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くだんの蝙蝠石の騒ぎの翌日、王宮内の女子寮にレイチェルは部屋を与えられた。
一旦ゾイドに連れられて子爵家に帰ったのだが、ハロルドはゾイドから隼の知らせを受けてより、何か覚悟をしていたらしい。また一気に寂しくなった頭を撫でて、マーサと出立の荷造りの準備をして待っていてくれた。
マーサは健康に気をつけるようにとか、眠れない時の薬や虫刺されの薬やらを大量につめこんで、右に左にオロオロと家中を歩き回り、馬車に乗り込んだレイチェルを送るハロルドの瞳には、うっすらと光るものがあった。
ここから、今日から、魔術研究所の解読班に出勤するのだ。
あまりに急な話ではあったが、レイチェルという存在を一刻も早く保護するための処置だという。
大変可愛くない呼び名ではあるが、レイチェルのような魔力の全く無い人間は、「石」と魔術師達に呼ばれているらしい。
何をしても魔術に反応しない事からの呼び名らしいが、レイチェルはこの呼び名に関してはもうちょっと何とかして欲しいとは思っているものの、他にはおおむね満足している。
出勤といっても、主には他の研究者に特異体質を活かしたお手伝いと、たまに騎士団から上がってくる魔術の解読。後は自分の研究をしていて良いとか。
制服のローブを支給されたが、ゾイドは初めてでは着方が分からないだろうと言って、子供の様に着付けてくれた。満足そうなゾイドを眺めて考える。
(なら、魔術の本は読み放題だし、刺繍や手芸で術式つくっていればお給料頂けるのね。外には外出許可がないと出られないって話だけど、どうせ何処にも行かないし、これっていつも通りじゃない?)
残念令嬢は世間知らずなので、却って適応力がある。
己の存在は一晩で、国家の保護対象になった事らしいが、そもそも友達もいないし、家族はレイチェルの事に関しては、相当前から放任なので、事の重大さがいまいちよく分からないのだ。
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「レイチェル嬢、気分は如何ですか。よくねむれましたか?」
(眩しい。。朝から体に悪い美貌だわ。。すっかり目が覚めたわ。ここまでの美形だと、朝にお会いするのは目の毒になりそう)
実際朝のゾイドは、銀の髪が光輝き、ローブの黒と相まって、大変幻想的である。
今日は寮の前までゾイドが迎えにきたのだ。
ゾイドの美貌に朝からやられてしまったのだが気を取り直し、にっこりと返す。
「ええ、疲れていたみたいでよく眠れました。お部屋もまだ殺風景ですが、広くて気に入りました。館の私の部屋は、作業場みたいになってしまっていたので、かえって良かったですわ」
レイチェルの館の部屋は、もう物で溢れて、作業場と自虐気味に表現したが、まさに作業場というか、納期間近な工場の作業場状態だ。マーサがこっそり整理しておいてくれるのだが、翌日には同じ事になっているのだ。
「昨日の今日ですからね。不足のものがあれば遣いのものに届けさせますから、おっしゃって下さい。」
ゾイドは柔らかく微笑んで、極々自然にレイチェルの手を引いて歩き出す。
今日はレイチェルは、令嬢としてではなく魔術士としての出勤なので、手袋をつけていない。ゾイドもだ。
触れ合う素肌の手の温もりが存外に熱く、昨日の部屋いっぱいのゾイドの香りを思い出してしまいレイチェルは真っ赤になって俯いてしまったが、ゾイドは気にせず歩みを進める。
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「昨日通達したように」
ゾイドは研究室の魔術士達を部屋の真ん中の大きなテーブルに集めると、レイチェルを紹介した。
「彼女はレイチェル・ジーン嬢。今日からここで研究をはじめる。所属は解読班になる。皆仲良くしてやってくれ。尚、この令嬢は私の婚約者だ。手を出した者は炭にする。以上、解散。」
部屋がどよめいた。
(ゾイド様の例の婚約者だと。。)
(昨日の通達によると、「石」らしいぜ?魔力が完全にない、国家保護対象とか。。)
(存外地味だな、噂の主だろ?)
さざめく密かな声には耳を傾けない事にして、ゾイドに付いて研究室にはいる。
ゾイドは今日から、レイチェルの上役にもなるのだ。
「掛けてください、レイチェル嬢。」
相変わらず表情は読めないが、機嫌が良いらしい。体運びがなんとなく軽い。
「あなたはこれでここの正式な研究員だ。そして「石」の国家の保護対象に認定されました。」
レイチェルの手を取ると、用意していたブレスレットをはめた。
「あなたの身分を証明するものです。青い石は第二王子の配下である事を証明するもの。ある程度はあなたの身の安全を保証するでしょう。」
王家への祝詞が古代文字で掘られた鈍い輝きのブレスレットは、ゾイドの腕にもある。
「あなたは」
赤い瞳が一瞬、止まった。
「本当に私を驚かせる。」
レイチェルの腕を掴んでいたゾイドは、己の胸にレイチェルを引き寄せ、気がつけば、柔らかな感触がレイチェルの唇に落とされた。熱すぎる吐息は、ゾイドのものだった。
「。。失礼。。」
ゾイドはレイチェルを解放すると、体をひるがえして、窓の外をみた。
レイチェルはその場で座り込んでしまう。
ゾイドの背中しか見えない。
(どんな、顔を、してるの、ゾイド様!)
心臓が早鐘のようにうるさい。
レイチェルの思いは届かない。
息が、できない。
背中でゾイドは、いつもの感情の見えない声のまま、言った。
「ジジが貴女の世話役となります。後ほど彼女からの指示に従って仕事をしてください。」