一折
たとえるならその男は、妖。
名を、ミカドという。
女らしい柔和な目には墨汁を落としたような瞳がのり、短く切った黒髪は絹糸のよう。派手な目鼻立ちは猫のように愛らしく、艶めかしくもあり、唇は紅を塗ったように紅い。
礼服を好まず、白妙の狩衣を着回し、唇と同じ朱色の扇子をいつも口もとにあてている。
華やかな御所に不釣り合いなその格好にもかかわらず、凛とした佇まいと妖艶な顔立ちは宮中の女たちの目を奪った。
たとえるならその男は、快活。
名を、カヲルという。
ありがちな碧眼に陽にかざせば透き通る金色のサラサラヘアー。一度目が合った女はその完美な顔立ちに眩み堕ちる。
礼服が馴染まず、艶やかな明色の小袖袴を着回し、日夜問わず紐でくくった瓶子と竜笛をぶら下げている。
その呆けた格好と佇まいにもかかわらず、甘いマスクとチャラさは宮中の女たちを多いに蕩けさせた。
ふたり肩を並べ歩く回廊は花が咲いたように明るく、艶やかに薫る。
たとえるなら、陰と陽。
月と太陽のように、御所には欠かせぬ至宝の御魂。
未曾有の才器と謳われるふたりの陰陽師が、異界の娘とともに国を脅かすことになると、
その夜の式盤が揺れた。
貺都御所、白百合殿。
主上と称されし時の皇帝は、ひとり眉をひそめた。
「よくない示しがでまして?」
主上の寵妃である白百合殿の中宮が、一糸まとわぬ姿で肩を並べる。
「ああ。災いに違いないのだが、これがおもしろくてな」
「では災いに違いないわね。あなたがおもしろがることに、いいことなんてひとつもないもの」
「つれないことを」
主上は自身の袿に中宮を招き入れた。先ほどまで熱く湿り気を帯びていた肌が冷えきっている。
「明日、異界から新しい女御が入内する」
「そう。どちらの殿舎へ?」
「桜の壺だ。あなたの五つ下だから、仲良くしてやって」
「御意に」
顔色ひとつ変えない中宮に、主上はいささか不満を抱いた。
この後宮において女御とは、主上の夜伽相手に召し上げられた側室のようなものだ。寝所の外で顔を歪ませる彼女を見てみたい。試しに明日より三日三晩、行方でもくらまそうかと目論む。
「ではそろそろ、務めに戻るよ」
主上は袿を残して、煙のように消えた。
「ふん、五つも下ですって!? あのロリコンが!」
中宮は袿を脱ぎ捨てると、白百合の咲き誇る庭へ飛び降りた。白い花びらに隠れた白い壺を両手で担ぐと、大きな音を立てて縁へ運び入れる。驚いた命婦が顔を出した。
「中宮様、なにごとですか」
「なにって──、蠱毒よ」
命婦は息を詰めた。
蠱毒とは、壺に入れた毒虫を争わせ、最後に残った一匹をあやつり、人を呪い殺す禁術だ。
「ふふ、できたみたい」
臆することなく壺に手を入れる。
いっぴきの白蛇が、昇龍のように中宮の腕にすがりついた。
*
不知火衣折に白羽の矢が立ったのは、齢十〇歳のことだ。
父の実家、不知火神社の御神木に射られた矢には、イオリの名が縫われた豪奢な打掛が一枚、かかっていた。
宮司の祖父は家族を集め、情けなく言った。
「今代の人柱が決まった。柱はイオリだ」
陰陽師ゆかりのある不知火家には末代までの呪いがかけられており、一代にひとり、異界へ捧げなければならない。
それが、イオリだと言う。
打掛に刻まれた五芒星の紋章を見た祖母は目の色を変えた。孫に甘かった彼女は、その日を折に厳しくなった。近代に何事かと嘲笑した家族も、日に日に庭に増えていく着物の価値を知り、目を輝かせ、祖母に倣った。
イオリに贈られた着物は、祖母の預かる打掛以外すべて売りに出された。半年で家が建ち、一年後には細々と営んでいた小さな保育園が、インターナショナルスクールへ変貌していた。
イオリが感謝されることはなかった。
人柱に立つまでの五年間は、まるで腫れ物のように扱われた。親が娘を見る目ではなかった。
まるでなみなみと水を満たした、高級な茶碗。
ほこりひとつ浮かばぬように、汚れぬように。いつも美しく清らかにあるよう護り、磨くかわりに、なかを満たす水は冷えきっていった。
イオリが親から学んだことは、礼儀作法と立居振る舞い。所為ひとつとっても罵られ、食事は拷問。風呂にすらひとりで入れず、洗髪には母が一時間かけた。姉ばかり三人いたが、手のかかる末娘に寄せられる感情は嫉妬心だけだった。肌を傷つけぬよう細心の注意が払われたが、その分言葉の暴力で押さえつけられ、イオリの心は深く痛めつけられた。
唯一、安らげるのは折り紙を折る時間だった。必要になるからと、祖母に分厚い本を渡されたときは憂鬱に思ったが、折り紙の時間だけは邪魔が入らない。怒号も戒めもない世界。努めた感覚はないのに、何百という種類の折り紙が折れるようになった。
不知火家にとって、何の取り柄にもならないその特技は、いつしかイオリの視力を奪っていった。
眼鏡が必要になると、親は悲観し折り紙を取り上げようとしたが、祖父母は許した。
祖父母は親以上に礼儀に厳しい人だが、諭すように叱るその声に刃はない。放課後に時間を縛り、イオリは神社に入り浸るようになった。
学校では友人を作らぬよう、祖母に何度も言いつけられた。流行を交えたお洒落や化粧は厳禁。床までのばした髪は傷まぬようにシニョンにまとめられたが、そのボリュームに同級生からは「飴ちょうだい」とからかわれた。
供儀までの五年間、イオリはいつも心が虚ろだった。生きた心地がしなかった。
白羽の矢が立った日に、死んだのだ。
イオリは呪いのように、何度も胸のなかで唱えた。
人柱供儀は春休みに入って、一週間後のことだった。イオリは白装束一枚に打掛を羽織り、神社の御神木の前に立った。御神木は桜の木で、門出を祝うように爛漫と咲き誇っていた。
表情なく立つ妹に、長女が失望の色をさらけ、言った。
「眼鏡、どうにかならないの? すべてを台無しにしてるわ」
次女、三女が噴き出す。
「本当。生け贄なんだから、眼鏡はいらないんじゃない。神さまの歯茎に刺さったら、バチが当たるわ」
「ちょっと、笑わせないでよ!」
この茶番に付き合わされるのは今日で最後。
日暮れには笑って帰ってくる。
そう信じてやまない姉たちは、腹の底から笑った。
父と母は、しきりに時計を気にしていた。
今日という日にも仕事があるのだと、イオリは落胆した。
その手首は、時計の針が読めないほど震えていたが、気付かれぬよう祖母が前に立った。
「さて、あとは拝殿に居るじいさんが儀式をとりはからう。皆には帰ってもらおうか」
「えー! 来たばっかりだよ!」
「動画撮らないの? 生け贄だなんて、友達に自慢できるのに」
「私はいいかな。じいさんの祝詞、長いんだもん」
父と母がかしましい姉妹たちの背中を押し、逃げるように無言で去っていく。
イオリはぼんやり思った。
親と最後に面と向かった日はいつのことだろうか。今日も当然のごとく目を合わせることがなかった。
家族の消えた境内で、祖母はイオリの両手をとり、ぽつりとつぶやいた。
「またすぐに逢えるから」
シワを寄せた笑みをこぼす。祖母の歳を考え、後を追うという意味で解釈した。
小さく、骨張った手が離れる。
今一度、祖母の顔を頭に刻もうと顔を上げると、桜の花びらが吹雪き、見えなくなった。まるで木に包まれているようだ。辺りを見渡せど、影ひとつみつからない。ただ、耳馴染んだ声が微かに聞こえた。
「イオリちゃん……! 待って、どうして!」
「ちーちゃん……?」
従姉妹の千速だ。
イオリの瞳が少しだけ彩った。
親しい友だちのいないイオリは、千速を親友なのだと、勝手に決めつけ、胸に秘めていた。千速にとっては、放課後少し言葉を交わすだけの従姉妹でしかないのに。
さよならも言えなかった。
イオリはひとつぶ涙をこぼしたが、自分でも気付かぬままに花びらがすくいとっていってしまった。
魔法の杖で操ったような風が螺旋を描き、花びらを容易くさらっていく。視界を覆っていた花びらはひとひら残さず波のように引いていき、砂利を踏んでいた素足はなめらかな板間についていた。
昼日中の時間だというのに薄暗い。前後左右見渡せば、びっしりと御簾が閉じられている。隙間から覗く桜は眩しいほどの光を蓄えているのに、イオリには明かりが届かないようだった。
そばで男ふたりぶんの声がする。
「なんつーか……、地味だな」
「つつしみ深いのだろ」
「ちっちぇな」
「おくゆかしいと言え」
「乳も、ちっちぇな」
「まずその口を慎め」
「第一、なんだ? 目を隠している鏡は。扇の代わりか?」
「禍々しいな。後ほど浄め、処分しよう」
「御髪は、綺麗だ」
「気安く娘に触るな」
「娘っつったな、お前。やっぱりどうみても娘だよな。あーあ、五年も待ったというから、どんな教養深い貴婦人かと想像したのに」
「娘に失礼ではないか」
「娘っつったよな、お前」
「娘、顔をあげよ」
いかにもガッカリなご様子の金髪碧眼に、フォローするつもりが墓穴を掘る黒髪美男。
無理もない。
艶やかな姉達とは異なり、イオリは線が細く小柄で、化粧気のない顔は地味だった。栄養の行き届かない貧相な胸に、色のない唇。瓶底眼鏡越しの瞳はつぶらが過ぎる。
眼鏡を知らないふたりの男は、扇子の一種なのだろうと解いたが、惚けた口許を隠さず、目を隠すとは何とも滑稽に見える。
顔を見合せるふたり。名乗り出たのは黒髪の男だった。
「私の名はミカド。金髪のほうがカヲルだ」
「雑だなぁ、おい」
ミカドはおもむろに懐から筆を取り出すと、イオリの胸もとへ、白い折り紙とともに差し出した。
「漢字は書けますか」
「はい」
「では、星と桜を」
「はい」
言われるがまま筆を流す。
イオリが書き終えると間を置かず、ミカドはその紙を手の内に拐っていってしまった。
その横でつまらなそうに欠伸をこぼしたカヲルがミカドに訊ねる。
「で、どうするよ」
「事は終えた」
「そうだな」
「…………」
「…………」
「ところでカヲル、昨夜も芙蓉にもののけが出たと話していたな」
「そうそう、ありゃ眠れねぇよ」
「調べてみるか」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことに、なった。