五折
時は日の入り前。
御所の方角は辰巳、薔薇の壺。
金糸雀色の月が水面で揺れている。庭の堀池で男が一人、篝火も焚かずに釣り竿を垂らしていた。
「釣れたかよ、ミカド」
「そう急かすな」
ミカドの背中を酒の肴に、カヲルは湯上がりの髪を女の膝へ預け、ひたすら瓶子を空けている。
女は白い芙蓉が咲く唐衣裳を身にまとう、赤毛の美女だ。背中ばかりで美しいミカドの顔立ちが見えず、面白味のない景観に飽きた女は、カヲルへ語りかけた。
「新しく入内された姫君は、なんでも桜の壺を与えられたとか」
「よく知っているな。日の当たらぬ後宮の最果て。今や人も寄り付かぬ」
「それが入内されてから毎日、ものの怪が現れるらしいのです。世話焼きに行った女房が女の怨霊に声をかけられたり、夜には塀の内から老人の声や気色の悪い音が聞こえるだとか。桜の壺の女御が可哀想ですわ、浄めが必要かと」
さも気の毒そうに語るが、女の顔は愉し気だ。
「おい、ミカド。噂がまことなら早い方がいい。今から出向くか」
「あの邸に怪はない。暇を弄び女御が放った狂言であろ」
膝枕の女は高笑いするが、カヲルとしては面白くなかった。
桜の壺は鬼門に位置する忌々しい呪いの園として、後宮で名が知れているが、春宮御所へ唯一渡殿でつながる殿舎でもある。
主上が白百合殿の中宮を寵愛し、五年。
久しぶりの入内にミカドは是非にと桜の壺を勧めた。表向きは桜の壺の女御。
その真実の姿は春宮妃で違いない。
ミカドはときの春宮──、皇太子である。
貺都は奈落。人の命はあわやひえ。
その鬼ヶ島を統治したのは、強き陰陽師であった。陰陽師は城を築き、己れを中心とし、結界を敷いた。
それが御所だ。
陰陽師は、人と妖の共存する世界を作り上げた。そのために陰陽師自らが統治し、強くあらなければならなかった。千年経った今もその血が薄まらぬようにと、後宮御殿には霊力の強い女が集められる。なかでも異界から招き入れられた娘は、特別に可愛いがられた。そしていつの時代も強い女たちの標的とされた。後宮は女の怨でいつも満たされていた。それも五年前までの話だ。
次代に最強と謳われるミカドが控えた今、後宮は穏やかだ。数えきれぬ主上の御子が育ち盛りで、今やそれどころじゃない。後宮は子どもたちのはしゃいだ声であふれ、乳母が走り回っている。
入内させた桜の壺の女御が異界の女と知れたあとも、後宮に波風が立つことはない。では何が面白くないのかというと、ミカドのこの態度である。
ミカド自身が態々、桜の壺へ入内させたのだ、さてどんな寵愛ぶりかと思いきや──この男、喚んだ後は放ったらかし。
務めを終えたあとは、毎晩のように薔薇の壺で呑みつぶれている。
確かにあの古ぼけた邸に相応な影の薄い女だったが、せめて三夜くらいは通ってもよさそうなものを。
顔色を変えない、涼やかなこの男から女を奪い、一泡ふかせてやろうと企んでいたのに、これではまったく張り合いがない。ああ、面白くないと溜め息をつくカヲルもまた腹違いの兄弟、ときの二の宮。第二皇子だ。
貺都のあらゆる美姫がふたりの寵妃にと、後宮内に何人も控えているのだが、どちらもふらふらと遊び歩いてばかりで、身を固める素振りを見せない。
「それで、何をお釣りになっているの?」
「鯉だよ」
「鯉、ですか」
つまらなそうに扇子の奥で欠伸をこぼす女の後ろ手には、掛軸が掛けられている。垂れ桜の枝下で花吹雪に降られている、女の墨の絵だ。しおらしくも愛らしい少女で、膝枕の女とは似ても似つかない。
誰しもが縁の外を眺め、少女に背を向けていた。
少女の黒目がギョロリ、と下向いたが、誰しもが知らないことだ。
「来たか」
ミカドは唇にソッと人差し指をのせ、呪を唱えた。
次には釣糸がビン、と張られ、獲物が掛かったように見えたが──、水面に揺らぐ朱玉は二つ、ミカドの姿を捉えると餌を離し、また水底へ沈んでいった。
「釣れたかよ」
「すまん、逃がした」
カヲルはガバリと起き上がり、背後の掛軸に目をやった。
桜の枝下は、藻抜けの殻だ。
「この絵を仕上げるのに何日費やしたと思っているんだ」
「だから謝った」
釣り竿を引き上げると、針に女の黒髪がごっそりと絡まってる。身は啖われてしまったようだ。
髪もやがて黒い波紋を拡げながら、水に溶け消えていった。異形に啖われたのは、カヲルが描いた墨の絵の女だ。
「私の気に勘づいた。賢いな」
「どうするよ。網でも張るか」
「そう急かすな。魚は釣れないものぞ」
「釣れなきゃ、今日も御所は肝だめしだ」
異形は異形を呼ぶ。
花見盛りの御所は毎夜、鬼火や妖鬼が飛び交い、活気もひと気もない。それらを駆除することが、今のふたりの務めであるが──、
大きな獲物が御所の水路に放たれ、三月が経とうとしていた。
「呪怨とは、いとおそろしや」
そう呟くと、カヲルは気だるそうに空になった瓶子を振り、女の腰を抱いて部屋の内へと消えていった。
その襟足に竿先の焦点を合わせながら、ミカドはニヤリと薄笑う。
「大物釣りには、格別な餌が必要か」
空を仰げば、綺麗だった月が雲に隠れている。
竿を肩に担ぐと珍しく徒歩で、夜の御所を丑寅へと去るのであった。
*
シオンの居ない夜の桜の壺は、折姫ひとり。
火ともし皿の灯りだけでは心許ない闇が部屋を覆う。
ただ、賑やかだった。
「じゅう、じゅういち、じゅうに」
「何度数えても、私の勝ち」
縁で囲碁を嗜むのは、ものの怪。
小豆洗いと毛女郎。
その横で三人分の茶を淹れるのが、折姫だ。
毛女郎は、四日目の夕暮れにやってきた、ふたり目の客であった。
結界に穴を空け、御簾を閉め忘れた罰として、女房の格好をさせられていたシオンが、「彼女のほうがしっかりしているから」という理由で連れてきた。
着物の柄も見えぬほどの真っ黒なその出立ちには少し驚かされたが、小豆洗いと仲良く手をつないで現れたので、笑顔で迎え入れたものだ。
髪に覆われ顔は見えないが、隙間から現れる土産は折姫のツボを得たものばかり。
今ではすっかり茶飲み友だちである。
折姫は団子で頬をふくらまし、恍惚として言った。
「まさか、ここでみたらし団子が食べられるなんて思いませんでした」
「自分でも作ってみたらいい。材料もってきてやるから」
毛女郎の物言いはまるで祖母の言い回し。ただ、折姫が団子の串をしがんでも怒らない。そんなに美味しいかいと、笑って喜んでくれる。
折姫は、結界が張られているはずの桜の壺に、ふたりがどうして入れるのかは、訊かなかった。きっと出たくなってしまうから。
それくらいには、日の数だけが進んでいた。
「おや、今日はお早いことで」
皿を片し、もう一局はじめようかというところで、また客が現れた。クロだ。
「ほんとう! 今日ははやいねぇ。おふたりにミルクをいただいたの。飲む?」
皿に注いでいる間に、小豆洗いと毛女郎は帰り支度を終えていた。「あとは若いおふたりで」と、いそいそと立ち上がる。
「例のもの、御寝所に置いときましたんで」
小豆洗いがネコに耳打ちをして去っていく。さてはクロは化け猫かとジトと見つめるが、ミルクを舌ですくうその様子はかわいいばかりで、判断出来かねる。
折姫はクロのお尻を覗き込んだ。
「尻尾は、二股じゃないなあ」
「おや珍しい。あまり懐かないネコなんだがね」
折姫は蝋人形のように固まった。
ずっと聞きたかった声が耳もとで囁かれたから。
「こんばんは。月が綺麗ですね」
ミカドはすぐに折姫から離れた。
囲碁盤に瓶子を置くと、縁に腰を据え、さっそく手酌を始める。今日は白い狩衣姿だ。より一層、陰陽師らしいその居住まい。葉桜を背景に盃に酒を満たすその怜悧な横顔は、まるで絵画を見ているようだ。
ミカドの紅い唇が動く。
「今日は、お付き合いいただけませんか」
我に返った折姫はクロを抱き上げ、琥珀色の瞳に自身の顔を映した。確認してよかった、口の端にみたらしのたれがついていた。しっかりと拭い取ってから、ミカドの隣に滑り込む。
月が綺麗だというからあらためて見上げてみたが、半分ほど欠けて、その半分も雲に隠れている。
「おつきさま……」
「ゴホン。知らぬ間に雲がでてきたようです」
折姫は思った。
邸へ入る前は雲がかっていなかったのだろう。もう一度、見上げてみる。半分だろうが今日の月は、昨日眺めた月よりずっと美しく映った。
「ミカド様といっしょだからでしょうか。どんな月も綺麗に見えます」
空を見上げていたミカドの顔が、おもむろに折姫へ向けられた。なにか言葉が返ってくるのと、折姫もまた反射的に顔を突き合わせると、
ミカドは驚いた様子で、黒い瞳を震わせていた。
援護したつもりが、とんでもないことを口から突いてしまっていたと、折姫もまた気づいて、頬を染めた。いや、紅を落としたように、耳まで紅く。
ミカドはふたたび空を仰ぎ、折姫は盃を手に取るため、互いに視線を散らした。
折姫は甘ったるい口のなかをすすぐように、盃を一気に干した。
焼けるように喉が熱くなり、口を覆う。
ミカドは空いた盃を折姫から奪うと、鼻に近づけ、颯と嗅いだ。酒の匂いだ。
「また私のものと間違えましたね。いけない人だ」
碁盤がふたりを隔てていてよかった。ミカドは折姫のふらついた肩を正す程度に触れると、新しい盃を手渡した。甘酒だ。
「さあ、お口直しに」
折姫はまた一気に流し込んだ。焼けつく喉が甘くとろけた液体で満たされていく。
あまりの恥ずかしさに、瞼が開けられない。
満足にお酌もできず、盃まで取り間違える。今までなにを習ってきたのか、自身の稚さに潰されそうだ。
「申し訳ありません」
「謝らないで。あなたのありのままが、私は嬉しい」
折姫こそ、耳が喜びで鼓膜がはじけてしまいそうだった。
ここぞとばかりに扇子を広げ、ようやく目を開ける。
扇子のなかでは可笑しなことに、ネコがりんごを追いかけていた。つかもうとするたび、りんごに逃げられ、ネコのくせに鈍臭い。
まるで自分のようだ。そう思うと、心に少しだけ平穏が戻った。
目端にミカドをとらえる。
彼もまた、朱色の扇子をあおいでいた。扇子の色が映っているのか、ほんのり赤らんでみえる。
折姫は、短く訊ねた。
妖怪退治に来たのか、気になったのだ。
「あの、ミカド様。今日はお務めで?」
「いや、珍しく暇をもらってね。明日からまた忙しくなるから」
「お休みで、いらしたのですか」
譯もわからず胸が躍る。
「お休みに……」
「休みに私がここで呑むのは、おかしい?」
「おかしくないと、思います! 私がちゃんと、お酌さえできていれば、もっと休まるかと──」
「ふふ。どうかな」
膝へ目を落とせば、盃にはすでに酒が満たされている。折姫のぶんも。
それからふたりの語り合いは、瓶子が空くまで弾んだ。シオンの扱いに慣れたこと。小豆洗いや毛女郎の話。毎夜訪れるクロの可愛いさ。また、たわいもなく。
酒がつきると、ミカドは懐から懐紙袋を取り、なかから白い折り紙を引き出した。
「置き土産に、御守りを作ってあげよう」
「それなら、私も折ってみたいです!」
ずっと望んでいた折り紙のお出ましだ。
折り紙だけは自信があるんですと、紙をせがんだ。ミカドはある分だけ折り紙を広げると、出来上がるまで互いに教えぬようにと、碁盤の下で折り始めた。折姫もそれにならう。時折り合う目は、共に笑んでいた。
「できた!」
「私もだ。見せて」
「では、せーので、ですよ? せーのっ」
ミカドは文字通りの御守りを作っていた。鋭い角が実直さを物語る。折姫は、同じ折り紙一枚で、フクロウを象った御守り袋を作ってみせた。
「これはすごいな! 驚いた、啖呵を切った私が恥ずかしいじゃないか」
「フクロウは、しあわせをよぶ鳥なんですよ? 御守りにぴったりだと思って」
「さすがだ、折姫だけに」
「ふふっ、でも、ほんとうに私の特技はこれだけです」
「皮肉ではないよ。なにかひとつのことに秀でている。それはとても特別なことだ」
折姫は、胸が熱くなるのを感じた。
「特別な、こと」
ミカドは折姫の折ったフクロウを手に取ると、唇を寄せた。羨ましそうに眺めていると、なんとフクロウのくちばしが鳴くようにパタパタと動いた。
「信じられない! 私の、折り紙が動いてる!」
「翼があれば飛ぶだろうね。どうやらあなたが折った折り紙は、私の呪力と相性がよさそうだ」
「嬉しい! 夢みたいです……!」
まだイオリの頃、折った動物たちを机にひろげては、ひとりでごっこ遊びをしていた。友だちになれたらと何度夢にみたことか。
飛びたそうに身じろぐフクロウに触れようとすると、
「おや、これは私のものだ」
ミカドはいじわるに、そのまま懐に挟みこんでしまった。
「それならミカド様の折った御守りは、私がいただいても?」
「そのつもりで折ったのだが。四角いだけの折り紙はいらない?」
「欲しいです! ぜったいに!」
「では、明日の夕刻までは必ず持っていて」
「肌身はなさず、持っています」
「入り用にならないことを祈るよ。……それでは」
折姫は心のなかで、「きっと、また」と唱えた。
ミカドの口から約束は出なかった。役を終えた顔をして、殿舎を後にした。
休みだと言ってはいたが、酒を呑むついでに御守りを渡すことが、今日の務めだったのかもしれない。落胆している自分がいて、ずいぶんと欲張りになったものだと、折姫は自嘲した。
ひとりになっても、折姫はしばらく桜を眺めていた。夢のひとときの余韻を愉しんでいたのだ。一杯の酒が響いていたことを、本人は知らない。ついに、うとうとと船をこぎ始めると、優しく抱き上げられ、帳台へ運ばれていた。
「これはなかなか拷問だな」
「ミカドさま……?」
たしかにミカドの声がするが、帰ってから半刻は経っている。さすがに夢だろうと折姫は思うことにした。
「おやすみ、折姫」
御髪ごしに生温かい息がかかる。折姫の意識は、ミカドの甘い声を最後に途絶えた。健やかな寝息をたて始めると、クロもまた折姫の髪を掛け布団にして、眠るのだった。