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レイチェルは息をのんだ。流石に王族の顔を忘れるほどに浮世離れはしていない。
そこにいたのは、アストリア王国第二王子、ジーク・ド・アストリアその人だ。
ゾイドから聞いていた今日のお茶会のホストは彼の上司。とだけだった。すっかり忘れていた。ゾイドは宮廷魔術師で、第二王子の直轄で研究をしているのだ。そうだった。婚約者の細かい職務の情報などすっかり興味がなかったのだ。
(そう言えば私、この人の事何も知らないわ。ここ何週間もずっとお話していたのに。)
思い返せば、ゾイドはレイチェルの個人的な事はほとんど聞いていない。レイチェルの好きな花、子供時代の話、恋した男であれば必ず知っておきたいであろう事は何も聞かなかった。
ただレイチェルの術式を面白がり、次から次から魔術の話をしてきた。
レイチェルにとっては大変楽しい時間ではあったが、果たしてそれは、甘美な時であったかと言われると、大いに疑問だ。
まだ恋を知らないレイチェルは、それでもゾイドのことが大好きだった。
そしてまだレイチェルは、この美しい婚約者が、己に恋をしていない事に今更気づいて、
そして、なんだか騙されたような、失恋をしたような、泣きたくなるような気持ちになったのだ。レイチェルもゾイドに、恋をしていなかったというのに。
レイチェルは立ち上がり、スカートの裾をつまみ、震えながら淑女の礼をとる。
「ジーク第二王子、お目にかかる栄誉を女神に感謝いたします。」
レイチェルは泣きそうになりながらも美しい挨拶を遂げた。
ジークは威風溢れる堂々とした態度にて、どかりと上座に腰をおろす。美しい金髪が溢れる。
「ジーン嬢、固い事はなしだ。今日は部下の大切な婚約者どのに会いたくてな。その溺愛ぶりは私の耳にも届いている。」
レイチェルに、ジークの言葉が冷え冷えと響く。
「勿体ないお言葉です。殿下。」
感情のこもらない言葉でレイチェルは返す。
ジークはその空色の瞳で、やや不躾にレイチェルを上から下まで観察する。
今年まあまあ流行っている、どの令嬢も持っているような袖の膨らんだドレスを身に纏っている。
水色のドレスは、茶色い髪に映える訳でも見苦しいわけでもない。やや地味な普通の装いだ。香水はつけていない。何やら柑橘の良い香りがするだけだ。
日々お茶会に参上する令嬢たちに比べて、全く目立たない地味な装いだ。
だが、ジークは、ゾクゾクするような興奮に身を震わせていた。
(なんと美しい術式の組み合わせ。。。!まるで音楽だ。。!)
水色のドレスの一面に控えめに縫い取られた術式は、この国の女神、イシュトラルを称える讃歌。
白いありきたりの糸で綴られたその古語は、4部の短い詩篇で構成されている。4枚のパネルを使ったレイチェルのドレスのスカート部分には、その4部の詩篇が縫い取られており、薄い胸には、朝と夜を司るイシュトラルの兄弟神のシンボルが小さく、しかし金の糸で縫い取られている。おそらくは意識的に選んだのであろう、安価なビーズでできたバングルに仕込まれているのは、そよ風が少しおこるだけの、それはささやかな、子供でもしっているようなありきたりの術式。
(という事は、、髪飾りのリボンに仕込まれているのが緑の香り、イヤリングが雨の石、ここが香りに湿度を発生させている先、この装いの目的は。。。オレンジの香り、か。。)
「フフフ、、ハハハ、なるほど!ジーン嬢、今日はオレンジの恵みの意匠を凝らしたのか。褒めて遣わせる。見事な複合術式だ。」
レイチェルは緊張で暗く沈んでいた顔をパッと輝かせる。
(この方!話ができるのね!)
どんなに心が沈んでいても、魔術は魔術、術式は術式。この美しい男が同志だと言うのなら、話は別だ。
今日は美しい初夏の日だ。
レイチェルは今日の装いには初夏の風と、初夏の香りのする仕掛けを施したのだ。魔力のないレイチェルでも術式を複合化すればささやかな風と香りを発生させる事くらいはできる。
ライラからの、お気に入りのオレンジの紅茶を飲んでいたからいう簡単な理由でオレンジの香りを選んで、詩篇の女神礼讃の章の一つ、オレンジの満つ庭園篇の香りの記述部分のみ利用する文字を変えて練り出した小さな柑橘の香りに、雨や緑、空の晴れた匂いを組んで、そっとささやかな風で送り出したのだ。複雑で、そして地味で、魔術を愛しているものでしか思いつかないであろう手の込んだ仕掛け。魔力持ちの、美しい装いを凝らすジークの周りを侍る貴族令嬢にも、魔術院の魔術師達でも、こんな音楽を奏でるような複合術式を身に纏う、贅を尽くした遊び心のある者はいない。そもそもこんな事をせずともオレンジの香水を使うだろう。
レイチェルはすっかり機嫌を直してしまった。
「殿下!あの!そうなんです、本当であればイシュトラル詩篇でなくて、ゼロイカの豊穣の祝詞を使いたかったのですが、祝詞で練るとどうも香りが強すぎて。」
「いや、ジーン嬢、ゼロイカの言祝でも森林の香りとバニラを落とせば強すぎる事はないだろう。」
ジークはレイチェルの目の前の水のグラスを引き寄せて、水面上に何やら魔力で陣を作ると、青い閃光を放った。ビリビリと青い光を放った後、水は渦を巻いて一瞬にして蒸発した。あたりには芳しいオレンジと、バニラと苔の香りの霧に包まれた。
小さな虹になって霧散した芳香を呆気に取られて口をポカンと開けて見ていた。こんな優雅な魔法を目の前で見たのは初めてだ。
しばらく声も出せずに自失していたが、ようやく気を取り戻すと、今度は興奮で、
「殿下!凄い!凄すぎます!」
レイチェルは、第二王子を前に令嬢に決してあるまじき不敬さで、グッと拳を握って、椅子を倒して顔を真っ赤にして立ち上がったのだ。
「魔力を持っているって、なんて素晴らしいんでしょう!私は魔力を持たないので、術式の展開で発生した薄い魔力を繋ぐしか魔法を使えないのです。」
興奮したレイチェルは、目の前の男がこの国で最も高貴な人物であることなどすっかり忘れている。
ジークは少し肝を抜かれて、ゾイドにそっと目配せを送った。
レイチェルのこの不穏なまでの魔術の知識と展開の仕方は、魔力を持たないまま何とか魔法を使う為に工夫したものだ。
魔力を持たない者が魔法を使うには、魔力を込めた魔石を使えば済む話だが、魔石は安くはない。子爵家のカーテン代よりは高価だ。そして魔術を勉強する者はほぼ魔力持ちで、大抵は高位の貴族子弟で、レイチェルのような存在は話にも聞いた事がない。
(白だ。)
二人は結論に導いた。
(もしも王家に二心あるのであれば)
ジークは後ろで、何となく誇らしげな顔に見える赤目の部下に目をやる。
(まあこの国の第二王子を前にこの反応は、ないな。。。)
ローランドの報告書によると、ジーン子爵家には記録にある限り高い魔力を持って生まれた者も、嫁してきたものもいない。
魔法史資料館はたまたまジーン子爵家の隣にあるが、公文書紙の卸販売を生業とするジーン子爵家の工房が近くにあると便利だった関係で、王家が建てたものだ。レイチェル以外のジーン子爵家の人間が立ち寄るのは半年に一度の点検の際のみ。そこで王家の担当者が欠損が確認された書物を修理などを子爵家に依頼する。地味だけども大切な仕事だ。
目の前で興奮に震えて椅子を倒しかねない令嬢は、ただただ魔術を愛しているのだろう。
第二王子に媚を売るも、悪意を向けるも、なにもない。自身が展開出来かねていた術式を魔力で披露した男に対する称賛。それだけだ。
クック、と声を殺した笑いがする。
(この娘は最高に愉快だ)
「レイチェル嬢、これは妬けますね。」
ゾイドはレイチェルの椅子を戻して腰を落とさせる。そしてレイチェルの固く結ばれた拳をそっと手に包むとこう言った。
「魔力による魔術なら、殿下よりも私の方が得意ですよ。何からお目にかけましょうか。」
取り調べは終わった。この娘に必要以上に近づくな。そういった言外の意味を込めて、レイチェルとジークの間に、先程ジークが発生させたオレンジの霧を物質固定化させて、白い小さな花の雨に具現化させる。
「美しいあなたに。」
ゾイドは降り注ぐ白い花を拾い、一輪をレイチェルの髪に飾る。表情の見えないその顔に、微かに笑みが紡がれた気がした。




