245
「男なら、ギルバード、がいいだろう。」
ウィルヘルムは、自信満々で、さらさらと手元の美しい、金の、家紋の押してある紙に書きつけた。
ギルバードは、リンデンバーグ家の初代の名前だ。代々この名前を受け取った一族の者は、名君として領地を治めたり、また、魔術師として歴史に名を残したりと、一族の中でも名誉のある名だ。
だと言うのにだ。
美しいサンルームで、柔らかい光を浴びながら、和やかに話をして、ウィルヘルムの手元をワクワクしながら見つめていた子供達は、一斉に声を荒げた。
「それだけは却下です。」
「お義理父様、それはちょっと。。」
「ないです。父上。」
子供達全員から、一斉にここまで完全に否定されて、ウィルヘルムは目を白黒させてたじろぐ。
領地では、セリーヌに、
「あなた、もうレイチェルちゃんへの嫌がらせはもうよして差し上げて。」
とまで言わしめた、赤ん坊用の甲冑やら、幼児用の魔力増強の訓練機材やらを贈った際にも、レイチェルは苦笑いしていたが、ここまでは嫌がられなかったと言うのにだ。
王都のタウンハウスの、新婚夫婦の邸宅にウィルヘルムは逗留している。
ゾイドと、レイチェル、それにテオにまで一斉に物凄い勢いで却下されたのは、レイチェルのお腹の中にいる、リンデンバーグの次世代の伯爵の名前候補だ。
リンデンバーグ家では、当主が、生まれてくる子供の名前を与える。
ゾイドも、テオも、戦場の虎、と言う二つ名のある、武勇に優れた前当主である祖父が名付けた。
ウィルヘルムに生まれてくる子の名を与えてもらうため、ゾイドとレイチェルは、領地からウィルヘルムを呼んだのだ。
ウィルヘルムは非常に不思議そうに首を傾げた。
ギルバードは、リンデンバーグ家の初代の、名前。
王都でも割と一般的な名前で、時代遅れでもない、良い名だ。
一族の男にとって、この名前を継ぐことは、名誉であるはずで、ここまで嫌われる由縁は、ないはずだ。
待望のゾイドの第一子の誕生は、もうすぐだ。
///////////////////////////////////////////
「あ、今日は若奥様もご一緒ね。」
「みてごらんよ、あの若様の眼差し。あんな美しいお人に、あんな蜂蜜みたいにうっとりと見つめられてしまったら、私は魂が抜けてしまうよ。」
「あの奥様のお幸せそうな事。あら、花を髪に飾ったら、奥様が若様に微笑み返した、若様は今にも溶けてなくなってしまいそうに赤いね。」
「あ、ほらまた口付けを交わした。あ、スプーンを奥様から取り上げた。奥様の飲み物に入れる砂糖まで、旦那様は面倒見たいんだね。あああもう、恥ずかしくてみてらんないわ。」
「ああも甘いと、ずっと見てる方も目に毒だね。ああ、あと2月もすれば、赤ちゃんが生まれるらしいから、今は二人の甘い時間を楽しむといいさ、さあ、あんまり見てないで仕事しましょう」
王都の広場にお忍びで散歩に出かける二人は、全くお忍びになっていないにもかかわらず、街の人々も、もう慣れたものだ。
そっと生暖かく見守ってくれるのは、やはり結婚の記念に、派手に王都中の孤児院を新築した効果もあるのだろう。
新築ついでに、全ての孤児院の庭に、レイチェルの趣味でメリルを植えたものだから、王都は幾年月もの後に、メリルの都と呼ばれるようになる。
レイチェルの妊娠が判明してから、この男の妻への溺愛は、もう止めるものもいない。己の妻を愛でて、何が悪いかと、完全に開き直ってしまったゾイドは、家にいる間は、ずっとレイチェルの自分の膝に載せて、少しの距離でも、ゾイドが抱き抱えて歩こうとするほどの暴走っぷり。
使用人の前だろうが、王都の広場であろうが、所構わずレイチェルにすきあらば口付けを贈り、耳に愛をささやき、外出のたびに、馬車に溢れるほどの花束を買い占めてレイチェルに捧げるゾイドは、今や王都一の愛妻家として有名だ。
「もうちょっと、愛情表現を、抑えて頂いた方が、嬉しいような。。ほら、人目とかそう言う問題で。。。」
レイチェルは、もう歯止めが効かなくなったゾイドの愛を、ゾイドが拗ねないように、でもそれでもなんとか少しブレーキをかけて欲しいと、色々と無駄な努力をするのだが、
「そんなものを気にして、またどこぞの誰かが君に懸想する隙を与えては、たまらん。レイ、勝負というものは、攻撃が最大の防御だと言うのだ。私の愛する妻を、不埒な連中より守る最大の方法は、私の愛の大きさを喧伝する事だ。」
と、またレイチェルの頬に口付けを贈って、レイチェルの髪を、膝の上で複雑な形に編んでやり、いっそ、実に男らしいほどの、堂々とした開き直りだ。
あまりドレスや宝石を喜ばないレイチェルも、ゾイドが砂漠の男に教えてもらった、朝の一杯の紅茶を入れてやると言う愛情表現が、とても喜んでくれたため、凝り性のゾイドは、有頂天になってその技を磨いて、今やレイチェルは、ゾイドの入れてくれた紅茶以外は、なんだか物足らないような体になってしまった。
こうやって、妻を依存させる作戦なのね、とレイチェルが笑うと、ゾイドは照れて、他にどうやったら君を私に依存させることができるのか、日々研究しているんだ、と本気とも冗談ともつかない事を口にする。
美麗な家令のルードとレイチェルが仲良くなったのが、目下ゾイドは気に入らないらしく、ユーセフに、うちの男性の使用人と、お前のところの宦官達を、しばらく入れ替えないか、と実に愚かな提案をして、ユーセフに、忙しいのにアホな事を言い出すな、と叱られたばかりだ。
。。ただ、その後、ユーセフは宦官は一人なら貸してやる、とヤザーンを少しの期間、レイチェルの元に逗留させてくれた。
ちょっとはにかみながら、たくさんの砂漠からのお土産を抱えて、ヤザーンは屋敷にやってきた。
レイチェルが走ってヤザーンを迎えた事に対して、妊婦が何をしとるかと、そもそも淑女が走るなど、開口一番、嬉しそうに、たらたらとお小言を口にした、口うるさいヤザーン。
レイチェルがどれほど、どれほど喜んだ事か。
///////////////////
初代リンデンバーグ魔法伯の名前は、ギルバード・アストリア・ド・リンデンバーグ。
皆、「初代」や、「獅子王」と言う呼び名でしか呼ばないので、その名前を三人がやっと思い出したのは、つい最近だ。ウィルヘルムが王都にやって来る、その数日前だ。
「女という生き物は怖いな。。」
「ギー、か。まさかの、ギルバードの、ギー。。」
「我が子には、辛い恋は、して欲しくないわね。。」
リンジーが名付けた、リンデンバーグ家の初代となった息子の名前が、まさか、リンジーを愛した、かつての恋人の名前であったとは。
レイチェルと、テオと、そしてゾイドは、こうやって時々三人で、竜の国での体験を、古文書と照らし合わせてみる作業を行なっている。リンジーに関する記載を探していて、ふと、初代の名前を目にした三人は、古文書の前で、半眼でのけぞった。
結局は三人とも、魔術オタクで、竜が好きで、そしてリンデンバーグ家の、年の近い、仲良しの家族だ。
テオは、レイチェルへの恋に敗れたものの、この愛しい娘が、敬愛して止まない兄の妻である事、そして、自身の新しい家族である事は、嬉しくて仕方がないらしい。
案外きれいさっぱりと思いを昇華して、今は、レイチェルを、かつて初恋した相手として、笑い話にできるほどだ。
レイチェルは、テオは、やはり人類愛の対象として、レイチェルを愛していたのだと、思う。男女間の愛は、テオがレイチェルに捧げた愛のように、きれいすぎる思いばかりでないからだ。
「。。ギーが、初代のお名前を知ったら、上の層から落っこちてきてしまうわね。。」
「女の心は不可解で、それからやはり、恐ろしいよ。。」
ギーを振り切って、下界のアストリア王の愛を選び、子供までもうけたはずなのに、その息子に、ギーの名前をつける女心。
(テオ様が私を愛してくださったように、ギー様が、リンジーを愛していたのなら。。)
男達は、理解ができずに、のけぞっているが、レイチェルには、なぜかすんなりと、リンジーのその複雑な女の気持ちが、理解できた気がした。
「あの場所は、天国のような場所だと思ったけれど。。」
テオが、震える。
ギーが、あの階層で悠久の時を過ごしていたその時間は、下界の時間の比ではない。穏やかで、静かな、永遠の時間で、ギーは、ずっとずっと、なぜリンジーが去ったのかを、考え続けて来たのだ。
テオは、自身の身に置き換えて、ゾッとした。
永遠に続く、緩やかな拷問だ。
「女の心を理解しようなど、例え永遠の時が与えられても、それは無駄な事だ。そんなことも知らずに、女心の謎に挑むとは。。竜人の男は、案外愚かだな。」
ゾイドは、自身の身勝手な愛にも、開き直る事を覚えたらしい。
「私は、レイチェルの女心なぞ、さっぱり分からんが、我が命などどうでもよくなるほどにレイチェルを愛しているし、それは惜しみなく伝え、愛を捧げるつもりだ。」
そう、テオの前で胸を張って堂々と、恥ずかし気もなくレイチェルに口付けして抱きしめるゾイドは、絶好調だ。
すっかり兄としての、いつもの調子を取り戻して、砂漠に情けない泣き言を聞いてもらいに行ったことなどついぞ知らない、テオに、偉そうな兄として、まだまだ青い弟に、講義を始めた。
「いいか、テオ。そもそも女という生き物は。。。。」




