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レイチェルは、気がついていた。
使用された金の針。不自然なまでに丁寧な針捌き。魔術に関係しない、装飾刺繍ばかりが非常に多い、布。中央の竜紋は、小さいが、やたらと魔術的に、頑丈な作りになっており、発動すれば強力な出力となるだろう。
あちこちの糸はもうなくなってしまっている上、失われた魔術の駆使された、竜の紋。
最新の研究は、おおよその部分の学術的な再現には、こぎつけては、いた。
が。
リンデンバーグ家が何世代にもわたり研究を重ねてきたこの竜の羽。
テオが、人生をかけた研究の要となる、竜人の棲まう国への鍵。
。。だが、誰も、どの研究者も、テオさえも、気にかけていなかったのだ。
この刺繍の担い手が、何を思い、何を願ってこの刺繍を、刺していたか。
レイチェルの瞳には、うっすらと、涙が浮かんでいた。
メリルから与えられた、銀の糸を捌く、しゅ、しゅ、という針の音だけが小さな石の部屋に響いていた。
(祈り。。そして、別れ。。お母さま。。)
銀の糸は、メリルの強力な魔力をそのままに、一針、一針、刺繍の物語を綴ってゆく。
レイチェルにはもう、何も聞こえていない。
やがて、ゆっくりと、竜紋を囲んでいた刺繍が、リボンを解くようにゆっくりと、空中に開放されていく。
光を放ち、レイチェルの手元を離れて空に還ってゆく。
。。その真ん中で刺繍をするレイチェルは、女神に祈りを捧げる聖女の如く、美しい姿だった。
レイチェルを見守っていた二人は、もう何の、言葉もない。
光に包まれる小さな娘を、茫然と見つめるだけだ。
((聖女だ。。))
レイチェルが施した、竜紋を囲む刺繍は、もう当初のものは糸が朽ち果てて残ってはいないもの。糸の布の刺し跡から、レイチェルの心が感じたものを、その心のままに刺したものだった。
それは、楽器を奏る、羽衣をまとって空を自在に飛ぶ竜の天女達だった。
刺繍の天女たちは、銀の糸からの魔力を受けて、布から剥がれ落ち、ゆっくり、ゆっくり、螺旋の輪を描いて空に放たれてゆく。
まるで妖精の如く、音もなく天女達は、音にならない楽器を奏で、声にならない歌をつむぎ、空に向かっていた。
天女達の向かう先が、竜人の国で間違いがないだろう。
レイチェルには、もう何も見えていない。
何も聞こえていない。
レイチェルの世界は、レイチェルと、そしてこの太古の刺繍の担い手との、声のない会話だけでできている。
レイチェルは、酩酊状態で布の真ん中に刺されていた、竜紋を、とても手間のかかる東の国のやり方で。
刺し続けていた。
二人の貴公子たちは、そんなレイチェルをただ見守り、力なく立ち尽くすだけだ。
やがて、地鳴りが響き、雷雲が動きを止めた。
竜の魔力によるものだ。レイチェルは、針を止めない。
銀の糸で綴られた竜の紋は、ゆっくり発動が始まり、静かに、だが、非常に、非常に強力に、竜の魔力の渦を描いた。レイチェルは、渦のその真ん中で、紋を、刺し続けていた。
ゾイドは、堅牢な結界に自身の魔力を流し込みながらも、ハッと。
何か重要な事に気がついて、絶叫した。
「いくなレイチェル、行かないでくれ!!!!」
ゾイドは、察しの良い男だ。これからレイチェルに何が起こるのか、察しながらレイチェルにすがる事もできない。
ゾイドの両手から発動されたその魔力を止めてしまうと、この宝物殿は崩壊する。
宝物殿が崩壊すれば、レイチェルはもとより、テオもゾイドも、命はない。
それだけの大魔力を、レイチェルは刺繍で呼び寄せたのだ。
レイチェルには、ゾイドの悲痛な言葉は聞こえていない。
レイチェルの地味な茶色い瞳には、何か幻を写して、力のないその体は、ゆっくりと発動した竜紋の魔術にその身を任せていた。
「レイチェル!!お願いだ!!行くな!!」
悲痛なゾイドの声が石室に響き渡る。
やがて、レイチェルは瞳を閉じて、意識を失い、刺繍の紡いだ白く光る魔力の渦に、飲まれて行った。
ゆっくり、ゆっくりとその小さな体は天女達に導かれ、空に誘われる。
「レイチェル!レイチェル!」
ゾイドの叫びが響き渡る。
(レイチェル。。。!!!)
悲痛な叫びを唱えるゾイドの側で、茫然と立ち尽くしていたテオは、急に、ハッと正気に戻り、ゾイドの結界の一部を破ってレイチェルの横に飛び込んだ。
一部でもあっても、ゾイドの最高出力で築いた結界を破る事ができる人間は、テオを除いてはこの国には存在しない。
「行かせない、レイチェル、正気に戻れ!!」
テオは意識を失い、魔力の渦に身を任せているレイチェルのそばに飛び込んで抱き抱えると、力の限り、能力の限り、魔力の限り、いくつもの強力な錠をかけて、レイチェルとテオの肉体を繋いだ。
「レイチェル!!!」
ギュン、ギュンと強い銀の魔力が発動する。城は歪み、雷雲は嵐をよんだ。
。。。竜の魔力が、発動したのだ。
そして。
テオとレイチェルは、ゾイドの目の前から、消えた。




