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おりひめと蠱毒の後宮  作者: 紫 はなな
芙蓉の鯉
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六折

 夢の一夜が明け。


 カヲルの機嫌はすこぶる悪かった。

 朝からミカドが出仕せず、陽が高く昇ろうとしているのだ。無断で休むことなど一度もなかった男だ。それも休み明け。不安を抱いた宮女たちがカヲルに群がり、務めも思うようにいかず、苛立った。


 昨夜には丑寅の方角へ歩いていたという噂を聞いて、居ても立っても居られず、ついには己れの足を奮い立たせた。


 噂の通りに目指せば、西陽に正規を妨げられ、思うように進めない。御所の果てへ行き着くころには陽がかげろうとしていた。ただでさえ夜は鬼が跳梁するこの周辺、己れののびる影すら薄気味悪い。


 だがカヲルという男は、そこで踵を返すような性格ではなかった。


 かたく閉じられた桜の壺の門を前に、ほくそ笑む。

 入るなと拒まれたならば、入る。

 そんな男だ。

 門の錠に足をかけると、軽々飛び越え内へと入った。

 しかし、門のなかは見事になにもない。

 殿舎の顔というべき表の庭は雑草だらけ、シロツメグサが咲き乱れている。入り口を探すが、どこもびっしりとしとみが下ろされ、力を入れてもびくともしない。

 目を瞑り、ぶつぶつとなにやら唱えたが、すぐにやめた。


「ミカドめ。ややこしい結界敷きやがって」


 カヲルは機嫌が悪かった。

 では塀を飛び越えてやろうと、門の外へ出て、裏手にまわった。だが今度は、塀に問題があった。まるで何百年と手入れされていない壁なのだ。試しに足をかけるだけで、簡単にヒビが入った。手を這わせれば、揺れるほど綻び朽果てている。ひと思いに身体を預け、登れば崩れてしまいそうだ。


「こりゃあさすがに無理かなぁ。……お?」


 諦めかけたそのとき、桜の枝下に隠れる裏戸が、僅かに空いていることに気付いた。


「……ははっ!」


 カヲルは舌なめずりをした。

 ミカドが来ている。

 気のない振りをして、やはり密に通っていたのだ。俺の興味を削ぐためだろう、それだけいい女だということだ。


 日が昇っても離れがたいほどに。


 思えば女を喚んだあの夜、長居させぬようにと、怪を理由に外へ急がせたのではないだろうか。

 

「あぁ、くそ……!」


 戸を潜ったはいいが、閉めきっているせいか夜のように暗い。緑と桜が空を覆い隠し、木漏れ日さえ届かない。ただでさえ視界が悪いというのに草は膝まで伸び、歩みを阻む。


 手入れが行き届いていないという程度ではない。明らかに人の入りを嫌う幻術だ。そこまで厳重に隠されては、引き下がる譯にはいかない。


 一目会い茶化そうと袴が草露で汚れても気にせず、ズンズン奥へと進んでいった。

 徐々に緑が拓き足場が軽くなってきたころ──。


 陽を集め、燦々と蘇芳色に輝くそれが、コツンと爪先の邪魔をした。






 

「まだ見惚れます?」


 鏡の奥でシオンが呆れた顔をしている。それもそのはず、折姫が鏡台の前に座って、半日が過ぎようとしていた。

 

「見惚れてた譯では」


 ないが、気まぐれにシオンに化粧をほどこしてもらったことで、心が浮ついていた。湯浴みで落とす前に、目に焼き付けておきたい。ミカドに見てもらえないことが悔やまれる。


「私にもできるかしら」

「簡単なもんですよ。私のしごとがなくなるので、教えませんがね」

「でも、その……、夜、とかに」


 シオンはネコたちに火の玉を指示しながら瞬時に悟った。

 昨夜またなにかあったな、と。


「しかし姫さまは、いまだ手入らず。では湯浴みのあとにでも、夜化粧をお教えしましょう」

「前々から気になっていましたが、手入らずとはなんですか」

「もともと整ったお顔立ちをしているのです。少し手を加えるだけで充分ですよ」


 サラッと流されてしまい、気に入らない。次に毛女郎が来たときにでも、教えてもらおうと思う。


「ほらほら湯浴みへ行ってらっしゃいませ! 私の終業まであと半刻ですよー!」

「ほんっと、やる気のない舎人ですね!」


 縁で胡座をかきながら、りんごをお手玉にし始めたので、ひとつ奪ってやろうと手を伸ばした。

しかし球技など、ろくに経験のない折姫は指で庭の方角へと突き飛ばしてしまった。


「姫さま! 食べ物を粗末にしてはなりません!」

「あなたにだけは、言われたくありません!」


 縁から落ちた弾みで、リンゴは茂みの奥へとどんどん転がっていく。どうせこれから湯浴みをするのだ、折姫は裸足になり、庭へと降りた。


「衣裳は汚さないでくださいよ」


 怠惰なシオンは主人を止めない。折姫は湿った土を踏みしめ、リンゴを追いかけた。下り坂にでもなっているのか、なかなか見つからない。やっと見つけたと思ったら、足で小突いて逃げられてしまった。

 昨夜、まるで自分のようだと、扇子のなかで見たネコを思い出す。扇子のネコは、リンゴを見つけられただろうか。


「もう、また見えなくなっちゃった」


 桜の幹より奥にあるのは、深い茂みだ。

 折姫は袖をめくり、大胆に草を掻き分けた。

 

 現れたのはリンゴではなく、まるでミカンのような金色の着物と金色の髪。


 ──男だ。


 ミカドではない誰か。

 折姫は息を引き、退いた。扇子は鏡台の前に置いてきてしまった。袂で顔を隠しながら逃げようとするが衣裳が縺れ、躓いてしまう。


「おっ、と──危ない」


 ひょいと腰を抱かれ、そのまま腕の中へと引き寄せられた。嗅ぎ慣れない華やかな香りと温もりを感じ、恐怖で身体が総毛立つ。折姫は男に支えられながら、どうしたものかと内で震えた。


「そんなに怖がらないで。ほら顔をおあげなさい、これを探していたんだろうに」


 優しい声音に一寸気の緩んだ折姫は、おそるおそる両手を椀にして捧げた。コロンッと手のひらに重みを感じ、胸を撫で下ろす。

 礼を述べるためにもそろそろ、男の腕から逃れたい。

 渋々顔をあげる。

 見上げた先にあるのは、ビー玉のように澄んだ、碧色の瞳──。


「カヲルさま……?」

「貴女は、垂れ桜の君──」

「姫様、ご無事ですか!」

 

 シオンの呼び掛けに気を取り戻し、男の腕を逃れ縁へと走る。男の来訪にはシオンも驚いた。


 桜の壺に、最も立ち入ることができぬはずの男だ。


かおるの君! どのようにして、この中へ」

「いや、ミカドを探していてな。ここに居るのだろ」


 薫の君とは、御所でのカヲルの愛称である。女のような華やかな香りにカヲルの名をかけ、そう呼ばれている。

 カヲルはシオンの問いかけに応じつつ、折姫を目で追いかけた。その美しくも熱い視線に折姫は戸惑い、シオンの陰に隠れる。

 怯えきった主人の様子に、シオンは眉を吊り上げた。


「居りませんよ。今日だけでなく、もう十日ほど行きあっておりませんね!」

「お前は、ね」


 カヲルは折姫から視線を外さない。

 折姫はというと、カヲルから気をそらし、別の不安を抱いていた。

 カヲルの口ぶりでは、まるでミカドがここにいて当然のようだ。今でも近くにいるのかと思うほどに。本来ならばもっと会う機会があるのだろうか。今日がその予定であったのか。ほかの後宮女人は、毎日のように会っているのだろうか。


 昨夜のような語り合いを、別の人と。


 カヲルは機嫌が悪かった。

 己れがみつめているというのに、娘は関心を寄せるどころか、他のことで気もそぞろにしている。


「こちらのお姫さまは、会っているようだぞ」


 カヲルは距離をつめシオンの腕をかい潜ると、折姫のもつリンゴを懐に押し込んだ。


 一寸、なにが起きたかわからなかった。


 折姫に衝撃は一切なく、胸もとでリンゴが弾け飛んでいた。


「おお、こわ。俺が胸に頭をうずめていたら、脳みそが飛んでいたな」

「そんな……、この、衣裳」


 ミカドの調えた衣裳がリンゴの果肉と果汁にまみれてしまった。それだけでなく、懐にあった折り紙がちりぢりに宙に舞った。


 昨夜に折ってもらったばかりの御守りだ。


「すまない、ここまでとは思わなんだ。すぐに新しい衣裳を届けさせるから、どうか許して」


 それだけ言うと、カヲルは来た道を戻っていってしまった。


 折姫は茫然と、しばらくその場に立ち尽くした。シオンに湯殿まで付き添われ、衣裳を脱ぐのを手伝ってもらったが、そのあとの記憶があまりない。

 のぼせてようやく湯から上がれば陽も沈み、シオンの姿も消えていた。

 珍しく働いたのか、部屋には汚された着物も、リンゴの香りもなくなっている。


 夢であって欲しいと、懐に手を入れミカドの御守りを探すが、虚しくなるだけだった。


 そんな日に限ってクロの来訪はなく、折姫は泣き寝入るまで涙をそぼふらせた。





 *





 同日、朧月の宵。

 白百合殿の中宮は恨めしくその背中をみつめていた。

 肌が離れてすぐ、乱れた敷妙から衣をすくうと、いそいそと身支度を済ませる。春風が冷たく、桜の残り香まで浚っていくようだ。


「今夜もこちらで御休みにはならないの」

「すまない、これも私のえきだ」


 中宮はわかりやすく、長い御髪ごと顔を背けた。

 これ、とは平等に後宮を渡り歩くことだろうか。いまや自分はそのひとりでしかないとでも。


 主上は、拗ねる妃を思いやり優しく肩を抱いた。


 だがこのあとも、他の女に同じことをするのかと思うと、中宮の胸は悋気で燃え盛る。

 

「男御子が生めないとわかると、お捨てになるのね。ミカドは、ひどいお人」

「誤解なさるな。すべてはあなたをお護りするため、今しばらくの辛抱を」


 中宮は、主上の愛らしいその笑みすら疎ましいと思う。

 桜の壺の女御が入内してからというもの、主上は白百合殿で一度も休んでいない。若い娘に目がないことはわかっていたが、腰紐がゆるすぎる。


「それでは──」


 主上は御帳台を降りると、紫宸殿へは戻らず渡殿から裸足のまま砂利道へ降りた。足音は高く弾み、丑寅の方角へ。

 ふらつきながらも健気に通う息子ミカドの背中をみつけ、飛びついた。


「水路は調べ終わったかよ」

「先ほど。地図におこすのに一日がかりでしたよ」

「よし、着いたら見せてもらおう」

「まさか、今日も春宮御所へお泊まりに?」


 うんざりとした顔で言う。


「いいだろ? 占で中宮は、ひと月前に懐妊している。無理はさせられん」

「無理をさせずに眠ればよいのでは」

「一緒に寝ると何度も襲いたくなるんだよ。まあ、お前もいずれわかる」


 嬉しそうに口笛を吹きながら扇子でミカドの鼻先を指す。


「中宮にはまだ言うなよ。心が不安定な時期だ」


 言ったほうが、安心するのではと思うが。

 主上はにやにやと、扇子の先を泳がせた。


「お前は今日も桜の壺へ行くのか? ん?」

「行けませんか」

「いいや? 私と違って、よく辛抱しているぞ。感心、感心」

「人の気も知らずに。あの人の力に気づかなければよかった」

「まあまあ、いっときの話しであろ。……しかし、まさかカヲルを桜の壺へ立ち入らせるとはな。大した自信だ」

「身を粉にしてまで、友に隠しごとは無粋だと気づいたまでです」

「吠え面をかかされるなよ? 女の身も心も移ろいやすい」

「カヲルには、花宴はなのえんのあとにでも釘を指しますよ」

「手遅れにならなければよいがな」


 ミカドは口を閉ざした。

 己れの扇子を開けば、黒ネコと鯉が対峙している。


「父上、凶が出ました」


 主上もまた、一度に扇子を開ききる。


「……寝るな、という神の思し召しか」

「急ぎましょう」


 主上は、今度は指笛を吹いた。

 白い虎が夜の森を駆け抜け降りてくる。勢いをとめることなく、背にふたりをのせると、椿の壺を目指した。


 椿の壺の門前には、既に近衛兵が召集されている。

 虎から飛び降りた主上へ、カヲルが跪いた。


「畏くも、女御様の御寝所に鯉がでました」

「寝所に、だと?」


 主上の顔色が曇る。


「金魚鉢を割って現れ、側にいた女房をひとり啖おうとしたそうです。ですが」

「なんだ」

「狙いは、女御様のようで。我々が着くまで、鯉は殿内を跳ねながら、女御を追いかけていたそうです。今は御帳台に結界を張りお護りしているのですが、未だ殿舎から鯉の気配が消えませぬ」

「ミカド、椿の壺の水路は」

「湯殿と水屋、それから南庭の溜め池です」

「三手に分かれるか」

「では私は、湯殿へ」

「湯殿は俺が浸かりたいから、ミカドは溜め池へ行け」


 占で、溜め池に鯉が出ると知っていたのではないか。

 ミカドは憮然としながらも南庭へと向かった。

 

「……やはり」


 墨のように暗い池のなか。見下ろすだけではわからないが、奥になにかが潜んでいる。

 ミカドは気配を閉じると、静かに扇子を開き、そのを唇へ滑らせた。


 血が直線に流れ落ちる。


 ミカドの扇子には、天辺に剃刀が仕込まれている。

 生き血で神を喚ぶために。

 落ちた血を扇子で受け止め、宙に弾き飛ばすと、ひと筋の柱が空へのぼった。


「ふん。封じられぬならば、滅するまで」


 ミカドに使役された雷神は、躊躇いなくバチを掲げたが──。


「みて! ほんとうに、いらっしゃっているわ!」

「所作がまるで舞のよう。なんて麗しいの」


 女房たちが色めきたち、鯉にミカドの存在を気付かれてしまった。

 溜め池へ雷が落とされる一寸前、鯉が屋根より高く身を跳ねさせると、ザバリと音をたて、奥深くへと潜っていった。


 後ろ手で見ていたカヲルが言う。

 

「いやぁ、逃げ上手ですな。雷より速いとはね」


 扇子を閉じる。

 血飛沫が散ると同時に神も還った。


「この私によく、話しかけられるな」

「うん? なんの話し?」


 素知らぬふりをして夜空を仰ぐ。

 雨雲が一斉に退き、済んだ月が現れた。


「逃げ上手には……やはり、囮が必要か」

「囮? 鯉は女御しか啖わんぞ。そんな役、引き受けてくれる女御がいるかよ」


 居るには、居るが。

 昨夜得た温もりを確かめるよう、手のひらを眺める。血まみれだ。


「それよか、今は主上の心配したほうがよくない? 水路は繋がっているぞ。湯殿まで通電していたら──」

「うむ。なかなかに、痺れたぞ」


 半裸で湯気を立て、主上が並ぶ。

 気のせいか、短い髪が逆立っている。


「どうやら、鯉は夜行性らしいねぇ」

「は、はい」

「お前らふたり、朝まで後宮の見回りね」

「主上は!?」 カヲルが半べそで問う。

「夜な夜な後宮を渡り歩いていたら、中宮の耳に入ってしまうだろう」

「私利私欲のまま!」

「なんとでも言え。鯉は腹を空かせたままだ。捕えられるまで、陽暮れから夜明けまでがお前たちの務めだ、わかったな」


 意地悪く、ミカドの腰を指して言う。

 腰には、今日も二種類の酒がぶら下がっている。


「仰せのままに」


 覇気のないふたりの返事を聞き入れると、指笛と共に主上の姿は消えた。


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