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それは、先日レイチェルが散々テオに読まされた、古文書の中にあった絵と、全く同じ、非常に薄い布に、複雑な刺繍が施されているものだった。
太古のものだと言うのに、まだ表面には途切れ途切れながらも魔力の痕跡がある。発動すれば、竜人の国まで術者を連れてゆくと言う。
「。。やはり、この刺し方は東の国の技術ですわね。使った針は、おそらく黄金によるもの。。ほら。黄金で刺すと、針穴が縦に閉じるんです。」
薄いその布を手にしたレイチェルは、すぐにこの刺繍の特殊性に気が付いた。
(当時のアストリアに、東の国の刺繍技術があるなんて。。。)
「お、黄金の刺繍針は、どどどどんな時に、つ、使うんだ?」
「そうですね。。私は、使ったことがないのですが、神殿の乙女は、女神に捧げる刺繍には、黄金の針を使うと聞いています。穢れが寄ってこないとか。でも、高価な上にすぐに針先が駄目になるので、一般的に使うものではありません。」
テオも、そしてゾイドも、気にも止めていなかった利用された刺繍針についての新発見に、心が躍る。
「さ、祭祀用だ!」
テオはもう、興奮が隠しきれなくて、息も荒くレイチェルの周りを行ったりきたりグルグル回り続けて、非常に鬱陶しい。
手芸に情熱を傾け、そして(一応ではあるが)神殿の乙女であるレイチェルにしか、この事実はわかり得なかった事実だ。
レイチェルは、テオは無視する事として、観察を続ける。
布に刺されている刺繍は、綻んではいるが、技術的に複雑で精緻な刺繍が施してある事が窺える。手間のかかる東の国の方法で刺されていることは理解できたが、レイチェルはこの紋様自体は、知らない。
「な、何かの魔術を発動させるための、竜紋の一つとだけ伝わるが。お。おそらくは、転移魔法だ。」
テオは、曲線で構成されている、レイチェルの知らない紋様の跡を、はあはあと、その細い震える指先で撫でた。
転移魔法の紋に利用される細かい特徴が、いくつもこの刺繍には見られるのだ。
古文書によると、リンデンバーグに迎えられた当初は、表面に走る魔力で布自体が浮揚するほど、強い術式が縫い込まれた布であったらしい。
「。。この布は、始祖が、王家から臣下に下った際に持ってきたものだ。」
ゾイドがそっと後ろから、レイチェルの薄い肩を抱き、この布の謂れを説明する。
リンデンバーグ家の始祖は、アストリア王の即妃から生を受けた、王家の三人目の王子であった。
北の蛮族の討伐後、臣籍にくだり、このリンデンバーグ領を治める初代魔法伯爵となったことが、この由緒正しい魔法伯爵家の長い歴史の始まりだ。リンデンバーグ家の歴史書の、最初に記されている。
始祖の母である女性、当時のアストリア王の妃の一人であった女性について、わかっていることは非常に少ない。
その出身地も、その親兄弟も、その名前すら、なにも判明していない。
伝説では、その女性が、竜の棲まう国からやってきた竜人であったとか。
この女性が、竜人の羽を、この地にもたらした人物だと言う。
息を凝らしながら、レイチェルは刺繍のその糸使い、針捌きに、注意深く目を落としてゆく。
(。。。これはまるで。。)
レイチェルは、おそらく、どんな魔術士でも、どんな研究者でも、決して、おそらく気がつかなかったであろう事を、この刺繍から、感じ取っていた。
レイチェルは、手芸オタクだ。
それも、病的なまでの。
残念令嬢と揶揄されても、どうしても突き動かされてしまう手芸への愛と、情熱に翻弄されてきた。
手芸に情熱を捧げたものなら皆そうであるように、その針の跡、糸の運び、糸つぎの痕跡で、刺繍の刺し手の考えや、心の移ろいや、その人物が、どのような人間性であったか、レイチェルは感じ取れる。
ゆっくりと、刺繍の糸を、探るように、いとしむ様に、レイチェルは触れていった。
「。。レイチェル、何が分かった?」
愛おしいゾイドの耳元でささやく甘い囁きも、レイチェルの耳にはもう聞こえてこない。
レイチェルの世界には、たった二人。遠い古代の、刺繍の刺し手と、レイチェルは、静かな対話を始めているのだ。
貴公子達は、レイチェルの目が、宝物庫で目を白黒させていた若い娘の目ではなく、誇り高い、熟練の手芸職人の目になった事を認めた。
(。。これは、女性の手による、丁寧なものね。。これ、ひと針ひと針、じっくり、じっくり時間をかけている。。。まるで、何か、大切な人の事を、祈るような。。)
レイチェルは、ゆっくりと、注意深く、もう糸が無くなってしまった針跡に触れる。
(ここは、魔術の発動には関係のないものが刺されていたわ。。私なら、何を刺すかしら。私なら、ここに。。)
レイチェルは、ほとんど酩酊状態で、刺繍と向き合っていた。
短く無い時間が、レイチェルと、刺繍の間に流れてゆく。
ゾイドもテオも、一言も発せずに、レイチェルを見守る。
どのくらいの時間が立っただろうか。
「羽だわ!!」
レイチェルは、いきなり叫ぶと、その場に、全く躊躇なく座り込み。
そして、ぎょっとしている二人を尻目に、テオが用意していた、銀の針を手にした。
「よくって、お二人とも。決して、決して邪魔をしないでくださいまし。」




