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暗い、大きな重厚の作りの部屋には、コツコツコツコツと、不安気な、苛立ちを隠せない音でペンで机を叩く音が響いていた。
フォート・リーの気候は穏やかだが、今日のように霧が多いのが滅入る。
バルトの私室は、王宮の最上階にある。
フォート・リー王と同じ一角に部屋が構えられている。
バルトのフォート・リーでの厚遇は、この国に尽力し続けてきたその功労だという。
この国で、バルトを悪くいうものはいない。
バルトはこの国の魔法学の父とも呼ばれ、身分を問わず多くの弟子を受け入れていた。
その清廉潔白な人柄は、腐敗の進んでいたミツワ王宮の中でも、尊敬を持って愛されてきたのだ。
広い部屋の机に向かいながら、バルトはずっと混乱していた。
(それでは、女神様は、私を愛しておられたというのか。私は正しく祝福されたというのか。)
真鍮の窓枠から見える景色は、晴れた日なら美しい城下町の様子が見えるが、今日は薄い霧の中に浮かぶ街が見えるだけだ。
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バルトの半生は、あの日神殿で、神託の巫女の宣託が下されて、そしてその後神殿で女神の怒りに触れたその時より、大きく変わってしまったのだ。
その日のうちに、アストリア国で最も高貴な男だったバルトは、王位継承権が剥奪され、身分も剥奪され、可愛がっていた弟が王位継承権者となった。
血のにじむ帝王教育、女神の最もそばで仕える為に、何もかも全てを犠牲にして己を磨いてきたその人生が、たった一日で何もなかった事になった。
今まで女神の夫となりこの国の王となるべく生まれついた自分。それが一日にして、女神の怒りを受け、忌み嫌われる存在となった。
先の大戦は、自身と、弟の世継ぎ争いだ。
(女神様。。我が愛しの、そしていと高き所におわすお方よ。。)
生来の生真面目な性格もあり、バルトは第一王子として、まだほんの小さな子供の頃より、帝王学はもとより、神官達からも、高い神学の教育を与えられてきた。
そして女神の守護者としての王位につくその立場についても、物語を聞かされるように、何度も、何度も礼拝堂の白い美しい女神像を前にして、神官達から言い聞かせてこられてきた。
「バルト様、貴方様は父王が退位されたのちに、女神様のたった一人の夫としてこの国の高みに立つお方です。尽くさねばなりませぬ。そのために体を鍛え、心を磨き、勉学に励まねばなりませぬ。」
神殿の女神の像は、笑っているような、泣いているような不思議な笑みを浮かべていた。おれそうに細いたおやかなその腕をこちらに投げ出して、少年を女神の世界に誘い込むようだった。
思えば無垢な少年の、小さな恋であったのかもしれない。
バルトは、この世でたった一人の女神の夫にふさわしい者となるべく、毎朝冷水で身をきよめ、祈りを捧げ、高い魔力を磨き、勉学に励み、体を鍛え、バルトはその人生全てを女神の夫となるべく、捧げてきたのだ。
だというのに、女神はそんなバルトに報いるどころか、怒り、そして呪った。
そして弟を、その夫に選んだのだ。長く女神を愛してきた自分を裏切って。
バルトには理解ができなかった。混乱し、悲嘆にくれたバルトに、誰かの囁きが耳に入った。
(弟殿下ですよ。王位を狙って、汚れた神託の巫女と組んでいたのです。)
身体中の血が逆流するような思いだった。
弟と王国に宣戦布告したのは、そのすぐ後だった。
傍らに置かれた、’度数の強い酒を一気に煽る。
(レイチェル・ジーン。あの娘が全て、答えてくれるだろう。)
酒のグラスを乱暴に机におくと、顔の火傷が痛み出してきた。
今日のような霧の日は、傷が疼いて嫌な気分だ。