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レイチェルが刺していたのは、アストリアに伝わる、ごく一般的な薔薇の伝統紋様だ。
丸く施された、薔薇の蔓に絡まる3つの薔薇。
蕾と、少し開花した薔薇と、そして満開の薔薇の3つ。
若い娘が美しい女性へと成長する様にとの願いを込めて、よくアストリアの若い娘が身に纏う、ありふれたアストリア伝統の紋様。
薔薇の周りを、何匹もの蝶が舞って、良い未来の伴侶にご縁がある様にとの願いも込められている。舞う蝶の数が多い方が出会いが多いとかで、未婚の娘は多くの蝶を刺繍して、良い出会いを願うのだ。
刺繍としては、上級者向きの紋様だが、そう珍しいものではなく、小物を扱う店であれば、どこでも一つは扱っている様な、平凡といえば平凡なもの。
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「だから、アストリアでは誰だって知ってる様な、一般的な紋様なんですってば!」
「そうですね、レイチェル。街でも時々目にします。」
「。。。。」
口を尖らせて抗議する機嫌の悪いレイチェルの頭を撫でながら、ゾイドは久しぶりに、レイチェルを前にしても、仮面の様な、無表情の魔道士の顔のままだ。
テオに至っては、何も言わずにメガネを外して魔道具である特殊なレンズを片目に挟み、何かを計測しながら、手元の書き付けに何やらしたためている。
レイチェルは早馬で駆けつけた貴公子二人の顔と、裏切り者のジジの顔を順番に見て、ため息をついた。
折角、やっと刺繍に集中できると思ったら、この騒ぎだ。
「一体皆して、こんな普通のハンカチの刺繍に、わざわざ集まって、どうしたのよ。。」
レイチェルは、憤慨する。確かに、レイチェルは嘘は言っていない。何一つ変わったところのない、普通の刺繍だ、
。。。使われた、糸以外は。
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「どうだ、テオ」
しばらくの沈黙ののち、ゾイドは固い声を発した。
「ま、間違いない。は、発動する。。信じられない。。術式すら、くくく組んでいないのに。。」
ジジは、まだ子供の姿の時の様に、美しい金色の靴をブラブラさせながら、天井を仰ぐ。人払いをしているとはいえ、こんな格好は次期公国の大公としては、失格だ。
「二人して、レイチェルの何を監視してるのよ!この子がやらかすとしたら、手芸に決まってるじゃない。道具も全部洗い直した方がいいんじゃない?」
ジジは、レイチェルの年季の入った手芸用品の入ったバスケットを指差す。
「。。手芸の知識が必要だな。。。ジジ、手柄だ。お前以外にこの事態が理解できただろう人物を、私は思いつかない。」
ゾイドはぽそりと呟いた。
「。。ジ、ジジジジジジ、ジジ、恩に着る。ああ、あれは、あの銀の糸は、間違いない。飛龍の、た、体毛だ。」
テオは、ジジと顔を合わせずに、だが丁寧に、礼を口にする。
「へーええ、やっぱり正体はメリルだったのね、あの銀の蝶。レイチェル、あんたとんでもないもので刺繍したのね。なんでまた、そんな物騒なもんで刺繍しようと思ったよの。。」
「えっと、、、メリルと寝っ転がりながら、刺繍してたの。。それで、銀の糸が足りなくて。。。そしたら、長くて綺麗な銀の糸が、ちょっとだけメリルの鱗からはみ出てて。。わざわざ銀の糸を塔まで取りに帰るのが、面倒だったから、これでいいかなって、つい。。。」
レイチェルは、妙なところで自分のズボラが白日の元にさらされて、赤面だ。
ジジは呆れてレイチェルを見る。
「聞いた?レイチェルは、ズボラで面倒くさがりなのよ。メリルの生態も結構だけど、レイチェルの生態をしっかり把握してないと、行動が読めなくてこんなハメになるのよ。しっかり記録しときなさい。」
そう言い放つと、ツカツカとテオの元まで歩いてゆき、つい、とテオの手元の書き付けを覗き見すべく、ジジはテオの首筋に顔を突っ込んだ。
「ギャああああああ!!!離れろ!!!!」
急に現れたジジの麗しい横顔に、腰が抜けそうになったテオを、ジジはゲラゲラ笑う。
「ははは!テオの女嫌いは相変わらずね!やっぱり成長した姿の綺麗な私じゃ、もう口聞いてくれないかと思ってたのよ!」
ジジはひいひいと、腹を抱えて笑う。
「ううううるさい!」
「何よ、子供の姿の時は膝にだって載せてくれたのに、もう私は膝に載せてくれないの?」
ジジの加虐心に火がついてしまったらしい。ジジはテオを追いかけて、膝の上に乗っかろうと、ニヤニヤしながらテオを追いかけ回す。次期大公は、まだ淑女教育が足りていない様子。
「お、女は嫌いだ。こ、子供は、だだだ大丈夫だ。。」
半泣きのテオは、部屋中を逃げ惑い、ジジは、ここの所のストレスを一気に発散しようと、折角の美しい赤いドレスを、子供の様に翻して追いかけ回す。
呆れたゾイドがようやく、間に入る。
「さあ、ジジ、そうテオをいじめるのはやめてやれ。二人とも。そろそろ本題に入ろう。」
二人とも、その一言で、すぐに、研究者としての仕事人の顔に戻って、レイチェルの周りをぐるりと取り囲んだ。
「レイチェル、その蝶の刺繍を見てご覧。」
声は優しいが、ゾイドは表情の全く読めない顔で、そっとレイチェルの手元の刺繍の、銀の蝶を指差して、その細い指先から、小さく魔力を放った。
「竜だ。」
次の瞬間、レイチェルのハンカチの、3匹の小さな銀の蝶は、レイチェルの手を離れると、大きな咆哮を放ち、銀の竜の柱となり、空に消え去った。




