四折
折姫が桜の壺に入内し、三日が経った。
若く健康な娘が、三日。
主上の往来に今か今かと身をかたくしていたのは束の間のこと。朝から晩まで、見事なまでに暇をした。
お化け屋敷にしようにも、桜の壺に来客がない。脅かす客がいなければ成り立たないことを、二日目の夕暮れ。湯に浸かりながら気づいたものだ。
そんな譯で、ついに四日目の朝、
折姫は木登りを始めた。
それまで言われたことは、きちんとこなしていた。
出された膳は残さず食べるし、姫様らしく姿勢を崩さない。湯浴みもかかさず、夜に御簾が下りれば寝ている。
女御の一日というものに、見事なまでに従順だ。
では私からもひと言物申したいと、思いつくまま我が儘を言ってみるが、それがなかなか通らない。
「今日は、草むしりしたい!」
「お庭はミカド様の結界の一部ですので、叱られます」
「折り紙折りたい!」
「紙は貴重な代物ですので、ミカド様の許可が必要です」
「ではミカド様に」
「ただ今、執務中のお時間ですので、お会いすることは難しいかと」
会いたいだなんて言っていない。
許しが欲しいだけなのに。
折姫はむくれた。
話し相手はいるにはいるが、見ての通りである。
人には姿勢を正せと言っておいて、横柄に寝転ぶ舎人がひとり、口をつくのは小言と言い訳。
お望みとあらば従うのではなかったか。
そこまで不満を募らせると、折姫は袿を脱いで庭を降りた。
「姫様、女御が袿を脱ぐということは、裸になるのと同じくらい恥ずかしいことなのだと何度も──、んん?」
シオンが肩に重みを感じ、頭を上げれば、
「え! はしたな──────────い!」
前記のとおり、庭の桜の木によじ登っていた。
ナマケモノでもそんなにゆっくり登らないというような速度で、幹にしがみついている。落ちないことが不思議なほどだ。
折姫は目を輝かせ、言った。
「一生に一度は、やってみたかったの!」
「そうですか」
シオンは溜め息を一度、己れも庭へ降りた。
見上げれば、手が届くほどの高さまでしか進んでいない。
シオンは折姫の脇をかかえると、軽々と飛び上がり、一番高い枝へのせてやった。
「わぁ! シオン忍者みたい! ありがとう!」
「姫様の運動神経が壊滅的なだけです。お願いですから、枝を傷つけないでくださいよ」
「見て、シオン。あそこに人がいる」
「聞いてます?」
塀の向こうを見やればなるほど、女が二、三連れ立って桜の壺を見上げている。
「ほう。牡丹の壺の女房ですね」
「女房?」
「女御様に付き添う、側仕えでございます」
「私も女御では」
シオンはにっこりと笑った。
後宮のなかでも辺境のなかの辺境。桜の壺の女御には、舎人ひとりで充分ですよ。
と、笑みに意味を含ませた。
そんな含みなど読み取れぬ、無垢な折姫は訊ねた。
「ふつうは、何人くらい居るものなのですか」
「まあ、女御様となると、女房も十人は欲しいですね」
「私は女御では」
「姫様はふつうじゃないですから」
「ふつうじゃない!」
「お静かに。あちらも暇を持て余していらっしゃるようですよ」
シオンの言ったとおり、女房たちは塀の外から動かない。何を話しているのかと耳をすませば、不思議なことにはっきりと聞きとれた。
「居留守を使ってるのかしら。やぁねえ」
「賢い女房がいるのでしょうよ」
「それでも、三日三晩が過ぎたのだから、挨拶くらいさせてくれてもいいのに」
「やだ、あなたのご挨拶って、なあに?」
「これだけど」
女房が持っているのは、お仕えの女御の御髪だ。朝晩、髪を梳くときに抜けた髪を、今日のためにまとめておいた。
「湯殿に入れてさしあげようと思って」
女房たちの高笑いが塀をのぼってくる。
入内したばかりの女御を虐めるのは、女房たちにとってもはや恒例行事である。
そのため、ミカドは桜の壺の門を閉めっぱなしにしている。女房どころか蚊の一匹だって入れやしないのだ。
折姫を傷つけるものは、何ひとつ。
と、なると塀の外を見せるべきではなかったかと、シオンは折姫を気遣うが。
「ねぇ、シオン。火の玉って作れる?」
「火の玉? この真っ昼間にですか」
ニタリと笑う主人に従うほかないシオンは、陽の下でも目立つよう、紅く灯した火の玉を飛ばした。
魔法のようなその灯火に、折姫は顔をほころばせた。
「結界の向こう側に、私の姿を見せることはできる?」
「本来ならば叱られますが。面白いので、是非やりましょう」
シオンはのった。
長い黒髪で顔を隠した折姫は、どうみても女御ではない。
シオンは効果音にと、庭の鳥を脅かした。
バサバサ羽ばたく鳥たちを見上げれば、自ずと火の玉に目がいく。火の玉が囲うは、
「その髪、私にくださる……?」
怨霊だ。
女御たちは気持ちいいほどの悲鳴をあげて、逃げ出していった。
「あー! たのしかった!」
枝からおろしてもらった折姫は、満足げにぴょんぴょん飛び跳ねた。そんな主人を叱らず、シオンは手を叩いて喜んでいる。
折姫は気づいた。
シオンもまた暇を持て余し、刺激が欲しかっただけなのだと。
「来客がなくったって、塀の外に届けばいいのね! この調子で、毎日火の玉をとばしましょう!」
「まぁ、姫様のお望みとあらば、いいでしょう!」
桜の壺、お化け屋敷化計画の始動である。
調子にのったシオンはその日の逢魔どき、なんと客を招き入れた。
「ほらほら、夜に小豆を研ぐ音が聞こえたら、結構怖いもんですから」
「そうは言っても、のう。初夜から三日しか経っておらんのに、ワシが入ってよいものか」
「ミカド様には、お許しをいただいておりますよ」
折姫は、縁で客を待ちながら盗み聞きしていた。
ミカドの許しは、そんなにすぐもらえるものなのか。なかなか聞き捨てならない台詞である。
「だったら、ミカド様に折り紙を──」
振り向いた折姫は目を疑った。
祖父が古臭い小袖に身を包み、殿内を珍しそうに見渡している。
「おじいちゃん……!」
「お、おじいちゃん!? だぁれがおじいちゃんじゃ!」
「え? おじいちゃんは、おじいちゃんでしょう」
折姫は首を傾げた。
狼狽する目の前のご老人の、肩までしかない身丈、見下ろす頭頂部のはげ具合。寸分変わらぬ毛量。瓜二つなんてもんじゃない。上下左右、どこからどうみても祖父そのものである。
異なる点といえば、小豆の入ったザルを持っていることぐらいた。
シオンは、サラリと言った。
「妖怪、小豆洗いですよ」
「ようかい!?」
「小豆を研ぐだけで、害はないので呼び寄せてみました。私の居ない夜の護衛にもなるかと」
「ほほう」
折姫は納得して、居住まいを正した。
世界が違うのだから、二重身はあり得る。
「改めまして。桜の壺の女御、折姫と申します。先ほどは失礼しました」
「いやはや、とんでもない。姫様の話し相手にでもなれたら、喜ばしいことです」
小豆洗いが膝を並べるとすぐに夕膳が並んだ。
「ワシも食べてよいのか?」
「はい。食べながら、御助言いただければと」
「助言、とは」
礼儀正しく「いただきます」をして、箸を持つ。小豆洗いといえど、小豆以外も好き嫌いなく食べるのかと、折姫は感心した。
すっかり油断していた。
「実は、豊胸によい食材を探しておりまして」
「んが」
「んぐ」
仲良く同時に、米を喉に詰まらせた。
折姫はすぐに持ちなおしたが、小豆洗いがなかなか戻ってこれず、しばらく背中をさすらなければならなかった。
「シオン! ご老人になんてことを!」
「妖怪なんですから、ちょっとくらい大丈夫ですよう」
「なにがちょっとくらい!? 死んでも大丈夫ってこと?」
一瞬、白目をむいて息がとまっていた気がするが。
心配するなかれ、小豆洗いは一度死んだのか、冷静さと共に戻ってきた。
何事もなかったかのように箸を持つ。
「ふむ。貺都では肉が稀少じゃからのう。今日の御膳も、たんぱく源は魚と豆腐くらいか」
「そうなんです。圧倒的に足りないのです! どうしたものかと」
「鶏肉が欲しいところじゃが」
「難しいですねぇ。御所には神獣朱雀が居りますから」
「では、卵もダメか」
「たまご……! なるほど! 卵ならば料理の数も増えますね」 ポン、と手を打つ。
「柘榴がいいと聞くが、季節ではないしのう。まあ、今日のところは、ワシの小豆を食べようじゃないか」
「小豆も、豊胸によいので?」
「豆腐と同じ、植物性タンパク質じゃ。火鉢はあるかのう」
シオンは運んできた火鉢に炭を入れると、満足気に頭を垂れ、消えた。
夜が始まったのだ。
折姫と小豆洗いは、縁に足を投げだし、仲良く煎り小豆を食べた。
「おじ……、小豆洗いさんは、シオンとお友達なのですか」
「友達というか、シオンはワシが育てたようなもんじゃからのう」
「ご家族でしたか!」
「先帝の祝言に献上したんじゃが、こうして代々受け継がれていたとは。なんとも感慨深い」
「家族を、献上……」
折姫は胸が切なくなるのを感じた。
どうやらシオンも自分と同じように、御所へ売られた存在らしい。
今も仲良しのようなので、羨ましい限りであるが。
「おっ、誰か通るかの」
外から提灯の灯りが見えるたび、小豆洗いがザルの小豆でシャカシャカと音をたてる。
「……おや、悲鳴が聞こえんのう」
「そうですね。陰陽師様でしょうか」
折姫が訊ねる。
「そうじゃなぁ。はたまた提灯お化けか、怨霊か」
小豆洗いは、人間ではあり得ぬ脚力で桜の木によじ登ると、塀の外を見て言った。
「なんじゃ。半魚じゃないか、よう入れたのう」
「鯉が、入れてくれたのさ」
「鯉じゃと? あんまり悪さするでないぞ」
戻ってきた小豆洗いに、半魚とはと折姫が訊けば、夜の浜辺で人を襲っては啖う、半魚人だと言う。
そんな悪い妖怪と顔見知りな小豆洗いが、正義感のかたまりのような、宮司の祖父な譯がないなと、改めて思った。そもそも、腰の曲がった祖父は小猿のように木に登れない。
小豆洗いが、しみじみと言う。
「いやはや、御所のなかとは思えませんのう。昔はもっと平和だった気がするんじゃが。なにか良くないものが、半魚のような妖怪や魑魅魍魎を、寄せ集めているのかもしれませんな」
「……いつか、このなかにも?」
「ご安心を。桜の壺は、ミカド様の結界で護られておりますゆえ」
とは言ったものの、小豆洗いが消えてしまうと、一気に心細くなる。その気持ちの表れか、縁から内へ戻る際に御簾の裾を、ほんの少し開けたままにしてしまった。
ミカドに、夜は必ず閉めるようにと言われているのに。
顔を洗ってすぐに御帳台へ上がるが、今日は暗闇だけでなく灯りが怖い。几帳に外の灯火がチラつくたびに、恐怖がふくらんでいった。眠ってしまえばと、目を瞑っても睡魔の訪れはない。
折姫は頭のてっぺんまで布団をかぶり、最後の来客を待った。
「はやく、はやく来て、クロ」
黒ネコのクロは、毎夜かかさずやってきては朝まで眠っていく。知らぬ間にもぐりこんだクロの寝顔を朝になってみつけると、つい顔がにやけてしまうものだ。
刻はまちまちで深夜になることが多いが、今日ばかりははやく来て欲しい。
布団に、明け方のような灯りが差し込む。
折姫は、胸の内で存分に叫んだ。
まだ子の刻も過ぎていないのに、あり得ぬことだ。心の臓が、外にバレやしないかと思うほど派手に鳴った。
布団の隙間から灯りが入る。
灯りが怖いと思うから、灯りが入ってくるのだ。つまり布団の外にいるのは、恐怖を好む悪しきなにか。
興味本位で覗けば、きっとなにか悪いことが起きる。
わかっているのに、手が動く。
恐怖心が、もう待てないと背中を押すのだ。
指でわずかに、隙間を広げた。
そこに片目を埋めれば、同じようにして覗いてくる目玉があった。
女の目だ。
女の目は弧を描き、キツネのように笑った。
次には、呪文のような忙しない声が帳台に轟く。間髪入れず布団の上では、指を這わせるような感触が走った。
「にゃあ」
「クロ? ……クロ!」
指ではない、クロの細い足だ。
折姫は思い切って布団を剥いで、飛び起きた。
女の姿はない。
「クロ! クロなんでしょう?」
折姫は、布団に巻き込まれ、もぞもぞと顔を出したクロを抱き上げると、
「クロが追い出してくれたんだね、ありがとう……!」
感謝のしるしに、口づけた。
クロの毛が逆立つ。
それから折姫は気が済むまで頬ずりをして、クロを胸に抱きしめたまま眠った。
折姫が見た女は、桜を好んで御所をさまよう怨霊だ。シオンが開けた結界の穴はわずかであったが、そこから桜が見え、殿内へ忍び込んでいた。女は花に見惚れているだけだったが、夜になると、とり憑けそうな娘がひとり、誘い込むように無防備に御簾を開けている。
だが女の記憶は、娘と目を合わせるだけで終わった。女は逃げる間もなく、強い力で滅せられたのだった。
クロが安堵の溜め息を吐く。
怖い目にあっただろうに、折姫は横になってすぐに、寝息をたて始めた。なかなか肝が据わっている。
一方、クロは折姫の腕のなかで、なかなか寝つけずにいるのだった。
余談であるが、翌朝。
膳にカエルの卵がのり、折姫の可愛くない悲鳴が後宮の端っこで轟いた。