
「ふふ。今度は、ふくらませてあげようね」
指をさしだすが乗り移らず、片足を上げた。小さな文が結びつけられている。ほどくとフクロウは役を終えたように、すぐに飛び立って行ってしまった。
ミカドからの返事だ。
広げてすぐに肩を落とした。
手紙は謝罪だった。忙しくしていて逢う暇がない、そんな内容だ。ただ末尾に添えられた一文は、折姫を奮い立たせた。
「──花宴の日、牛車を出し紫陽花殿までお供いたしますゆえ。また、その時に。ですって!」
「ああ、牛車のなかなら密会できますもんね。考えたもんだ」
「こうなったら、主上の賜り物をふんだんに利用して、着飾ってみせます!」
「はい、はい」
夕膳のタンパク質も更に五割増しで! と、まくし立てる。貺都へ来てからというもの、折姫はすっかり食べ盛りの高校生のようだ。だが折姫は現役の高校生のように激しい運動をするわけでもなく、一日の歩数は数えられる程度。そのくせ、高盛りのごはんをまだおかわりしようとする。
美しくなるどころか、ぷくぷくと肥えていかないかと、シオンは冷や汗をたらした。
「姫さま。タンパク質を増やすのでしたら、そのぶんお米を減らし──」
「こんにちはシオン。火をおこしておくれ」
言ってるそばから小豆洗いが白玉粉を、毛女郎はきな粉を担いで運び入れる。
「ちょっと! おふたりとも、ミカド様に許されてるからって調子に乗ってません?」
「お前こそ齢四〇の若造のくせに、口出しするんじゃないよ」
「四〇!?」
折姫のあからさまな「おっさんじゃん……」の視線に、シオンの硝子のハートが傷つく。
「これでもお年頃なのにぃ!」
火をおこすどころか、賜り物を片付けもせずに消えてしまった。
「ふん、使えないコだねぇ」
「あ、私が火をつけます」
「いいよ。せっかくの衣裳に火花がとんだらたいへんだ。先に湯浴みへ行っといで」
「はい」
折姫が湯浴みから戻ると、和やかに三人でならんで団子をこねた。なるほど、白玉粉ならばこねて、沸かした湯で茹でるだけ。ひとりでも作れそうだ。さすがに花宴では差し出せないが、またいつかミカドが来た日にふるまえるよう、試作を重ねようと、喜び勇んだ。
「きな粉に黒蜜、みたらし。味のバリエーションの多さも申し分ないです。ミカド様の好みはどれかしら」
「健気だねぇ、すっかり御執心じゃないか」
「幸せそうで、なにより」
「主上には内緒ですよ?」
妖怪ふたり、首をひねる。
「なにゆえ、主上には内緒なんだい」
「さあねえ」
折姫はまた、無垢に訊ねた。
「そうだ、シオンが姫さまはまだ手入らずだからって、よく言うのですが、どういう意味ですか?」
「手入らず? 入内して半月経っているのに?」
「やっぱり、未熟とか、そういった意味ですかね」
「いやいや、世話が焼けないとか、いい意味だよきっと」
「そうだねぇ。ミカド様はずいぶんと奥手だってことはわかったよ」
ふたりはコソコソ、耳語を重ねた。
奥手だからという理由で、片付けてよいものか。
女御が入内すれば三日三晩、通うのは夫なるミカドの務めだ。それがまったくなかったことになる。
忙しくしているようだが、休みにまで邪魔が入る譯でもない。先日もふたりきりにしたばかりだし、なかなかによい雰囲気であったのに。
「譯がありそうだな。調べてみるか」
「ああ、じいさん」
「やだなぁ、ふたりで内緒話しですか?」
「ワシらはツガイじゃからのう。イチャイチャもするわ」
「やだ、じいさんたら」
まさかの歳の差カップルに折姫は、驚きつつも、素直に羨ましいと思った。
しかし小豆洗いと毛女郎では異種婚姻にならないのだろうか。
そもそも夫婦で世話焼きの妖怪とは一体。
「怨霊がこっちみてるよ、じいさん」
「あいよ」
塀の向こうに、小豆をばらまく。
鬼は外とは、よく言ったものだ。
小豆洗いの小豆は、弱い怨霊や鬼ならば簡単に祓えた。
折姫は、おかげ様ですっかり怪異に慣れた。
鬼火はイルミネーションの一部であるし、怨霊の叫び声がすれば、静かにしてと叱咤する。
ふたりが来ていなければ、今もひとり、震える夜を過ごしていたというのに。
それにふたりと話すと、ずいぶんと心が楽になった。今なら主上が来ても、仁王立ちで迎えられそうだ。
妖怪と居る時間が最も穏やかになれるとは、お化け屋敷の主人としてはなかなか筋が通っているのではなかろうか。
折姫は思う。
「それで結局のところ、手入らずとは?」
根負けした毛女郎が耳打ちをして、その夜の宴会は終わった。
翌朝、シオンが正座で問い詰められることになったのは、言うまでもない。